詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(7)

陽はすっかり暮れた。田中晶子がもうすぐ帰ってくる。Nやんは、泊まるのかどうか。その都合も聞かぬ間に、息せき切って話し出す。

「緑子がアルバイトで働いてるレストランな、ここはビルの一階になってて、その上に整体と占いとコンサルが合体したような、わけの分からん店が入っとんねやわ。ほんで洋食屋のある一階が、電気工事をやるんやけど、これがうるそうて、二階から文句を言うてくるわけや」

「毎日、文句言うてきて、その時だけは、ぶつくさ言いながら帰るねんけど、翌日になると、また同じ文句を言うてくる。要するに、一日の記憶は一日で消える、という珍しいパターンやね」

「その二階の店から、なんといたちが降ってくるんや。ここ、緑子と夏子の会話や。
『「そしたらさ、ある日とつぜんいきなり天井の板がぼこって外れて、そこからいたちが落ちてきてん」
「店に?」
「お客さんがおるときやったからもう、何がどうなってんていうくらいの大騒ぎになってべつに高級な店じゃないし普通の洋食屋みたいなところやけど、でもいきなり上からいたちがぼこんゆうて落ちてきたら、やっぱりそれはびっくりするやん?」
「するよそれは」わたしは肯いた。
 ……
「せやけどいたちも命がけやな。厨房で鍋のなかに落ちたらスープになるで」
「それがうまいこと店のほうに落ちてくんねん」緑子が言った。』
ここから、怒り心頭のレストランの店長が登場して、ひっちゃかめっちゃかになるんや」

「そこは俺が読もうか。
『「んで、うちの店長が、こんなんおかしい、いくらビルが古くても汚い運河がそばにあっても、こんなんぜったいおかしすぎるって言いだして。んで、いたち送りこんできてんのはぜったい上のスピサロンやゆうて。んで苦情言いに行くってなってさ。そしたらスピは否定して――って、そらそうやんな、どうやっていたちなんか送りこむねんな。捕まえるのも難しいし、そんなんして誰の何になる?」』
まあ、そらそうや。」

「いかにも大阪で、ほんまにおもろい」

「しかしまだあるんやな、これが。
『「……それで店長もちょっと頭おかしなってんのか、もうぜったいスピの仕業や言うねん。ミーティングやゆうてわたしら残らされて、なんか壮大な陰謀論とか展開しだして。上のスピとどこそこの宗教団体がつながってて、最初のメメント騒ぎもぜんぶ仕込みやってことになって、盗聴器しこまれてるおそれがあるとかなんとかゆうてジェスチャーしだしたり……完全に頭おかしいやろ」』

「ここ、もう、なんとも言えんね。しかも最後に、オチがつくんや。そこはワシが読むわ。
『「んでけっきょく上と下で戦争みたいな状態になって。それでもまだぼこんいうて落ちてくるし。客もけえへんなってまうし。わたし和ませよと思って店長に『いっそのこと店の名前、〈リストランテいたち〉に変えたらどうですの』って言うたってん。そしたら『なんでうちが名前変えなあかんねん、そんなもん上が先に変えるのが筋やろ』みたいな返しきて。そっちなんっていう。んで今度いたち落ちてきたら捕まえて下から上に押し返す、一匹残らず押し返していく、そのための練習もするぞみたいなことも言いだして……なあ夏ちゃん、これがほんまの『いたちごっこ』とちゃうのん……」』」

「くっくっくっ……」
posted by 中嶋 廣 at 11:20Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(6)

夏の長い日も、さすがに暮れかけてくる。Nやんは、ちょっと黙った後、言葉を継いだ。

「もう一人、善百合子という女が、登場してくる。この女は逢沢潤と同じで、AID(第三者の精子を利用した人工授精)で生まれてくるんやけど、社会的に父親の役割をしてる男に、散々レイプされるんよ。」

