むちゃくちゃ厳しい――『不良老人の文学論』(3)

筒井康隆の文学賞の選評は、オビの推薦文などとは違って、ずいぶん厳しいものだ。
 
考えてみれば、オビのような調子で、選評をするのであれば、いくら賞があっても足りない。
 
まず第3回山田風太郎賞の選評より。

「山田宗樹『百年法』は、不自然な体言止めの多用が投げやりのように見えてしまい、地の文の途中から会話になり、地の文に戻らずに終わるなど、文体が文学的でないための弊害が目立った。会話ならいいが地の文で『昨夜になってようやく顔を出せた次第。』という語尾はないでしょう。小説家が『筆舌に尽し難い』と書くのに似た恥ずかしい文章です。」
 
まったく糞みそであるが、しかしよく読めば、けっこうな添削をしているとも言える。
 
評された作者は、どう取ったろうか。やっぱり、へこむだろうな。
 
次は第5回山田風太郎賞の選評。

「伊岡瞬『代償』の主人公はあきらかに読者よりも劣った存在として描かれているのだが、それがアイロニーにもユーモアにもなっていない。しかもこれは謎のあるミステリーなのだ。代りに寿人という優れた人物が謎解きをするのだが、弁護士資格を持っている主人公なのに言い返すことすらできない弱い性格では興味が持続せず失われてしまう。こういう人は最近のなさけない男性に多いが、これに感情移入せよというのは無理である。」
 
これも糞みそである。こちらは文体の問題ではなく、中身の問題。

主人公の性格というのは、根本的な問題だから、書く前に編集者とよく話し合って、委細を詰めておけばいいと思うのだが、たぶん著者と編集者の間に、そういうコミュニケーションはない。

同じ回の柳広司『ナイト&シャドウ』は、超人的なヒーローが活躍する物語だが、筒井康隆は、「ラストがわかりきっている小説であり、今や古い」と、切り捨てる。

そして重ねて言う。

「最後の数十ページは金魚の糞のように謎解きが小出しにされ、書き落とし、書き残しを総ざらいしているかに読めてしまう。テーマとなるべき動機や主張が途中で分裂し、結局はテーマも主張もないように感じられてしまうのも欠点。」
 
ほんと、これは全否定ですね。
 
第8回山田風太郎賞選評の澤田瞳子も、歯ぎしりしていよう。

「澤田瞳子の『腐れ梅』は最初の一行を読んで吃驚した。自分の作品を棚に上げて言うなら、これは下品である。文章も内容もだ。これで一定のレベルの美学は保持しているというのであれば、作者の美学の許容ラインはずいぶん低いと言わざるを得ぬ。」
 
これでは澤田瞳子は、筒井康隆の前に姿を現わせまい。……あるいは、逆か。
 
あんまり詮索すると物騒だから、このくらいでやめておこう。
 
巻末に付録として、短いインタヒューが載っている。
 
そこに、注目すべきことが書かれている。

「僕は何かイヤなことがあっても、『これは面白くなるな』とネチネチひねくりまわして考えているうちに短篇が一つできたりします。自分にとってイヤなことは他の人にもイヤなことだろうから、これをびっくりさせるように反転すればいい、と考えていくわけです。だから、小説のネタには事欠かないものですよ。」
 
自分にとってイヤなことを、他人に当てはめて考えてみる。それは考えるだけでも、イヤなことだ。それが小説家の、いってみれば、業(ごう)というものなのか。
 
ところで、オビに書いてある「巨匠14年ぶり」とは、どういうことなのだろう。「巨匠14年ぶり」で、だいたいの読者には、ああ、あのことだなと、わかるのだろうか。最後まで、そのことが疑問として残った。

(『不良老人の文学論』筒井康隆、新潮社、2018年11月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 08:54Comment(0)日記