戦後を体現した編集者の死――『いま、言わねばー戦後編集者としてー』ほか(4)

最初にこの論争に火を点けたのは、花田清輝だった。

「花田さんの吉本さんへの批判というのは、大雑把にまとめるならば、『戦争協力詩を書いた前世代の詩人たちを個人の名において糾弾するのではなく、時代と関連させつつ、戦後の芸術運動を高揚させることで全体として乗り越えるべきだ』というものでした。」

もともと花田清輝は、芸術運動や思想運動は、論争や対立によって発展するものだ、と考えていた。だから、方法としての「論争」を、非常に重視していた。

しかし吉本隆明は、それとは少し違っていた。

「吉本さんの世代はそれこそ戦場で死ぬことしか目前の選択肢がなかった。だから吉本さんの戦争協力者に対する反発や恨みというものは、花田さんの想像も及ばないほど根深いものだったと思います。」

吉本隆明の姿勢は、芸術運動や思想運動の、全体的な発展よりも、個人的な自力の思想の構築に、比重があるのだ。

「だから相手に勝つか負けるかの世界なのですね。ともかくいわれるように『自立』の思想家ですから、論争においてもいかにみずからの主張が正しいかということが先にくるわけです。」

そういうわけで、自立する思想家、吉本隆明の言語論である『言語にとって美とはなにか』や、国家論である『共同幻想論』は、たいへん優れたものだが、それを私たちが受け取って、そこからどのような実作や芸術につなげていくか、を考えるとき、はたと困惑せざるを得ない。

これらは、吉本が個人として確立した「記念碑的理論」であり、そこから何かを受け取って、つないでゆくことは、できないのではないか。

だから吉本隆明は、「失礼な言い方かもしれませんが、よく言われるように『知の巨人』として『吉本隆明自立思想記念館』に永久に保存される方だと思います。」

これは、かなり強烈な、吉本に対する批判である。

一方、花田清輝という思想家は、文章を書いたときから、その理論というようなものはなくて、めいめいが、実作や芸術運動に生かす以外に、花田の思想を読み取ることはできない。

松本さんはその結果、『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』の二冊の本を作ったあと、吉本隆明とは、「永いお訣れ」をすることになったのである。
 
松本さんの、吉本隆明に対する批判は、総括すると、次のようなものであった。

「『知の巨人』『思想界の巨人』と周囲からもてはやされた半世紀余の吉本さんの道程を、私は無念に思いかえす。それは残念ながら、日本資本主義の高度成長を総体的には補完・擁護するものとなったのではなかったか。」
 
晩年にさしかかったころの、吉本隆明の『マス・イメージ論』や、『ハイ・イメージ論 Ⅰ・Ⅱ』を思い浮かべながら、私は、本当にそうだなあと、この言葉を嚙みしめている。

戦後を体現した編集者の死――『いま、言わねばー戦後編集者としてー』ほか(3)

こういうことは、やっても許されることなんだろうか。

もちろん「花田清輝・埴谷雄高 冥界対論記録抄」とあって、最初から、架空対談なのは分かっている。でも、しかし、やっぱりいいんだろうか。

いくら、花田清輝の本を「十七、八冊」作り、埴谷雄高の本を「評論集二十一冊、対話集十二冊」作ったとしても、二人を冥界で会わせ、談論風発、好きにしゃべらせるというのは、並みの編集者ではできない。というか、松本さん以外には、できないことだ。

この『戦後編集者雑文抄』は、おおむね、21世紀に書かれた文章を収める。

今になって、この本を読めば、編集者・松本昌次さんが、いかに多くの優れた人を、結びつけたかを思い知らされて、目くるめく思いがしよう。

出版界が毎日毎日、新刊を出しながら、実際には荒涼たる風景の中で、呆然と佇んでいるとき、松本さんの世界は、じつに豊穣なのだ。今世紀に入って、荒涼のなかで、ほとんど何も残らなくなったとき、ただひとり松本さんだけが、小説家や詩人、政治学者や女優を華麗に結びつけた。

たとえば、宮本常一と、雑誌『民話』を語ったところ。

「民話だけでものは考えられない、芸術や思想といったものも含めて考えなければならないなどと思っていたんですね。日本では知識人の考えていることと民衆の動向はいつも離ればなれです。だからわたしはそれらを出会わせたいし、『民話』をそういった場にしてみたいなどと考えていたんです。(中略)『民話』には花田清輝さんや埴谷雄高さんや丸山眞男さんといった方々が登場しています(のちに、藤田省三、廣末保、谷川雁、日高六郎、吉本隆明さんなどの方がたにも執筆してもらっています。)」