「うん、この善百合子が、もっとも強硬な妊娠否定論者やね。そこを読むと、
『「……どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」』
この女の考えは、仙川涼子の、小説を取るか、子どもをとるか、よりももっと深い」

「もうちょっと後で、善百合子は、より根源的なことを言うんや。ここはちょっと長いけど、未映ちゃんの、もっとも未映ちゃんらしいとこや。ここがほんまのキモや。
『「生まれてきてよかったと言わせたい、自分たちが信じているものをおなじように信じられる人生にとどまらせたいがために――つまり自分たちの身勝手な賭けに負けないために、親や医者たちは、頼まれもしないのに命をつくる。ときには小さな体を切って、縫って、管を通して機械につないで、たくさんの血を流させる。そしてたくさんの子どもたちが、痛みそのものとして死んでいく。するとみんな、親に同情するわね。かわいそうに、これ以上の悲しみはないってね。そして親たちも涙を流して、その悲しみを乗り越えようとして、それでも生まれてきてくれてうれしかった、ありがとうって言うんだよ。彼らは本心からそれを言うんだよ。でも、ねえ、そのありがとうっていうのは何? それは誰に言っているの? いったい誰のために、いったい何のために、その痛みでしかなかった存在は生まれてきたの?」』
その後も、より踏み込んだところに、入っていくことになる」

「哲学者・川上未映子の面目躍如やね。最後に善百合子は、こういうことを言うんや。
『「……生まれた瞬間から死ぬまで苦しみを生きる子どもは、誰であったとしても、でも、あなたではないのだもの。生まれてきたことを後悔する子どもは、あなたではないもの」』
これは究極、我が子であっても、人間は他者を理解できない、徹底的に理解できない。人間の個我、人は徹底的に孤独や、という問題や。たとえ親子であっても、ちっちゃい子やってもな」

「ここから、大きな大団円に向かうところは、ちょっと種明かしという趣もあるから、小説の具体的な話はここまでにしようや」

「うん。しかし交響曲で言えば、最後のクライマックスに至る前に、ガタンとオチがくる、そこがほんまに秀逸や。やっぱり川上未映子は、天才的というか、天才的いちびりというか」

「ここが二度目の、笑い死にしそうなとこや。例のいたちが出る話、いやもうほんまに、未映ちゃん、荘厳なクライマックスの前に、こんなオチ作るんやもん、ほんまにどもならんで」
posted by 中嶋 廣 at 09:03Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(5)

「仙川涼子が、編集一筋、子供を持つことなんか脇道にそれるだけ、それよりも一緒にいい作品を作りましょう、というのに対し、小説家の遊佐リカは、女が子どもを持つことは、女の自由に任される、という立場や。
『「……ううんと長い目でみてさ」遊佐も笑って言った。「女がもう子どもを産まなくなって、あるいはそういうのが女の体と切り離される技術ができたらさ、男と女がくっついて家だのなんだのやってたのって、人類のある期間における単なる流行だったってことになるんじゃないの、いずれは」』
これはなかなか、きっぷのええセリフや」

「登場人物の中では、遊佐リカはいちばん先端を走っていそうで、おもわず同意してしまいそうになるね。
『「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」
 遊佐は断言した。
「もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、子どもを抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていきたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」』
これは、生きていくことに意思を持つ女としては、非常に明確なセリフで、やっぱり、つい拍手したなるね」

「事実、夏子は、なんというか、ある種感動してしまうんや。
『「わたしも、そう思う」わたしは昂ぶる気持ちをおさえて言った。「そう思う」』
そこから、まだ長い道のりはあるけども、結局、夏子は、自分の意志を優先するかたちで、子どもを持つんや」

「しかしこのとき、仙川編集者の、遊佐リカに対する反撃が、夏子を鼓舞してすさまじい。
『「ねえ、しっかりしてくださいよ、夏子さん。子どもが欲しいなんて、なぜそんな凡庸なことを言うの。真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。子どもなんてそんなもの入りこむ余地がないんです」』
まあこれはこれで、一方の極の言い方やな。子どもを持たず、すべてを仕事に打ち込んできた女としては、こう言いたなる気持ちはわかる」

