文学の意味がここにある――『つみびと』(2)

山田詠美の文章は、暖かみがある。それが大きな救いになっている。

「思えば、夫の音吉と会う前に関わり合って来た男たちにも甘えるどころか、しなだれかかることもしなかった。本当は弱みを見せて、心許ないから一緒にいて欲しいと言いたい時もあった。それなのに蓮音は、そう要求するための柔らかい言葉を持たないのだった。抱き締めて優しくキスをして、と言う代わりに、やけっぱちな調子で自分の体を投げ出すのが常だった。」
 
内容に救いがないところでも、文体に救いがある。
 
文体が温かい分、緩んでいたり、通俗に堕している、と思われる部分がありそうに思うが、それは全くない。
 
自分の子供が小学生の頃に、同じクラスで、学校に来るのが辛そうな女の子がいた。ちゃんと間に合うように家を出るのだが、3回に1回は、校門の前でUターンし、家に帰ってしまう。校門を入るのが、ひどく辛いのである。
 
クラスの親の間でも、話題になったことがある、と妻が言っていた。先生は、あの子はもうどうしようもないですと、むしろあっけらかんと話していたという。

この先生は、人望のある、細やかな配慮をする人だったから、逆にそういうことを言ったので、びっくりしたことがある。先生にも見放されていたのだ。
 
その子は卒業文集に、林間学校のことを書いていたが、最初から最後まで、心配だ、ということしか書いていなかった。
 
目的地まで行けるかどうか、心配だ。おやつを持ってきたが、みんなと同じかどうか、心配だ。

なかでも、夜道をハイキングするのは、とりわけ心配だとあり、夜歩いているときは、震えがくるほどだったが、宿に無事着くことができてよかった、と後半は、そのことばかり書き連ねていた。

5年のときに転校してきたが、6年で卒業するまで、クラスの誰とも、ほとんど口を利かなかったそうだ。
 
僕は『つみびと』を読みながら、しきりに、その顔も知らない、先生からも見放された、女の子のことを考えていた。
 
その子が大きくなれば、どういう悲惨が待っているか。まったく久しぶりに、そんなことを思い出していた。
 
最後に、4歳の「桃太」が、死んでゆく場面を記しておく。「桃太」のところは、文体が「ですます調」になっている。

「本当に、母は、帰って来るのでしょうか。
 何度呼びかけても返事はありません。桃太は、そっと萌音に触れてみました。すると、少し前まで、行儀良くかちんかちんに硬くなっていたその体が湿っているのです。
 慌てて目を凝らすと、液体が滲み出て床を濡らしています。そして、そこに何やら小さな白い芋虫のようなものが蠢いているのです。」
 
妹の萌音は、死んでウジが湧いているのだ。
 
このあと桃太も、意識を失っていく。

「桃太」の最期を描いた場面は、思わず涙が出そうになる。涙腺が決壊しそうになる。
 
けれども山田詠美の、厳しく、迫力ある文体が、それを許さない。山田詠美は、読者の涙によって、文章を曇らせはしない。深い悲しみは、あくまでも、体の内側の、奥深くを通って行く。

(『つみびと』山田詠美、中央公論新社、2019年5月25日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 10:46Comment(0)日記