『民話』という雑誌を、「民話」だけではものは考えられない、と考え、そのような場にしたのだ。

編集者が、持てる力を十全に伸ばし、しかもそれを、のびのびとやっているのを見るのは、今となっては、夢のまた夢である。
 
しかしこの本には、ただ懐かしいことばかりが、書かれているのではない。

たとえば、「花田清輝ー吉本隆明論争」。これは、じつは今だからこそ、決着をつけてよいと思われる。

そして決着をつけるには、二人の生涯を見てきた松本さんをおいて、ほかにないのだ。

松本さんは、1954年、花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』を皮切りに、編集者としての生活を始めた。

一方、吉本隆明の最初の出版物、『芸術的抵抗と挫折』と『抒情の論理』(ともに1959年)も編集している。

松本さんは、埴谷・花田といった世代と、吉本は一緒になって、戦後の文学運動を進めていくものだと思っていた。

ところが、そうはならなかったのである。

戦後を体現した編集者の死――『いま、言わねばー戦後編集者としてー』ほか(2)

鷲尾さんは、「聞き書きのはじめに」でこう書いている。

「丸山眞男『現代政治の思想と行動』をはじめ、戦後社会に絶対な影響を与えた埴谷雄高、花田清輝、藤田省三、廣末保、木下順二、平野謙、富士正晴、井上光晴、上野英信、橋川文三などの多くの著作を手がけた編集者として、松本昌次さんは伝説的・神話的存在である(ご自身はこの言い方を強固に忌避されるが)。」
 
本当に、なぜこんなことが、できたんだろう。未来社の編集部は原則的に、西谷能雄社長と松本さんの二人。西谷社長は目が悪いので、細かい実務は、松本さんおひとりである。
 
それで1年間に、40~50冊(!)、作っている。そのどれもが、名著である。もちろん初校、再校、三校まで取っているのだ。まったく考えられないことだ。
 
それで、もう参りましたという意味で、「戦後の名著の多くはこの人の手になるものだった」、と言われたりした。
 
とにかく、2年間にわたる『わたしの戦後出版史』の仕事は、インタビューと、その後の酒席も含めて、じつに面白かった。

この本は、朝日新聞が2000~09年に、読むべき本を選んだ、「ゼロ年代の50冊」の一冊に選ばれている。
 
その後、2014年に、鷲尾賢也さんが、脳出血により急逝された。
 
鷲尾さんは「現代思想の冒険者たち」(全31巻)や、「日本の歴史」(全26巻)を企画し、書き下ろしシリーズ「選書メチエ」を創刊された。
 
また小高賢のペンネームで、何冊も歌集があり、そのうちの1冊、『本所両国』は若山牧水賞を受賞している。
 
鷲尾さんの死は、私には、いろいろな意味で後ろ盾を失い、打撃だった。

松本昌次さんにとっても、頭を殴られるような大打撃で、しばらくは電話で話していても、なぜ鷲尾さんは死んだのだろうねえ、という嘆き節一辺倒だった。まさか、松本さんよりも、鷲尾さんの方が、先に行くとは。

『戦後編集者雑文抄ー追憶の影ー』は、先に一葉社から出ている『戦後文学と編集者』(1994年)、『戦後出版と編集者』(2001年)に続くものだ。
 
この本は一度、このブログに取り上げたけれど、今度は松本昌次さんの生涯のうち、最晩年の本という意味で取り上げるので、重複はあるかもしれないけれど、恐れずにやってみる。
 
この本は、松本さんが、出版の仕事を通じて知り合った著者や編集者たちを、追悼した文章を多く集める。
 
だから、サブタイトルに、「追憶の影」と記されている。
 
登場するのは、花田清輝、長谷川四郎、島尾敏雄、木下順二、秋元松代、竹内好、西郷信綱、小林昇、武井昭夫、吉本隆明、久保栄、中野重治、などなど。

これは、いつもの回想と思っていると、のっけから、ちょっと度肝を抜かれることになる。最初に「花田清輝・埴谷雄高」の対談があるが、これがなんと、架空対談なのである。つまり松本さんの創作なのだ。

戦後を体現した編集者の死――『いま、言わねばー戦後編集者としてー』ほか(1)

