斎藤美奈子の孤独な闘い――『日本の同時代小説』(8)

「二〇〇〇年代」の小説では、芥川賞をダブルで受賞した、綿矢りさ『蹴りたい背中』(2003)と、金原ひとみ『蛇にピアス』(2003)くらいまでは、僕はついていく姿勢を持っていた。とにかく面白かったから。

「二冊はまるでちがった小説のようですが、『私』のアイデンティティが分裂している点で共通します。ネット上での『なりすまし』やボディピアスなどの肉体改造によって、いともたやすく別人格を演じる、あるいは複数の人格を使い分ける若者たち。『私らしさ』にこだわった八〇年代の少女たちと比べると、まるで宇宙人のよう。」
 
でも、ここから後は、ついていけなくなる。

『野ブタ。をプロデュース』(白岩玄、2004、文藝賞)、『黒冷水』(羽田圭介、2003、文藝賞)、『阿修羅ガール』(舞城王太郎、2003、三島賞)、『1000の小説とバックベアード』(佐藤友哉、2007、三島賞)。
 
斎藤美奈子が、続けて取り上げる作品だが、解説を読んでも、まったく気を惹かない。

「兄弟が陰で罠をしかけあう『黒冷水』といい、匿名の掲示板が凶器と化す『阿修羅ガール』といい、青春小説の域を超えた異常な世界なのは事実です。彼らは目に見えない相手と戦っており、しかも自分の中の破壊衝動を抑えることができません。」
 
これは、僕には無縁、とは言わないまでも、敬遠したくなるような世界だ。
 
それを、斎藤美奈子は、果敢に踏み込んで読む。それは僕から見れば、驚異的なことだ。
 
ここからは、小説全体としてのイメージを、僕は持っていない。
 
もちろん読んでいるものもある。『バトル・ロワイアル』(高見広春、1999)、『希望の国のエクソダス』(村上龍、2000)、『決壊』(平野啓一郎、2008)、『悪人』(吉田修一、2007)。

「〇〇年代の特徴は、それが純文学の世界にも津波のように押しよせてきたことです。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り。彼らに同情するもどうにもできない女たち。〇〇年代の小説世界は、ムルソー(『異邦人』)やラスコーリニコフ(『罪と罰』)やスメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』)だらけです。」
 
なるほど、考えてみれば、そういう言い方もできるな。
 
でも、と考え直してみる。『決壊』も『悪人』も、こちらがのめり込んでいくような、重心がぐらつくような迫力をもっては、書かれていないのではないか。
 
そういう議論が、『日本の同時代小説』を読んでいると、僕と本文で、自然にできるのだ。つまり、自分の方で、読んだものをもう一度、自覚することができるのだ。
 
それは、批評を読む上での、最低限度の機能ではないか。そういう声が、すぐに聞こえてきそうである。
 
しかしいまでは、斎藤美奈子を除いては、そういうふうに、こちらが自覚的に本を読むことのできそうな批評家はいないのだ。

少し補足をしておく。この本は、第6章「二〇一〇年代 ディストピアを超えて」が最終章になっている。
 
そこでは『スタッキング可能』(松田青子、2013)のような、これから読んでみようと思う小説も挙げられている。
 
けれども、最後に挙げられているのは、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のリバイバルである。

「純文学のDNAに縛られて、ニヒリズムを気取っているだけが能ではない、絶望をばらまくだけでは何も変わらない。せめて『一矢報いる姿勢』だけでも見せてほしい。読者が求めているのは、そういうことではないでしょうか。」
 
それを求めているのは、著者も同じことだ。いや、斎藤美奈子は、もっと深いところで、絶望を隠して、闘っているのではないか。

(『日本の同時代小説』斎藤美奈子、岩波新書、2018年11月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:23Comment(0)日記