「さらに言い募るところは、ど迫力や。
『「ねえ、リカさんの言うことなんか真に受けないで。リカさんはしよせんエンタメ作家ですよ。あの人にも、あの人の書くものにも文学的価値なんかないですよ。あったためしがない。誰にでも読める言葉で、手垢のついた感情を、みんなが安心できるお話を、ただルーティンで作っているだけ。あんなのは文学じゃないわ。文学とは無縁の、あんなのは言葉を使った質の悪いただのサービス業ですよ。でも夏子さんは違うーー」』
実際に編集者が、別の作家を出して、その人をあげつろうて、目の前の著者を持ち上げるってなことは、やらんやろ」

「まあ、あんまり聞いたことはないなあ。しかし、ギリギリのところに追い込まれたら、場合によっては、やるかもしれんな」
posted by 中嶋 廣 at 09:47Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(4)

「『夏物語』は全編が、静かな、押さえた調子で、540頁の中で、破綻したところが全くない。まあ未映ちゃんはプロの書き手やから、当たり前といえば当たり前やけど、しかし全編、静かな、緊張を含んだ、詩的文章なんやね。それが後半、終わりに来て、ぐっと盛り上がってくるわけよ」

「夏子が、バイト先で同僚やった紺野さんと、再会するあたりやね。あれはなかなかのもんや。日本全国、どのくらいの女が、そういう環境におかれとるんやろな」

「紺野さんは子供がいて、亭主との仲は冷え切ってる。ほんで自分の親のことを、こういうふうに言うんや。
『「たとえばうちの父親っていうのがこれ、典型的な田舎の暴君だったの。男尊女卑とか女性蔑視なんて言葉が世間にあるってことも知らないで済むような、まんま地で生きてるようなそんなやつだったわけ。わたしらなんて物も言えない感じで育ったよね。子どもでおまけに女なもんだから普通に人だと思ってないし、母親の名前なんか呼んだの聞いたことないよ。……そう、私の母親って『まんこつき労働力』だったんだよ」
「すごいワードきたね」わたしは言った。
「そう?『まんこつき労働力』、わたしの母親はまじでそれだった。そのまんまだった。『まんこつき労働力』、ぜんぜん言うよ」
「『産む機械』的な物ですらなくて、もはや運動なのかっていう」』
ここはなかなか迫力のある対話や」

「産むということに対して、ある種の女は、なぜ徹底した拒否の姿勢を取るか、という理由やね。紺野さんは一児の母であり、しかし旦那との仲は冷え切っていて、それでも食べていくためには、旦那に依存せざるを得ない。紺野さん自身が、子どもから同じように、『まんこつき労働力』と見なされるのは、もう間違いないやんか」

「しかし問題は、夏子の気持ちや。逢沢潤という、AID(夫以外の精子による人工授精)によって生まれた人と、話をしている場面。
『逢沢さんは黙って話を聞いてくれた。それからわたしは、子どもが欲しいと思う気持ちについて話した。現実的に考えてみれば、相手はいないし、普通の性行為だってできないし、経済的なことはもちろん、今から親になる条件なんて何もひとつもそろっていないのに、それでもこの二年近く、ずっと子どもが欲しいと思うようになっていて、そのことばかり考えていることを話した』」

「それで夏子は、逢沢潤のことを好きになるんやけど、しかし性行為はできへんし、どないもなるわけではない。
『そもそもわたしの好きは、どこにも辿り着かず、何にもつながらないひとりよがりな感情なのだ。最初からひとりで、これからもひとりであることはじゅうぶんわかっていたことなのに、それでも――わたしはわたしでがんばらなあかんねんなとそう口にしてみると、手を伸ばしたくなるものなんて何ひとつない平坦な場所に、まるでひとりきりで置き去りにされてしまったように感じてしまうのだった』
ここが夏子の、今いる場所なんやけども、非常に明晰に描写されてて、しかも大阪弁で、感心したわ」
posted by 中嶋 廣 at 09:45Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(3)

