これは出てすぐに読んだ。斎藤美奈子の文体に乗って、気軽に読み飛ばせばよい、と思っていた。
ところが、さにあらず。
1960年代から、10年ごとに章を立て、2010年代まで全6章あるうち、1990年から2000年にかけては、文学が、というよりも小説が、はっきり変質する。
そうして変質していった結果、これを追っていくことが、斎藤美奈子以外には、やる人がいないのではないか、そう思うようになってきた。
それで一度読んで、半年たって、気合を入れて読み直した(まあ、僕が気合を入れ直したところで、あまりどうということはないのだが)。
具体的には、「90年代」の、「進化の袋小路」に入っていたポストモダン文学と、「2000年代」の、インターネットから生まれた『電車男』などの「商品」(あえて「小説」とは呼ばない)と、「ケータイ小説」の爆発ぶりが、転機になっている。
何の転機かというと、僕の場合は、真面目に小説を読もうという意欲が、薄れる転機になったのだ。
その結果、ある時期の小説全体を俯瞰して、その批評を読もう、という気も無くなった。すくなくとも僕は、無くなった。
そういう中で、斎藤美奈子だけは、なお読むに値するのだ。
ということは、斎藤美奈子だけが、孤独に、誠実に、小説執筆の営みに、批評を武器に向かい合っているのだ。
「はじめに」の冒頭は、次の文章で始まる。
「明治以降の小説の歴史を知りたい人にとって、岩波新書の中村光夫『日本の近代小説』(一九五四)、『日本の現代小説』(一九六八)は親切な入門書、かつ便利なガイドブックです。前者は明治大正の、後者は昭和の文学史です。」
そう書いてあるから、中村光夫の後を継いで、1960年代から後の小説の歴史を、気楽に、というか、楽しく辿ればよいのだな、と思っていると、途中から、そうではなくなってくる。
その前に、中村光夫の『日本の現代小説』には、何種類か類書がある。
奥野健男『日本文学史――近代から現代へ』、篠田一士『日本の現代小説』、ドナルド・キーン『日本文学史――近代・現代篇』などがそれだが、いずれも60年代の末で終わっている。
つまり日本の小説の歴史は、1960年代末までは、広く読書人に共有されるものであったのだ。
それが今では、1960年代から今までのところは、斎藤美奈子のほかには、書く人がいなくなったのだ。それはなぜだろう。