松本昌次さんが亡くなった。2019年1月15日。享年91歳。

その晩年の姿を、著書を通して、書いておきたい。
 
ここでは、私が編集をした『わたしの戦後出版史』(トランスビュー、2008年)と、それ以後に出た『戦後編集者雑文抄ー追憶の影ー』(一葉社、2016年)、そして遺稿集、とは言っても松本さんの眼の行き届いた、『いま、言わねばー戦後編集者としてー』(一葉社、2019年)について書く。

『わたしの戦後出版史』は、元講談社の重役、鷲尾賢也氏の企画だった。
 
それをまず、トランスビューにいた、私のところへ持ってこられ、単行本として必ず出すことを前提に、その前に、朝日新聞の月刊誌『論座』に連載することにした。
 
松本昌次さんは1953年、未来社に入った。それから30年を経て、自身で創業した影書房に移るまで、超人的な活躍ぶりで、戦後出版史の重厚な、また今となっては、華麗な部分を、担い続けた。

戦後30年は、未来社のような小出版社が、縦横無尽に活躍できたのである。もちろんそれは、松本昌次さんという、稀代の編集者がいてこそであるが。

鷲尾さんは、松本さんに話を聞くのに、元講談社重役である自分と、小学館重役で小学館クリエイティブ社長の上野明雄さんの二人を、聞き役に立てた。

朝日新聞出版部の担当者は、中島美奈さんであった(このころはまだ、朝日新聞出版社というかたちで、出版は独立してはいなかった)。

鷲尾さんの企画案は、実に周到なものだった。松本さんの未来社での話を聞くのに、元講談社と小学館の大立者が、聞き役としてそろい、それを朝日新聞の『論座』に載せる。そうして単行本は、トランスビューという、最も小さな出版社から出す。

聞き書きは、2005年10月から2年間、16回に及んだ。それを『論座』に、21回に分けて連載した。

企画というのは、こういうふうに作るんだ、という見本だった。

松本さんへの聞き書きは、6時から9時くらいまで。丁々発止で伺い、それが終わると場所を変え、酒を挟んで、出版について思うところを、腹蔵なく語り合った。

そういうときの、松本昌次さん、鷲尾賢也さん、上野明雄さんのやりとりは、歯に衣(きぬ)着せぬどころではなく、はらはらして、実に面白く、スリリングであった。

中島美奈さんと私は、注意深く一言も聞き逃すまいと、ただ耳を澄ませていた。

貫目が足りない――『あちらにいる鬼』

著者の井上荒野は、井上光晴の娘である。
 
父、井上光晴は、瀬戸内寂聴と不倫の関係にあった。正確には、得度した寂聴ではなく、瀬戸内晴美のときである。
 
井上光晴の妻、つまり著者の母は、すぐにそういう関係に気づく。
 
その三者を描いた小説である。

帯の表には、「小説家の父、美しい母、そして瀬戸内寂聴をモデルに、〈書くこと〉と情愛によって貫かれた三人の〈特別な関係〉を長女である著者が描き切る、正真正銘の問題作」とあるが、それほどのことはない。
 
娘である井上荒野が、父母を含む、三者三様の心理を描いたところは、なかなかすごいものだとは思うが、それにしては、父の井上光晴が、とっかえひっかえ女とやるだけの、昔はよくいたセクハラ親父で、それに耐えている母も、子供がいるからしようがないだけの、つまらない女だ。
 
もちろん、母を近くで見ていた著者にとっては、違うだろうが。実物を見ていない私にとっては、やはり、つまらない女だ。
 
そういう意味では、瀬戸内晴美から、得度して寂聴となった女性だけは、描いていて、描き甲斐があっただろう。
 
しかし著者には悪いが、女と男は相見互い、車谷長吉の言葉を借りれば、男女は貫目が合って、ドラマが起こる。その意味では、どの人物も、はっきり言って、貫目が足りなくて、うんざりだ。あるいは、低いところで、貫目が合っている。
 
著者にとっては、自分の親のことだから、苦しくても、書かずにはいられなかっただろう。
 
そういうものを、ついおもしろそうだと、引っかかる私が悪い。
 
けれども、直木賞をもらった『ホテルローヤル』、「正真正銘の問題作」である『あちらにいる鬼』と続けて読んで、これではもう、どうしようもないと思うのは、やはり小説は、何かが欠けてきていて、終わりつつあるジャンルなんじゃないか。
 
