類推と逆説は危ない――『宗教なんかこわくない!』(3)

橋本治の間違いは、端的に言って、次のようなところだ。

「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ。」
 
この「だから」というところが、曲者だ。
 
宗教もまたイデオロギーである、それはいい。しかし、それ故に、近代合理主義も、一部の宗教も、同等のイデオロギーとして、我々の前に並べられてあるのだ。
 
そういうふうに考えなければ、日本ではなく世界の問題を解くときに、足掛かりになる方法が、なくなってしまう。
 
橋本治のもう一つの方法は、物事を逆に見てみる、ということである。つまり逆説ということ。

「よく考えてみればわかるのだが――『どんな宗教を信じるのも自由』ということは、ある特定の宗教が特別な力を持っていた時代にはまったく考えられないような、〝ヘンなこと〟なのである。なぜかと言えば、『どんな宗教を信じるのも自由』ということの裏には、『なぜならば、もうどんな宗教にも特別な力はない』という理由しかくっつかないからである。」
 
これは逆説というか、対偶関係というか。

A、B、C……の宗教の、いずれを信じてもいい、ということを、反対の方向から見れば、どれもドングリの背比べ、信頼するに足りない、というのだ。
 
これはもちろん、そういうことも、あるかもしれないが、しかしまた逆に、どれも信頼するに足りる、という言い方もできる。
 
これは、宗教の中身に関わることではなく、その宗教に関わってゆく主体の問題、つまり自分の問題である。
 
ただし次の問題は、よく考えなければいけない。

「宗教法人法によって免税特権を受けるということは、その〝宗教法人法〟なるものを存在させている日本国憲法の下に入るということだ。宗教は、税金を払わないことによって、自分から〝現実を超えないこと〟を認めた。宗教とは、現在そのようなあり方をするものになっているのだ。」
 
別に宗教法人法に従うからといって、日本国憲法に膝を屈したことにはなるまい、と考える人もいるだろう。
 
しかし税金の問題は、微妙だ。税を納めているならともかく、宗教法人法によって、税を納めなくてよい、というところがミソなのだ。
 
それは宗教家にとって、特権であると同時に、痛いところでもあるのだ。
 
その結果、場合によっては、次のような見方もできる。

「だから現在の〝宗教〟は、信者の親睦会であり、勉強会であり、残された古い遺跡を守る文化団体であり、『これがなくなるとどうしたらいいか分からない』と言うであろう人間のパニックをなくすための暫定機関なのである。」
 
まったくの言いたい放題、小気味よい放言で、宗教家でも、エセやもどきの類は、顔色なしである。

でも的を射ているのは、エセやもどきの宗教家の類だけだ。
posted by 中嶋 廣 at 09:19Comment(0)日記