もう麦茶でのうて、ビールがええな、とNやん。僕は片側が麻痺していて、動けないので、Nやんに言って、冷蔵庫から勝手に持ってこさせる。

「この作品は、『乳と卵』の第二バージョンが第一部で、それから8年後の、2016年夏から、19年夏までの3年間が、第二部や」

「最初に主人公と絡むのは、文芸編集者の仙川涼子やけども、この人は編集者として、一本筋が通ってる。夏子の小説を、テレビで取り上げたから、偶然6万部を超えるヒットになったわけやけども、それを見て連絡してくるのが、仙川や」

「そこで、こんなことを言うんや。
『あの小説の何が素晴らしかったのか。どこにあなたの署名があったのか。それは設定とかテーマとかアイデアとか、死者とか震災以後とか以前とか、そういうものじゃないんです。それは、文章なんです。文章の良さ、リズム。それは強い個性だし、書きつづけるための何よりも大きなちからです。あなたの文章には、それがあると思う』
ちょっとお前が言いそうなセリフや」

「俺は文芸編集者じゃないから、表立ってそういうことは言わん」

「それでも、著者として立って行くには、必要なこととして、文体が絶対の条件や、と思てるんと違うか」

「それはまあそうや。人文書の場合は、文体ということは、表だって正面には出てこん。せやけどたとえば、養老孟司さんを見てみいや。何が魅力か、一目瞭然や」

「ほんなら、著者を選ぶ際に、それとは知られずに、二重の基準をかけるわけやな」

「さあ、そこは難しい。内容が独創的であれば、文体は、俺の方で直して、つまりリライトしてしまう、ということもある。人文書の場合は、そういう原稿手入れやゲラの直しに、かなりの時間をかけることがある」

「お前が編集した、鷲尾賢也さんの『編集とはどのような仕事なのか』の中で、原稿の毛羽立ちを整えていくのは、編集者の重要な作業であり、またそれにかかる時間も、厖大なものや、というのは、そうゆう意味なんやな」

「まあ、そうや。それにしても、仙川編集者というのは、第一級の役者やね。
『私が言ってるのは……実のある、持続力のある、強くて信頼するに足る運です。わたしはあなたの作品のために、それを用意できる。わたしとなら、もっといい作品を一緒につくれると思う。それで――会いに来たんです』
一度でも言うてみたかったセリフや」

「お前は言わんでも、全身から、そういう空気を発散してたけどな」

「いや、そんなことはない。やっぱり一抹の不安は、拭えんかった。この著者は、僕でええんやろか、ということや。養老孟司さんや、池田晶子さんや、森岡正博さんや、島田裕巳さん……どの著者にも、そういうところは見せんかったけども、でも考えてみたら、いつも、何というか、緊張してたなあ」

「それはまあ、仕事ちゅうのはそういうもんやないか。それよりも、編集者とおおてるときの、夏子の心理が面白い。
『……こんなふうに編集者とときどき会うことにもあんまり意味がないと思わなくもないのだけれど、しかしそれとなく水をむけられて、今はこういう部分を書いている、というようなことを独りごとみたいにぽつぽつと話したりするうちに、ごちゃごちゃと絡まって停滞していた部分が整理されたり、そうだったのかと気づいたり、自分でも意識していなかった流れを発見するようなこともあったりして、それはとてもありがたいことなのだった』
これはもう、編集者にしてみたら、涙が出るくらいうれしいもんやと思う」

「ここはほんまに、川上未映子の本音やろうね」
posted by 中嶋 廣 at 14:49Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(2)