そこは、何とかならんのか。
 
読んでいるうちに、考えてもみなかったところに出たり、あるいは、想像もできないところを、闇に迷って深く深く進む、といったことは、もう小説世界では、経験できないんだろうか。
 
そういうことを、漠然と考えていると、やっぱり村上春樹しかいないんじゃないか、と思えてくる。

(『あちらにいる鬼』井上荒野、
 朝日新聞出版、2019年2月28日初刷、4月30日第4刷)

救いはほとんどない――『ホテルローヤル』

これは六年前の、桜木紫乃の直木賞受賞作。このごろ、こういうものはめったに読まない。出版界の、たいていは貧すれば鈍する世界が、透けて見えるからである。
 
けれども東京新聞には、この本は文庫になってからも、着実に売り上げを伸ばし、もうそろそろ、100万部に手が届きそうだ、という話が出ていた。
 
それならちょっと面白そう、と思うではないか。
 
で、読んでみたが、読み終わって、「底辺」に蠢(うごめ)く、倦怠感溢れる男女の営みが、これでもかこれでもかとばかりに、ゲップとともに出そうで、閉口した。
 
まあ潰れた、連れ込みホテルが、舞台なんだから、しょうがないとも言えるが。
 
全部で7つの連作短編を収める。

そのうちの、住職の妻が檀家に性的な奉仕をする、「本日開店」には、こういう文章がある。

「野菜を洗う水の冷たさが肘から二の腕、胸元から腹へと伝わる。冷たさはやがて幹子の中心部に届き、綿の花がはじけるようにポンと開いた。」
 
性的なものと、台所仕事を重ねていて、うまいものだが、もうこういう上手さは、私は願い下げにしたい。
 
ここに出てくる男女は、だれも明日を信じてない。昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日がある。そこには、どんな希望もない。
 
けれども全編の中で、「バブルバス」という話に、本当に一カ所だけ、微笑ましいところがある。

「『お前、もう風呂に入ったのか』
『うん。泡はなくなっちゃってたけど。汗、流しておいでよ』
起きあがった真一も、少しふらつきながらバスルームに消えた。シャワーの音が響いてくる。明るい場所で夫の裸を見るのも悪くなかった。ふたりとも等しく年を重ねていることがわかる。それはそれで、幸福なことに違いなかった。」
 
全編中で、救いはここだけだった。
 
そういえば、桜木紫乃はこの時期か、あるいは前後して、東京新聞に連載小説を持っていたな。そういう時は、心して書評を読まなくては。

(『ホテルローヤル』桜木紫乃、集英社、2013年1月10日初刷、7月30日第4刷)

今度はノンフィクション――『奴隷労働ーベトナム人技能実習生の実態ー』(5)

もっと、ぞっとするのは、2017年までの8年間に、技能実習生、174人が、死亡していることだ。

日本で働くために、日本語を学び、渡航費用として莫大な借金を抱え、そうして来日したところ、職場でハラスメントや、いじめ、暴力に遭い、しかし転職は、表立ってはできない。これが今の、日本の状況だ。

そのとき、20代の技能実習生は、どこまで追いつめられるのであろうか。そこから「死」の淵までは、あまり距離がないような気がする。

技能実習生は、日本人にとっては、「ひとりの人間」である前に、「一個の労働力」でしかないのだ。

政治家は、票にならないものは、無視してかまわない。けれども、外国人を低賃金で雇う労働市場は、もう完全に、日本の中に形成されている。

この本では、さらに取材を進めて、技能実習生の制度は、やめてしまっても良い、という意見も存在する。

去年の秋に、法改正があって、技能実習生は場合によっては、日本に定住することができ、家族も呼べるようになった。

しかしそれでも、労働環境が変わらなければ、ということは、ある程度の転職が認められなければ、虐げられている技能実習生としては、同じことだと思う。

この問題は、日本の労働人口の激減問題とも、直接リンクする。安倍首相が、憲法などもてあそんではいられない、として、大急ぎで、こちらの法律を改正した意味が、分かるのである。

(『奴隷労働ーベトナム人技能実習生の実態ー』
 巣内尚子、発行・花伝社、発売・共栄書房、2019年3月20日初刷)

今度はノンフィクション――『奴隷労働ーベトナム人技能実習生の実態ー』(4)

