まるで下北沢・小劇場だな――『スタッキング可能』(1)

松田青子は、『スタッキング可能』で教祖のように登場した、と斎藤美奈子の『日本の同時代小説』に書かれていた。

いや、教祖ではなかったかもしれないが、そういうインパクトのある言葉だった。

これは発売当初、書店で見ている。ぱらぱらとめくったが、いかにも著者が独りよがりで、とんがり過ぎていて、これはちょっとという感じだった。

しかし、斎藤美奈子の言葉には、考え直させる力がある。

まず最初に、スタッキングとは、揃いの食器や椅子などを積み重ねること。それが可能であるとは、オフィスの中では、どんな人間も、取り換え可能だということ。

そのために登場人物たちは、D田、A田、B田……と呼ばれ、固有名詞は剥奪されている。これが『スタッキング可能』の意味である。
 
そこではたとえば、こういう独白が生まれる。

「『わたし』は絶望した。終わってる、この世界、終わってる、と思った。
 笑顔がかわいい。えくぼがかわいい。天然でかわいい。家庭的でいい。やさしい。
 男たちが好きな女のナイスポイントをあげつらうたびに、『わたし』はそんな女になりたくないと思った。死んでもなりたくない。」
 
女も男も、「スタッキング可能」という意味では、同じことだ。しかし女は、男との関係で、固有の存在を、二重に剝奪されている。

「『わたし』は笑うのをやめた。無理して合わせようとするのをやめた。何があっても目の前に出てきたシーザーサラダを取り分けないと決めた。そうすると男たちにこわいと言われた。陰口を叩かれた。でもその方がずっとマシだった。……これは戦いだと『わたし』は思った。」
 
もちろん会社には、いろんな人がいる。たとえば、仕事さえやっていれば、基本的には放っておいてくれるのがいい、D山みたいな。

「……D山は自信を持って言えた。彼らより、誰より、私が一番ここにいないと。
 どうも自分はうまくやれない。この世界は居具合が悪い。理由なんて別にない。もう幼稚園からわかっていた。友達の、同級生の、周りにいる人たちの、話している内容が理解できない、意味がわからない、面白いと思えない。なぜどうでもいいことをいちいちずっとしゃべっているのか。それに合わせるとすごく疲れる。……
 D山を救ってくれたのは、噓みたいだけど、会社だった。」
 
とにかく、いろんな人がいる。
 
しかし、それを全部含めて、「スタッキング可能」であるのだ。
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こんなところで小技とは――『むらさきのスカートの女』(2)

『むらさきのスカートの女』は、後半に入ると、ちょっと活劇調というか、ドラマが起きる。
 
むらさきのスカートの女と、所長が、仲良くなるのである。それはすでに、職場の女性たちの噂になっている。

ある日の日曜日、二人で出かけるのを、「わたし」が後をつける。
 
一日、デートをする、といっても、二人は「スピード」と「ダーティーハリー」の二本立てを見たり、居酒屋に入ったりするだけだ。その二本立ても、「スピード」を見たら出てしまう。中年の、行き場のない倦怠感が、よく出ている。
 
その夜、所長は、むらさきのスカートの女のところに泊まる。彼にしてみれば、ちょっとした浮気、というところ。
 
それから数日たって、むらさきのスカートの女と、所長は、いさかいを起こし、所長は二階の外階段から落ち、脳震盪を起こす。
 
ここで、「わたし」が現れる。

「『しー。静かに』
 と、わたしは言った。
 むらさきのスカートの女がこちらを向いた。その顔は真っ白で、涙と鼻水でびしょびしょになっていた。
『ちょっと見せてくれるかな』
 わたしは、所長とむらさきのスカートの女の間にしゃがみ込んだ。
 まず、所長の右の手首を持ち上げて、それから左手首を持ち上げた。所長のあごの下に指を二本当て、口元に耳を近づけた。むらさきのスカートの女は黙ってそのようすを見ていた。わたしは少しの沈黙ののち、顔を上げ、言った。
『これは、残念だけど、死んでるわ』」
 