「それでも、第一部を見てみると、緑子が口が利けなくて、筆談でしゃべるところは、ほとんどそのままやんか。つまり緑子の場面は、このままでええ、ということやね」

「やっぱり、お姉さんの巻子との会話が、『乳と卵』と比べると、変化に富んでて面白いな」

「大阪での巻子さんの暮らしぶりが、ものすごく立体的になってるんやね。巻子さんの同僚のホステスの話が、おもろいねん。韓国人で30過ぎのスズカちゅう女と、巻ちゃんとで、照明落として店を回してるんやけど、そこへジンリーちゅう、中国から来た大学生が、バイトで入ってくるんよ。」

「そこはほんまに面白い。ジンリー、日本語を古い教材で習うたから『店でも客に「すっごーい!」とかいう場面でも、真顔で「見あげたものですね」とか言うたりするねん……』という具合や」

「ところが、3人で頑張ろういうことになって、スズカがジンリーに、時給を聞くんやわ。大学生やいうんで、足元見られたらかなんから、スズカが、ジンリーのバックに立ったわけやんか。すると、なんとびっくり」

「そこのところ、読むで。
『……足もと見られて少ないんちゃうか、いつでも交渉したるでな、わたし立場的にはママの右腕やしな、とか胸張ってゆうて。そしたらジンリーな、「わたし二千円です」って』
『え』
『え、やあるかいな』巻子は言った。『その金額きいたときのスズカの声よ……死にかけの鶏でも出さんような声だして。死んでしもたか思たわ』」

「スズカの時給は、1600円やったんやね」

「そこも読むで。
『……二千円って聞いたときスズカ、顔が、も、折り紙の裏みたいに白うなってもうて。ほんでからつぎは赤なって、まだらんなって、んで、何にも気づかんでジンリー、目えに涙浮かべながら『お姉さん、もっともっとわたしたちは歌をうたいましょう!』とかゆうて『サバイバル・ダンス』とか入れるしやな、丸椅子に座ったまま放心状態のスズカの肩をジンリーぐらんぐらんゆらしてやな、日本語めちゃくちゃなサバイバル・ダンスやろ、んでジンリーがこれまたまじで歌が下手くそやねん、頭おかしなりそうやつたわ』」

「聞いてるだけでも、腹かかえて、も、苦しいわ」
posted by 中嶋 廣 at 08:52Comment(0)日記

詩人にして哲学者、そして大阪漫才師――『夏物語』(1)

長い梅雨が明けると、突然、真夏日がやって来る。そんな中をNやんが、大坂からやってきた。

「いや、どうも暑いなあ」
 
と僕が言うと、そんなことには構わず、

「ミエちゃんの、読んだか」
 
どうもすごい勢いである。

「ミエちゃんて、川上未映子かいな」

「うん。関西ではみんな、未映ちゃんと呼んでる。それで読んだんか」

「読んだ」

「どや」

「『夏物語』、傑作やね、それも超の付くような」

「せやろ。せやからお前と、じっくり語り合おう、思うて来たんよ」

「しかし『乳と卵』のときは、これを焼き直して、第一部として、もう一回使おうとは、考えてないはずやから、そうすると、主人公の夏子ちゅう名前は、なんというか、奇跡的やなあ、うーん、『夏物語』か」

「そうやけど、今度のは、『乳と卵』の登場人物だけを借りて、なんとなく、別の物語になってると思わへんか」

「うん。まあ、一言でいうと、古代ギリシャのシュンポシオンやね」

「むむっ、なんやそれは」
 
Nやんは、ちょっと戸惑う。

「主人公も含めて、女が子どもを産むことについて、登場人物が一人ずつ、限界まで喋り倒すわけや。シュンポシオンは、『コトバンク』によれば、『プラトンが,酒席で行われた〈愛〉をめぐる討論を内容とする著書(《饗宴》)の題名にシュンポシオンの語を用いてから,親しい雰囲気のなかで行われる論議をこう呼ぶようになった』とある」