技能実習生が、事業所から逃げることを、「失踪」と呼ぶ。

でもそれは、果たしてふさわしい言葉なんだろうか。これは自分の身を守るための「脱出」、または「避難」ではないのか。
 
2017年に「失踪」した技能実習生は、法務省の調査によれば7089人、18年も、6月末までで4279人を数える。
 
そのうちの約7割が、「失踪」の理由に、低賃金を上げたという。
 
けれども低賃金以前に、日常で曝されている、有形無形の「暴力」の存在がある。

「就労期間中に実習先企業において、むなぐらをつかまれる、顔を殴られる、すれ違いざまに肩をわざとぶつけられるという身体的な暴力、『ベトナムに帰れ』『バカ』といった言葉による暴力、モノを投げつけられる、体を触られるなどのセクハラ、ケガをしても十分に治療させてもらえない、行動を監視される、外出を禁止される、罰として雨の中で外に立たされるといった状況に置かれていた人たちがいた。」
 
ベトナム人は、これを仕方なく、日常のこととして受け入れている。もちろんこれは、一回性のものではなく、日常的、常習的に起こっていることなのだ。
 
もっとひどい例もある。

「筆者が話を聞いた技能実習生の中には、朝3時までの長時間労働で休みがほとんどないという人や、……あるいは放射能汚染の『除去』といった危険な仕事をさせられた人がいた。」
 
これを「失踪」とは呼ぶまい。どう見ても「避難」、または「脱出」であろう。
 
グエン・タン・スアンさん(仮名)は、ベトナム中部出身の20代の女性だ。この人も、渡航費用として全額を借金し、約110万を借りた。
 
この人も、縫製会社で働いた。労働時間は、午前8時から、翌日の午前3時まで。正午から午後1時までの昼食休憩と、午後5時から6時までの夕食休憩以外は、ずっとミシンの前に座り、働き続けなければならない。
 
休みは月に4日、または3日。毎日、休憩時間を除くと、17時間の労働で、ほかにどんなことをすればいいのか。
 
そして、スアンさんの手取りは、家賃や電気代その他が引かれ、月に8万~9万円ほど。

スアンさんたち、技能実習生のタイムカードは、自分では押すことができず、管理者がタイムカードを押し、管理していた。長時間の残業労働の分は、まったく計上されていなかった。
 
スアンさんは、1年以上たったとき、その縫製会社をこっそり抜け出し、東京を目指した。

そのとき頼りにしたのは、SNSであり、それを通じて派遣会社を見つけ、そこに身を寄せたのだ。

「この派遣会社は会社から逃げてきた技能実習生など、在留資格外の活動をしたり、あるいは在留資格のない外国籍者にも仕事をあっせんする会社だった。」
 
技能実習生が逃げた先に、そういう「会社」が存在し、それが結果的に、日本の産業の下支えをしていることに、注意しなければならない。
 
技能実習生が職場から逃げるのを、可能にするのは、そういう労働市場の存在があるからこそであり、まったく暗澹となる。
 
とはいえ実習生が、日本語を勉強し、莫大な費用をかけて、日本に限りない希望を持ってやってきたのに、ここまで追いつめられているというのは、しかもその数が、年々増えているというのは、じっとしてはいられないことだ。

今度はノンフィクション――『奴隷労働ーベトナム人技能実習生の実態ー』(3)

ベトナムでは月額平均給与、2万円台にもかかわらず、来日するのに、100万円前後の借金をする。
 
ちょっと考えれば、そんな愚かな借金は、できるはずがない。でもその後押しを、国営銀行がする。
 
これは送り出す側の、ベトナムの問題である。

そして私が思うに、共産党の一党独裁政府は、どんなことでも、改めるのに恐ろしく時間がかかる。あるいは、ついに改めることがない。

これはもちろん、共産主義政府にかかわらない。権力が集中して、独裁に近くなれば、みな必ず腐敗する。
 
それで、日本に行きさえすれば、その金はすぐに返せて、その後は、故郷の家族に仕送りをし、しかも働く本人は貯金ができる。こういう話が、今もそのまま通る。
 
ベトナム北部出身の女性、フエさん(仮名)は、技能実習生として日本で働いている。給与は月に12万円。そこから家賃、税金、保険料、ガス代などを引かれると、残るのは7万ちょっと。そこから家族に仕送りしている。
 
ニャンさん(仮名)も、ベトナム北部で生まれた女性。来日後は養鶏場で、実習生として働き、給与は月に15万5千円である。そこから家賃、税金、保険料として3万5千円が引かれる。手元に残った12万円のうち10万円を、ベトナムの家族に送金している。
 