これがヤマ場、と言ってもいい。
 
もちろん所長は死んでない。脳震盪を起こしただけだ。だからヤマ場といっても、微妙に外してある。
 
しかし「わたし」は、むらさきのスカートの女に、所長は死んだと話し、動転したむらさきのスカートの女は、「わたし」の指示で現場を離れる。
 
しかし、むらさきのスカートの女は、現場を離れただけで、どこへ行ったかはわからない。そうして今に至るも、雲隠れしたままだ。

「わたし」は、病院で所長と相対する。給料を上げてくれるように、所長に直訴する。ここがなかなか面白い。

「できるわけないでしょう! ……よっぽど普段の仕事ぶりが評価されてなければその審査にかけられない。仮に権藤さんが審査にかけられたとして、自分で通ると思ってるの? 遅刻、早退、無断欠勤、あなたね、今までクビになってないのが不思議なくらいだよ。仕事中もしょっちゅうふらっといなくなるって、他のスタッフからどれだけ苦情が来てるか知ってるの? 昇給は、無し。ありません」
 
しかし「わたし」は昇給する。所長がかつて、仕事場のホテルで、女優のパンツを盗んだことを、誰にも言わないことを取引材料にして。
 
ここではまた、「わたし」が、むらさきのスカートの女を微細に観察していたことが、いわば種明かしされている。
 
でもほんとうは、こんな種明かし、小技は不要なことだ。

「むらさきのスカートの女」を、じっと見ている「わたし」の、あり得ない不気味さが、終わりに来て、いくぶんか損なわれた。それが残念だ。
 
さらに蛇足を付け加えれば、『むらさきのスカートの女』は、『ピクニック』の発展したものだ。二つを読み比べてみると、深化の度合いが分かって面白い。

(『むらさきのスカートの女』
 今村夏子、朝日新聞出版、2019年6月30日初刷、8月30日第4刷)
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こんなところで小技とは――『むらさきのスカートの女』(1)

今村夏子の芥川賞受賞作である。
 
近くに住む、「むらさきのスカートの女」のことが、「わたし」は気になって方がない。なんとか友だちになりたくて、それとなく同じ職場に誘導するが、なかなか友だちにはなれない。
 
例によって今村夏子の筆法だから、「むらさきのスカートの女」はかなり変である。
 
しかし、読み進むにつれて、もう一人、小説の語り手である「わたし」も、そうとう変であることに気づかされる。
 
だいたい同じ職場であれば、ひと声かければ、すぐ友だちになれるではないか。
 
しかしそれでは、物語はあっという間に、というか始まる前に終わってしまう。
 
そこは、今村夏子の筆によって紆余曲折、というほどのこともないのだか、とにかくそういう事情が生まれる。例えば、通勤バスで起こったこんなこと。

「身動きの取れないこの状況で、わたしは先ほどからむらさきのスカートの女の右肩にご飯粒が付いているのが気になっていた。
 乾いて固くなったご飯粒だった。塚田チーフに朝は米を食べろと言われたから実践しているのかもしれない。もしかすると、もう何日も前から付いたままになっているのかも。取ってあげたいのだが、この状況だから手指を動かすのにも苦労する。」
 
なかなか滑稽である。しかしこれは、発端に過ぎない。

「わたし」が意を決して、ご飯粒を取ってあげようとしたとき、「バスが急カーブに差しかかり、車体が左右に大きく揺れた。その拍子に、わたしはご飯粒ではなくて、むらさきのスカートの女の鼻をつまんでしまった。
『んがっ』
 と、むらさきのスカートの女がまぬけな声を出した。わたしは慌てて手を引っ込めた。」
 
ここまででも、なかなか面白いが、これは起承転結で言えば、「起」と「承」にすぎない。
 
このあと、むらさきのスカートの女は、だれが鼻をつまんだのか、ということはさておき、お尻を触ったサラリーマン風の男を、交番に突き出し(「転」)、会社に遅刻してしまう(「結」)。
 
少しずれたところで、滑稽なことが起こる。今村夏子の小説は、そんなふうである。
 
ところが今回は、ちょっと違う。
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変なのは主人公なのか著者なのか――『こちらあみ子』

