類推と逆説は危ない――『宗教なんかこわくない!』(2)

オウム真理教は、金を稼ぐ宗教であった。

「バブルの日本を背景にした、『金さえあればなんでも出来る』という愚かな日本人の裏側を見せつける事件なのだ。」
 
たしかに、そういうことも言える。
 
そこから類推すると、オウム真理教はちゃちな会社そのものだ、と橋本は言う。

「本当に彼等は、会社日本の申し子みたいだ。……〝社員の忠誠心〟という点では、麻原彰晃という卓越した経営者の作った新しい会社〔ヴェンチャービジネス〕は、かなりのものだった。
 オウム真理教は、急速に発展して、その発展途中で無茶な業績拡大をして、そのためにあっという間に破綻した、バブル時代の〝妙ちきりんな会社〟のようなものなのだ。」
 
なるほど、読んでいくと、いかにもそういう気がする。確かにそうだなあ。
 
けれども、よく考えてほしい。外側が、いかにも〝妙ちきりんな会社〟のようだとして、では中身はどうか。
 
橋本治は、そこは全く触れていない。類推して、三流会社とオウムは、外側がよく似ているとわかっても、そこからは一歩も踏み込んでいない。
 
それはなぜか。なぜ宗教には、触れ得ないのか。

「『宗教などというものは、もう遠い昔にその存在理由を失っている』と思う私には、この事件の〝宗教〟という要素は、ただ事件の背景を混乱させるためだけのものだとしか思えない。」
 
そういうことなのである。
 
だから、全財産を投げ打って、オウムに飛び込んで、「修行」をし、果ては他人の命を殺(あや)めても、そもそも橋本には、それは考慮すべきことではない。あるいは、どういうふうに考えていいかわからない、ということになる。
 
もちろん、もろ手を挙げて、橋本治に賛成するところもある。

「あれを平気でやれるあの集団が〝都会的なセンスの持ち主〟でないことだけは確かだろう。私がオウム真理教を恐怖するとしたら、その理由は、あの信じがたいほどの美意識の欠落にあるのだけれど、それをそうとは思わない人間達も、また一方には大勢いるのだろう。」
 
そこは本当にそう思う。第一印象が、汚い、限りなく汚い、というのは、心に深く留め置いていいことだ。
 
けれども橋本治は、そこから類推して、田中角栄が総理大臣になったとき、メディアが、万歳の大合唱をしたことを思い出す。だから田中角栄的人間を、「信仰」する人間は嫌いなのだ、というところに話を持ってゆく。
 
橋本治の本を読む人間は、たいてい田中角栄的人間が嫌いだから、そんなところへ話を落としこんではどうしようもない、とは思わないのか。
 
著者と読者が、自分はこれが嫌い、というところで、肝胆相照らしていても、しょうがないのだ。
posted by 中嶋 廣 at 11:57Comment(0)日記