本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(5)

栗林忠道が、どんな犠牲を払ってでも、硫黄島の戦闘を持久戦に持ち込もうとしたのは、Bー29によって本土が空襲されるのを、一日でも遅らせたい、という思いからだった。
 
それは妻、「義井」宛ての手紙に、はっきり書かれている。

「もしまた私の居る島が攻め取られたりしたら、その上何百という敵機がさらに増加することとなり、本土は今の何層倍かの激しい空襲を受けることになり、悪くすると敵は千葉県や神奈川県の海岸から上陸して東京近辺へ侵入して来るかも知れない。」(昭和20年1月21日付)
 
だから自分は、「最後の一人となるも『ゲリラ』」となって、敵を悩まそうというわけだが、それにしても、全体としてはかなり空想的である。
 
硫黄島で戦っている間に、上層部で和平交渉をしてほしい。でも、軍の中枢で、いったい誰が? 「どうかアッツ島のようにやってくれ」、と言った東条英機か。
 
栗林が、妻に宛てた手紙には、はっきりと「敗戦」を前提とした一節がある。

「これからさらに恐ろしい敗戦の運命の中、どういうことになるかもわからないことを思い、女ながらも強く強く生き抜くことが肝心です。」(昭和19年8月25日付)
 
こんな手紙が検閲を通るはずがない、と思うだろうが、最高指揮官であればこそ、届いた手紙なのである。
 
硫黄島では、米軍との4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5か月間にわたる戦闘を、上回る死傷者を出した。
 
あまりの犠牲者の数に、アメリカの世論は沸騰した。新聞には、若者をこれ以上殺すな、指揮官を更迭せよ、という投書が載った。

「こうした事態を事前に見越していたからこそ、栗林は華々しく戦って散るよりも、持久戦に持ち込んで米軍の人的被害を少しでも多くすることを選んだ」というのが、アメリカの史家の指摘である。
 
それが指摘通りだとしても、その後に起こったことは、栗林の期待を大きく裏切るものだった。

「これ以上自国の若者たちを死なせるわけにはいかないと考えた米国政府が戦争の早期終結のために選んだのは、原爆の使用によって、日本の一般市民を大量に殺傷することだったのである。」
 
これは栗林が、まったく予想もしていない結末であろう。
 
しかし、そうではあるけれど、米国政府が、「自国の若者たちを死なせるわけにはいかない」と考えたのに対し、日本は、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言い、第2次大戦末期には、若者を特攻隊に仕立てて、次々と死地に追いやったのである。
 
米国と日本では、同じ戦争を戦ってはいても、戦争の位相が、まったく違っていたことに、注意すべきである。
posted by 中嶋 廣 at 09:01Comment(0)日記