今村夏子は、『あひる』というのを読んで、奇妙な面白さが印象に残った。

あひるが家からいなくなって、そうして帰ってくるたびに、もといたあひるとは、少し違っている、という話である。

こんなんが小説になるんかい、という話だが、それがなるんですね。というか、むしろ小説にしかならない。
 
そして今度は芥川賞である。書店へ行くと、芥川賞の『むらさきのスカートの女』と合わせて、最初の本の『こちらあみ子』も置かれている。
 
というわけで、最初から読むことにする。
 
結論から言ってしまうと、「こちらあみ子」は、もひとつ面白くはない。あと2篇、「ピクニック」と「チズさん」が入っていて、「ピクニック」の方は、ちょっと面白い。

「こちらあみ子」は、大人になったあみ子が、回想する形式の小説である。

両親と兄がいて、母親は後妻であり、あみ子と兄の、実の母親ではない。しかし親子の葛藤が描かれているわけではない。

そこは今村夏子独特の、ねじれと距離感で書かれている。

初めてこれを読んだ人は、特に編集者は、処女作でこれは脈あり、と思うだろう。
 
しかし、さきに「あひる」を読んでしまうと、こちらの奇妙さが際立っていて、「あみ子」はもう一つと思ってしまう。

「ピクニック」は、「ローラーシューズを履いた女の子たちがビキニ姿で接客しますという謳い文句を掲げた『ローラーガーデン』」、が舞台の物語である。
 
そこに七瀬さんという、ちょっと薹(とう)の立った女が現れて、この女がやっぱり奇妙だ。
 
これも、今村夏子の文体で書かれているので、この女が変なのか、これを記している著者、つまり今村夏子が変なのかは、わからない。

「よろしくね七瀬さん。ルミたちがステージの上から挨拶すると、七瀬さんは成熟した大人の女のひとらしく『よろしくお願いいたします』と言ったあと深々と頭を下げた。とても大きな胸だった。でも美しいとは言いがたい。左の脇腹には虫刺されの赤いあとがある。」
 
冒頭の一説だが、今村夏子の絶妙の、はぐらかしぶりが分かるだろう。これが意識的なものかどうかは、わからない。

(『こちらあみ子』
今村夏子、ちくま文庫、2014年6月10日初刷、2019年7月30日第7刷)
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13人の「墓碑銘」――『オウム真理教 偽りの救済』

著者の瀬口晴義は、東京新聞の社会部記者。95年3月の地下鉄サリン事件以降、オウム事件の報道にかかわり、裁判の取材や、死刑囚らとの面会、手紙のやりとりを重ねてきた。
 
去年、2018年7月6日に、麻原彰晃・早川紀代秀・新実智光・井上嘉浩・中川智正・遠藤誠一・土谷正実が死刑になり、7月26日には、広瀬健一・豊田亨・林泰男・横山真人・岡崎一明・端本悟が死刑になった。
 
これで、オウム真理教の確定死刑囚13人が死刑になった。一区切りというわけで、オウムの全貌を見渡して、そういう本を書いたのである。
 
橋本治の『宗教なんかこわくない!』でも書いたように、私はこれまで、法蔵館にいるときに、「別冊・仏教」として『オウム真理教事件』を出し、そこから派生して、森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』を出した。
 
そして続けて、島田裕巳さんのオウム論を、書き下ろしで出そうとしたが、それが通らなかったので、そういうこともあって、トランスビューを作り、島田さんの『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのかー』を最初に出版した。
 
しかし、今度この本を読んでみて、私は、オウムの内側に興味を持っていたわけではない、ということが、今さらながらよく分かった。
 
もちろん精神の世界には、強く惹かれる。というか、ほとんどそこにしか興味はない。しかし麻原彰晃の開示する世界には、一目見た時から、強烈な嫌悪感しか感じなかった。あの、高田馬場の書店で見た、麻原彰晃の空中浮揚写真が、カバーに印刷されている本だ。
 
もちろん強烈な嫌悪感というものは、容易に反転しがちだ。それは、肝に銘じておく必要がある。

しかしそれでも、オウムのいう「精神世界」は、人間精神の働きのごく一部、それも、かなり偏った動きの一部である。「空中浮揚写真」に、オウムの「精神世界」の一端が現れているなら、それは見世物小屋と大差がない。

「麻原を『師』に選ばなければ、死刑になった12人は実直に生きてそれぞれの立場で社会に貢献した人たちだ、と私は断言できる。彼らは罪を裁かれるべき加害者であると同時に、麻原に人生を奪われた被害者の面も併せ持つ。これがオウム事件の本質だ。」
 