「なるほど、未映ちゃんは、哲学者にして詩人やから、ドンピシャやね」

「哲学者にして詩人、そんでもって大阪の漫才師や」
 
Nやんが、そこでニヤリと笑った。

「ほんまに、おもろうておもろうて、どもならん」

「オレが笑いが止まらんのは、二か所。初めのところと、大詰めのクライマックスや」

「せや。まず第一部やけど、これもやっぱり、母親の巻子と、娘の緑子が、自分の頭を卵かけにしてまう、第一部のクライマックスの少し前や。しかしその前に、第一部は『乳と卵』を作り替えて、使うてるけども、これについてはどう思う」

「ええんとちゃう。作り替えるというても、実に繊細に手を入れてて、『乳と卵』とは、はっきり言うて、微妙に、というか、かなり違う。それに時期も、『二〇〇八年 夏』と特定してある」

「うん、なによりも、小見出しをつけることによって、話が立体的になったわ」

「それに『乳と卵』とは違って、こんどは夏子の意志は、文章を書いて生きてゆくことや、とはっきりしてる」

「そこ、読むで。
『……そんなもやのなかを歩いていると、おまえはこのまま進むのか、それとも引き返すのかを問われているような、そんな気がしてしまう。もちろん世界の側がわたしに関心があるなんてことはないのだから、これはどこにでもある自己陶酔だ。何を見ても、見なくても、感傷的な物語を立ちあげてしまうこの癖は、わたしが文章を書いて生きていきたいと思うこの気持ちの、足をひっぱるものなのか、それとも応援するものなのか。今はまだよくわからない。でも、いつまでわからないでいられるだろう。それもまだわからない』
どや、ええやろ」

「うむ、見事なものや。これ、川上未映子の本音と違うか」
posted by 中嶋 廣 at 08:59Comment(0)日記

斎藤美奈子の孤独な闘い――『日本の同時代小説』(8)

「二〇〇〇年代」の小説では、芥川賞をダブルで受賞した、綿矢りさ『蹴りたい背中』(2003)と、金原ひとみ『蛇にピアス』(2003)くらいまでは、僕はついていく姿勢を持っていた。とにかく面白かったから。

「二冊はまるでちがった小説のようですが、『私』のアイデンティティが分裂している点で共通します。ネット上での『なりすまし』やボディピアスなどの肉体改造によって、いともたやすく別人格を演じる、あるいは複数の人格を使い分ける若者たち。『私らしさ』にこだわった八〇年代の少女たちと比べると、まるで宇宙人のよう。」
 
でも、ここから後は、ついていけなくなる。

『野ブタ。をプロデュース』(白岩玄、2004、文藝賞)、『黒冷水』(羽田圭介、2003、文藝賞)、『阿修羅ガール』(舞城王太郎、2003、三島賞)、『1000の小説とバックベアード』(佐藤友哉、2007、三島賞)。
 
斎藤美奈子が、続けて取り上げる作品だが、解説を読んでも、まったく気を惹かない。

「兄弟が陰で罠をしかけあう『黒冷水』といい、匿名の掲示板が凶器と化す『阿修羅ガール』といい、青春小説の域を超えた異常な世界なのは事実です。彼らは目に見えない相手と戦っており、しかも自分の中の破壊衝動を抑えることができません。」
 
これは、僕には無縁、とは言わないまでも、敬遠したくなるような世界だ。
 
それを、斎藤美奈子は、果敢に踏み込んで読む。それは僕から見れば、驚異的なことだ。
 
ここからは、小説全体としてのイメージを、僕は持っていない。
 
もちろん読んでいるものもある。『バトル・ロワイアル』(高見広春、1999)、『希望の国のエクソダス』(村上龍、2000)、『決壊』(平野啓一郎、2008)、『悪人』(吉田修一、2007)。

「〇〇年代の特徴は、それが純文学の世界にも津波のように押しよせてきたことです。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り。彼らに同情するもどうにもできない女たち。〇〇年代の小説世界は、ムルソー(『異邦人』)やラスコーリニコフ(『罪と罰』)やスメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』)だらけです。」
 
