本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(6)

もはや多くを語る必要はあるまい。梯久美子の栗林忠道に対する評価は、小さな中での評価であり、別の言い方をすれば、うわべの矛盾を撫でるだけのものだった。

だから、栗林の戦術や作戦も、結果はむしろ、余計に悪くするものだった。

「目的はあくまでも持久戦なのだから、水際では決戦を行わず一撃を与えたら引き上げる。そして複線化した陣地で長期にわたって徹底抗戦をする。それが合理主義者である栗林の考えだった。」
 
このような「合理主義者」の行く先は、どれだけ悲惨な事態を生むか。

栗林はアメリカをよく知っていた、と梯は言う。

それで、硫黄島を戦場にして、ほかの南洋の島の場合とは、全く違う戦い方をした。しかしそれは、原爆につながる、最も悲惨な運命を、結果として選び取るものだった。
 
栗林はアメリカを、本当のところはよく知らなかったのだ、と私は思う。
 
梯久美子は、栗林を評価するのに、いつも近視眼的な見方ばかりをしている。

「……結論に行き着くや具体的な計画を立て、万難を排してただちに実行に移すという迅速さは栗林ならではであろう。しかもその時点において、栗林の決断は大本営の方針に背くものだったのだ。」
 
大本営の方針が、あまりに馬鹿々々しいから、それを批判する栗林は、一見合理的に見える。しかも、大本営に対して、栗林は一人で論陣を張り、戦っている。
 
でも、その合理主義は、より大局から見れば、とんでもない愚行なのだ。
 
栗林は、この本では、いかにも将兵を大事にし、合理主義者でスマートに見える。しかし、それは違うのだ。

「戦術思想においては合理主義者だった栗林だが、生き方においては、前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分であるという愚直なまでの信念を持っていた。」
 
だから硫黄島の戦場は、栗林の意図したとおりになった、と梯は言うが、それは違うと思う。

「前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分である」ということと、そのまま軍人として死ぬこととは、イコールで結ばれてもいなければ、直線的につながってもいない。
 
鴻上尚史『不死身の特攻兵』のブログで書いたように、今現在、本当に優れていると思うことでなければ、文章の修飾などでごまかしたり、酔ってうっとりしたって、駄目なものは駄目である。
 
とはいえ、戦争のことに関しては、例えば梯久美子の書くものが、今のところ、日本人の限界なのかとも思う。

話を広げて、人間の限界ということになると、これはもう、はっきりとあって、どうにもならない。

でも私は、できればそれを、少しでも広げたいと思い、現役の編集者のころは、そういう思いで仕事をしてきた。

今はもう、編集者の仕事はできないけれど、でも人としての限界を広げられたならと、なおも秘かに思っている。

(『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』
 梯久美子、新潮社、2005年7月30日初刷、2006年11月10日第21刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:11Comment(0)日記