たしかに、そういえるかもしれない。

しかし、まず最初に麻原に興味を惹かれて、そこに参加してみなければ、そういうことは起こらなかった。その最初の一歩は、重要な点だろう。
 
この本を読むと、オウム真理教団は、テレビに出てきたときには、坂本弁護士一家を惨殺しており、今さらながら、そういう嘘は、見抜けなかったのかと思う。
 
弁護士一家の惨殺が、もう一方からすれば、「ボアによる転生」とみる見方の、怖ろしいところである。殺人にかかわった人間は、それを頭から信じているから、テレビに出てきても、その瞳には少しの陰りもない。
 
それで地下鉄に、サリンを撒くところまで行くわけだ。
 
この本は、刑事裁判も丁寧に追ってあり、麻原の裁判が、なぜ一審だけで終了したのかということも、よくわかった。
 
これは、一般に弁護側の不手際と取られることが多いが、そしてそういう面もあるにはあるが、根本的には麻原が悪いのだ、ということがよく分かった。
 
麻原はもう、裁判は嫌になったのではないか。なんと無責任な、とあきれるしかないが、しかし、そういうことだと思う。罪の重さを考えれば、二審、三審で、自分のやったことを、何度も明るみに出されるのは、たまらなかったのだと思う。とにかく目を背けたいと思ったのだ、ということが、よくわかるような気がする。
 
この本の最後に、付録のように2段組で、死刑囚一人ずつの、著者とのかかわりが出てくる。題して「墓碑銘」。私は、ここを最初に読んで、買おうと決めたのだった。

(『オウム真理教 偽りの救済』瀬口晴義、
 発行・集英社クリエイティブ、発売・集英社、2019年6月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 14:22Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(8)

冷蔵庫のビールは無くなったようだ。しかしNやんは、まだ腰を上げずに黙ったままだ。もう少し、『夏物語』の余韻を楽しむつもりなのか。
 
僕の方が口を開く。

「考えてみると、この小説には、まだ続編がありそうやな。夏子の子どもが生まれてくるんでもいいし、設定はがらっと変えてもいいけど、この物語には続編がある」

「なんでや、どんなんや」

「ここに来て、日本人の女が、子どもを産むことに、それほど積極的やない、と思わんか」

「それはもう、ずっとそうや」

「個別に考えたら、それこそいろんなタイプの女がいて、千差万別やろけど、全体としては、積極的に産もうという気はない」

「それは、年間の出生数を見たって、夫婦二人から生まれるのが、おおかた1.5人やから、このままでいくと、日本人は滅びざるをえんな。ほんまにもう、困ったことやで」

「と口では、そういうけども、お前がほんまに困ってるのんは、見たことがない。そもそもNやんは、悦ちゃんとの間に、子どもを持っとらんやないか」

「それは、俺ら夫婦は、結婚が遅かったからや。向こうも仕事持ってて、油が乗ってくるころやったしな」

「そうやな。仕事と子どもを秤にかけりゃ、仕事が重たい渡世の義理、ということが、しばしばあるな」

「女唐獅子牡丹やな。ほんでも必ずしも、仕事と子どもを秤にかけりゃ、ということもないで。やっぱり女の方が、男に比べて、はっきり実入りが悪いし、育児休暇も、男は取りよらん。女の方が圧倒的に、子育てのしわ寄せを受けとる」

「それでも、だから子どもは、よう産まんというのは、この時代特有のことや。だいたい子どもを、仕事やなんかと秤にかけるというのが、実際には新しい考えやと思うんや」

「それだけ女の方も、ひとりの人格として、自覚できるようになってきたちゅうことや」

「しかし、だからというて、将来産まんような女ばっかりになって、日本人は死に絶えました、というふうになってもええんかいな。まあ、しゃあないのかな」

「せやからもうちょっと、男が協力してもええやないか。そう思わんか?」

「まあ事実、ヨーロッパでは、出生率はそれほど落ちてないしな」

「しかし、今の日本では、その辺は望み薄やねえ」

「でもな、将来の日本人という点では、外国人を日本人として入れようとしてるから、何とかなるんとちゃうか」

「大相撲の原理やな。『日本の国技』という表看板はそのままに、内実はモンゴル人が牛耳っている。それで、ようやってるのは、将来の帰化を視野に入れてる。今年からこれを、大相撲から日本国に変えて、大々的にやろうっちゅうわけや。うまいこと行くかどうかは、わからんけどな。ところで未映ちゃんの続編の話は、どないなっとるんや」