彼女に残るのは2万円のみ。その中から、食事代その他の雑費を、出さなくてはならない。
 
今までの例は、恵まれている方に当たる。
 
岐阜県の縫製工場で、技能実習生として働くニュンさんの場合、過労死ラインを超える長時間労働や、就労先企業の日本人によるハラスメント、言葉による暴力など、数々の問題を抱えていた。

彼女の残業の時給は500円、信じられないことだ。
 
けれどもニュンさんは、日本語能力が不十分ということもあり、また経営者から、ことあるごとに本国に返すぞと言われて、身動きが取れなかった。
 
ここでもう一度、技能実習生は転職できない、ということを思い出してほしい。
 
ニュンさんは、悩んだ末に労働組合に駆け込み、交渉の末に、何とか問題は解決した。
 
マイさんは、小さな子供のいるシングルマザーであった。子供は、故郷の父母などが見ている。
 
マイさんは、岐阜の縫製工場で働いていた。縫製工場での仕事は、経営者の暴言に耐えて、朝から夜の10時まで続く。休みは一か月に一度だけ。残業時間の時給は400円(!)であった。
 
それだけ、休みのない長時間労働をしても、家賃、水道光熱費、税金、社会保険料などを引かれると、マイさんの手元に残るのは、月に11万~12万円。

彼女はそこから、生活費を切り詰め、なんとか来日一年目に、渡航前費用の借金を返済し、現在は故郷の家族に、9万~10万円を送っているという。比喩ではなく、涙なしには読めない話だ。

しかし、ここまではまだいい。技能実習生として、ギリギリ何とか頑張っているからだ。

そうではなくて、そこから「失踪」する人々がいる。

今度はノンフィクション――『奴隷労働ーベトナム人技能実習生の実態ー』(2)

技能実習生の、何よりの問題は、どんな企業に受け入れられるかが、わからない点だ。これはもう、偶然に左右されるほかないのだ。
 
だから経営者が、いい人か、腹黒い人かは、蓋を開けてみないとわからない。

そして『ふたつの日本』では、労働条件に問題ありというところが、全体の7割ということだった。蓋を開けてみれば、3か所に2か所以上は、問題ありということなのだ。

「さらに、技能実習生は受け入れ企業との間で課題があっても、別の企業に転職することができない。そのため技能実習生が日本で搾取的な処遇に直面するのか、あるいはきちんと処遇してくれる受け入れ企業で働けるのかどうかは、『運まかせ』なのだ。」
 
この一連の事柄が、「奴隷労働」と呼ばれる所以なのだ。
 
とりあえず転職の自由は、早急に認めなければいけない。そこに、ある一定の条件はつけるにせよだ。
 
アジアの技能実習生たちは、日本という国を経験した結果、全体の37パーセントが、日本はよくなかった、という印象を持っているという。

来日する前は、97パーセントが、日本に対して好意的なのに、これでは、「嫌われ者・日本」という印象を、振りまいているだけではないか。

これは根本的に、アジアに対する視線を変えねばなるまい。技能実習生を雇う人たちの話ではない。「私」の視線を変えなければ、と思うのだ。

「技能実習生というアジア出身の若者たちを、一人ひとりの人間としてとらえ、彼ら彼女らが何を考え、何に困っているのか、何をしたいのか、そのことへ寄り添っていくことが求められる。外国人技能実習生は〝代替可能な外国人労働者〟ではないし、〝顔の見えない匿名の誰か〟ではない。それぞれの人生を切り開こうとする一人の個人がそこにいる。」
 
そういうことなのだ。こういう見方ができないのは、私も含めた日本人個人の、限界ともいえる。でも、そこを突破しなければ。
 
著者は、ベトナムの日本語学校を訪問する。

「その日は日本人の教師が担当する日で、学生たちが以前に習った表現を実際に話すという授業が行われていた。これから日本へ行くという学生たちは真剣そのものだった。授業を担当していた日本人教師に話を聞くと、技能実習生として日本にわたる若者たちは、とにかくよく勉強し、日本語の習得に熱心だという。」
 
それが、日本に来てみれば、低賃金・長時間労働、転職の自由がないというのでは、あまりというものだ。
 
しかも、家族のために働きにこようという段階で、ベトナムは、国家全体で搾取をしている。

「(ベトナムの場合は)仲介会社だけではなく、国営銀行もまた、債務を背負った移住労働者を生み出す構造を持つ移住産業の一翼を担っているといえる。」
 
莫大な費用を払って、日本に来るために、国営銀行が貸付を行っているのだ。