なるほど、考えてみれば、そういう言い方もできるな。
 
でも、と考え直してみる。『決壊』も『悪人』も、こちらがのめり込んでいくような、重心がぐらつくような迫力をもっては、書かれていないのではないか。
 
そういう議論が、『日本の同時代小説』を読んでいると、僕と本文で、自然にできるのだ。つまり、自分の方で、読んだものをもう一度、自覚することができるのだ。
 
それは、批評を読む上での、最低限度の機能ではないか。そういう声が、すぐに聞こえてきそうである。
 
しかしいまでは、斎藤美奈子を除いては、そういうふうに、こちらが自覚的に本を読むことのできそうな批評家はいないのだ。

少し補足をしておく。この本は、第6章「二〇一〇年代 ディストピアを超えて」が最終章になっている。
 
そこでは『スタッキング可能』(松田青子、2013)のような、これから読んでみようと思う小説も挙げられている。
 
けれども、最後に挙げられているのは、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のリバイバルである。

「純文学のDNAに縛られて、ニヒリズムを気取っているだけが能ではない、絶望をばらまくだけでは何も変わらない。せめて『一矢報いる姿勢』だけでも見せてほしい。読者が求めているのは、そういうことではないでしょうか。」
 
それを求めているのは、著者も同じことだ。いや、斎藤美奈子は、もっと深いところで、絶望を隠して、闘っているのではないか。

(『日本の同時代小説』斎藤美奈子、岩波新書、2018年11月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:23Comment(0)日記

斎藤美奈子の孤独な闘い――『日本の同時代小説』(7)

「二〇〇〇年代」は、最初に3つのトピックが取り上げられる。そしてこれが、実に問題なのだ。
 
最初は『世界がもし100人の村だったら』(2011、池田香代子再話)である。

「これは同時多発テロ後、インターネット上をチェーンメール形式で世界をかけめぐった文書を日本語に訳した小型の絵本です。」
 
たしかに空前のベストセラーかもしれないが、これを岩波新書の『日本の同時代小説』に、トピックとして入れるのは、僕は反対である。これは「同時代小説」とは、何の関係もない。
 
もう一つは、ネットから生まれた、中野独人(ひとり)の『電車男』(2004)である。
「元ネタは、インターネット上の巨大掲示板『2ちゃんねる』の独身男性板(通称『毒男板(どくおとこいた)』。ここでやりとりされた『書き込み(レス)』が後に整理され、本として出版されたのです(中野独人は彼らの総称です)。」
 
これもずいぶん話題になった。買わなかったが、書店でためつすがめつ、横書きの文章を見たことはある。これはたしか、新潮社から出た。
 
みんなでテキストを作る、こういうものは、その先に、何かが見えてきそうな気になる。もちろん今のところは、ウィキペデイァを除いては、確たる成果は上がっていないが。
 
3つ目は、『ケータイ小説』の爆発的な流行である。と言っても、もう忘れちゃってるか。

「……ポエム風の文章、改行の多さ……。大人の目で読めば、内容的にも、文章の面でも、ケータイ小説は小説と呼ぶのがためらわれるレベルのものです。」
 
ここでは、「大人の目で読めば」というところが、ミソである。つまり大人は、そして文学読みたちは、ケータイ小説を、ほとんど読まなかったのである。
 
けれども、書店の売り上げには入ってくる。

「〇七年の年間ベストセラーランキング(トーハン調べ)は、文芸書部門のトップ3を書籍化されたケータイ小説が独占し(一位は『恋空』、二位はメイ『赤い糸』、三位は美嘉『君空』)、出版界を驚愕させたのでした……」
 
ここから、僕は日本の文学というものに、さほど関心を持たなくなった。そしてそういう人は、多いのではないかと思うのである。
 
しかしそれを、斎藤美奈子は、粘り強く、以後も丹念に読んで、評価し続ける。
posted by 中嶋 廣 at 09:06Comment(0)日記