「そないに大げさなことにはならんやろけど、というか話の方向が違うてしもたけど、しかしこの続きは、ありそうな気がする」

「ワシは未映ちゃんに、是非、『お笑い純文学』をかいてほしい。これまでの、文学にユーモアを、というのは、未映ちゃんを読んだ後では、どれも木端微塵や。最初から終わりまで、笑い死にしそうでどもならん、今わの際には、未映ちゃんを読んでから笑って死ね、というふうになってほしい」

「むちゃくちゃやな。俺はなあ……『ヘヴン』が好きなんや。緊密な文体が、最後へ来て、内容とともに垂直に真上に抜けていく。これは誰にも真似のできんこっちゃ。ああいうのを書いてほしい」

というところで、田中晶子が帰ってきた。Nやんは、そそくさと帰り支度をはじめ、あっという間にいなくなった。

(『夏物語』川上未映子、文藝春秋、2019年7月10日初刷)
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詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(7)

陽はすっかり暮れた。田中晶子がもうすぐ帰ってくる。Nやんは、泊まるのかどうか。その都合も聞かぬ間に、息せき切って話し出す。

「緑子がアルバイトで働いてるレストランな、ここはビルの一階になってて、その上に整体と占いとコンサルが合体したような、わけの分からん店が入っとんねやわ。ほんで洋食屋のある一階が、電気工事をやるんやけど、これがうるそうて、二階から文句を言うてくるわけや」

「毎日、文句言うてきて、その時だけは、ぶつくさ言いながら帰るねんけど、翌日になると、また同じ文句を言うてくる。要するに、一日の記憶は一日で消える、という珍しいパターンやね」

「その二階の店から、なんといたちが降ってくるんや。ここ、緑子と夏子の会話や。
『「そしたらさ、ある日とつぜんいきなり天井の板がぼこって外れて、そこからいたちが落ちてきてん」
「店に?」
「お客さんがおるときやったからもう、何がどうなってんていうくらいの大騒ぎになってべつに高級な店じゃないし普通の洋食屋みたいなところやけど、でもいきなり上からいたちがぼこんゆうて落ちてきたら、やっぱりそれはびっくりするやん?」
「するよそれは」わたしは肯いた。
 ……
「せやけどいたちも命がけやな。厨房で鍋のなかに落ちたらスープになるで」
「それがうまいこと店のほうに落ちてくんねん」緑子が言った。』
ここから、怒り心頭のレストランの店長が登場して、ひっちゃかめっちゃかになるんや」

「そこは俺が読もうか。
『「んで、うちの店長が、こんなんおかしい、いくらビルが古くても汚い運河がそばにあっても、こんなんぜったいおかしすぎるって言いだして。んで、いたち送りこんできてんのはぜったい上のスピサロンやゆうて。んで苦情言いに行くってなってさ。そしたらスピは否定して――って、そらそうやんな、どうやっていたちなんか送りこむねんな。捕まえるのも難しいし、そんなんして誰の何になる?」』
まあ、そらそうや。」

「いかにも大阪で、ほんまにおもろい」

「しかしまだあるんやな、これが。
『「……それで店長もちょっと頭おかしなってんのか、もうぜったいスピの仕業や言うねん。ミーティングやゆうてわたしら残らされて、なんか壮大な陰謀論とか展開しだして。上のスピとどこそこの宗教団体がつながってて、最初のメメント騒ぎもぜんぶ仕込みやってことになって、盗聴器しこまれてるおそれがあるとかなんとかゆうてジェスチャーしだしたり……完全に頭おかしいやろ」』

「ここ、もう、なんとも言えんね。しかも最後に、オチがつくんや。そこはワシが読むわ。
『「んでけっきょく上と下で戦争みたいな状態になって。それでもまだぼこんいうて落ちてくるし。客もけえへんなってまうし。わたし和ませよと思って店長に『いっそのこと店の名前、〈リストランテいたち〉に変えたらどうですの』って言うたってん。そしたら『なんでうちが名前変えなあかんねん、そんなもん上が先に変えるのが筋やろ』みたいな返しきて。そっちなんっていう。んで今度いたち落ちてきたら捕まえて下から上に押し返す、一匹残らず押し返していく、そのための練習もするぞみたいなことも言いだして……なあ夏ちゃん、これがほんまの『いたちごっこ』とちゃうのん……」』」

「くっくっくっ……」
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詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(6)

夏の長い日も、さすがに暮れかけてくる。Nやんは、ちょっと黙った後、言葉を継いだ。

「もう一人、善百合子という女が、登場してくる。この女は逢沢潤と同じで、AID(第三者の精子を利用した人工授精)で生まれてくるんやけど、社会的に父親の役割をしてる男に、散々レイプされるんよ。」

「うん、この善百合子が、もっとも強硬な妊娠否定論者やね。そこを読むと、
『「……どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」』
この女の考えは、仙川涼子の、小説を取るか、子どもをとるか、よりももっと深い」

「もうちょっと後で、善百合子は、より根源的なことを言うんや。ここはちょっと長いけど、未映ちゃんの、もっとも未映ちゃんらしいとこや。ここがほんまのキモや。
『「生まれてきてよかったと言わせたい、自分たちが信じているものをおなじように信じられる人生にとどまらせたいがために――つまり自分たちの身勝手な賭けに負けないために、親や医者たちは、頼まれもしないのに命をつくる。ときには小さな体を切って、縫って、管を通して機械につないで、たくさんの血を流させる。そしてたくさんの子どもたちが、痛みそのものとして死んでいく。するとみんな、親に同情するわね。かわいそうに、これ以上の悲しみはないってね。そして親たちも涙を流して、その悲しみを乗り越えようとして、それでも生まれてきてくれてうれしかった、ありがとうって言うんだよ。彼らは本心からそれを言うんだよ。でも、ねえ、そのありがとうっていうのは何? それは誰に言っているの? いったい誰のために、いったい何のために、その痛みでしかなかった存在は生まれてきたの?」』
その後も、より踏み込んだところに、入っていくことになる」

「哲学者・川上未映子の面目躍如やね。最後に善百合子は、こういうことを言うんや。
『「……生まれた瞬間から死ぬまで苦しみを生きる子どもは、誰であったとしても、でも、あなたではないのだもの。生まれてきたことを後悔する子どもは、あなたではないもの」』
これは究極、我が子であっても、人間は他者を理解できない、徹底的に理解できない。人間の個我、人は徹底的に孤独や、という問題や。たとえ親子であっても、ちっちゃい子やってもな」

「ここから、大きな大団円に向かうところは、ちょっと種明かしという趣もあるから、小説の具体的な話はここまでにしようや」

「うん。しかし交響曲で言えば、最後のクライマックスに至る前に、ガタンとオチがくる、そこがほんまに秀逸や。やっぱり川上未映子は、天才的というか、天才的いちびりというか」

「ここが二度目の、笑い死にしそうなとこや。例のいたちが出る話、いやもうほんまに、未映ちゃん、荘厳なクライマックスの前に、こんなオチ作るんやもん、ほんまにどもならんで」
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詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(5)

「仙川涼子が、編集一筋、子供を持つことなんか脇道にそれるだけ、それよりも一緒にいい作品を作りましょう、というのに対し、小説家の遊佐リカは、女が子どもを持つことは、女の自由に任される、という立場や。
『「……ううんと長い目でみてさ」遊佐も笑って言った。「女がもう子どもを産まなくなって、あるいはそういうのが女の体と切り離される技術ができたらさ、男と女がくっついて家だのなんだのやってたのって、人類のある期間における単なる流行だったってことになるんじゃないの、いずれは」』
これはなかなか、きっぷのええセリフや」

「登場人物の中では、遊佐リカはいちばん先端を走っていそうで、おもわず同意してしまいそうになるね。
『「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」
 遊佐は断言した。
「もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、子どもを抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていきたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」』
これは、生きていくことに意思を持つ女としては、非常に明確なセリフで、やっぱり、つい拍手したなるね」

「事実、夏子は、なんというか、ある種感動してしまうんや。
『「わたしも、そう思う」わたしは昂ぶる気持ちをおさえて言った。「そう思う」』
そこから、まだ長い道のりはあるけども、結局、夏子は、自分の意志を優先するかたちで、子どもを持つんや」

「しかしこのとき、仙川編集者の、遊佐リカに対する反撃が、夏子を鼓舞してすさまじい。
『「ねえ、しっかりしてくださいよ、夏子さん。子どもが欲しいなんて、なぜそんな凡庸なことを言うの。真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。子どもなんてそんなもの入りこむ余地がないんです」』
まあこれはこれで、一方の極の言い方やな。子どもを持たず、すべてを仕事に打ち込んできた女としては、こう言いたなる気持ちはわかる」

「さらに言い募るところは、ど迫力や。
『「ねえ、リカさんの言うことなんか真に受けないで。リカさんはしよせんエンタメ作家ですよ。あの人にも、あの人の書くものにも文学的価値なんかないですよ。あったためしがない。誰にでも読める言葉で、手垢のついた感情を、みんなが安心できるお話を、ただルーティンで作っているだけ。あんなのは文学じゃないわ。文学とは無縁の、あんなのは言葉を使った質の悪いただのサービス業ですよ。でも夏子さんは違うーー」』
実際に編集者が、別の作家を出して、その人をあげつろうて、目の前の著者を持ち上げるってなことは、やらんやろ」

「まあ、あんまり聞いたことはないなあ。しかし、ギリギリのところに追い込まれたら、場合によっては、やるかもしれんな」
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詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(4)

「『夏物語』は全編が、静かな、押さえた調子で、540頁の中で、破綻したところが全くない。まあ未映ちゃんはプロの書き手やから、当たり前といえば当たり前やけど、しかし全編、静かな、緊張を含んだ、詩的文章なんやね。それが後半、終わりに来て、ぐっと盛り上がってくるわけよ」

「夏子が、バイト先で同僚やった紺野さんと、再会するあたりやね。あれはなかなかのもんや。日本全国、どのくらいの女が、そういう環境におかれとるんやろな」

「紺野さんは子供がいて、亭主との仲は冷え切ってる。ほんで自分の親のことを、こういうふうに言うんや。
『「たとえばうちの父親っていうのがこれ、典型的な田舎の暴君だったの。男尊女卑とか女性蔑視なんて言葉が世間にあるってことも知らないで済むような、まんま地で生きてるようなそんなやつだったわけ。わたしらなんて物も言えない感じで育ったよね。子どもでおまけに女なもんだから普通に人だと思ってないし、母親の名前なんか呼んだの聞いたことないよ。……そう、私の母親って『まんこつき労働力』だったんだよ」
「すごいワードきたね」わたしは言った。
「そう?『まんこつき労働力』、わたしの母親はまじでそれだった。そのまんまだった。『まんこつき労働力』、ぜんぜん言うよ」
「『産む機械』的な物ですらなくて、もはや運動なのかっていう」』
ここはなかなか迫力のある対話や」

「産むということに対して、ある種の女は、なぜ徹底した拒否の姿勢を取るか、という理由やね。紺野さんは一児の母であり、しかし旦那との仲は冷え切っていて、それでも食べていくためには、旦那に依存せざるを得ない。紺野さん自身が、子どもから同じように、『まんこつき労働力』と見なされるのは、もう間違いないやんか」

「しかし問題は、夏子の気持ちや。逢沢潤という、AID(夫以外の精子による人工授精)によって生まれた人と、話をしている場面。
『逢沢さんは黙って話を聞いてくれた。それからわたしは、子どもが欲しいと思う気持ちについて話した。現実的に考えてみれば、相手はいないし、普通の性行為だってできないし、経済的なことはもちろん、今から親になる条件なんて何もひとつもそろっていないのに、それでもこの二年近く、ずっと子どもが欲しいと思うようになっていて、そのことばかり考えていることを話した』」

「それで夏子は、逢沢潤のことを好きになるんやけど、しかし性行為はできへんし、どないもなるわけではない。
『そもそもわたしの好きは、どこにも辿り着かず、何にもつながらないひとりよがりな感情なのだ。最初からひとりで、これからもひとりであることはじゅうぶんわかっていたことなのに、それでも――わたしはわたしでがんばらなあかんねんなとそう口にしてみると、手を伸ばしたくなるものなんて何ひとつない平坦な場所に、まるでひとりきりで置き去りにされてしまったように感じてしまうのだった』
ここが夏子の、今いる場所なんやけども、非常に明晰に描写されてて、しかも大阪弁で、感心したわ」
posted by 中嶋 廣 at 09:45Comment(0)日記