どういうふうに考えるべきか――『コンビニ外国人』(3)

しかし、にもかかわらず日本は、「移民」は受け入れていない。「移民」に関する法制度も、整っていない。
 
そもそも安倍晋三首相が、再三にわたって、移民政策をとることは断じてない、と明言している。
 
この首相の方針を、分かりやすく言ってしまえば、「『移民』は断じて認めないが外国人が日本に住んで働くのはOK、むしろ積極的に人手不足を補っていきたい」、ということになる。
 
これは2016年の、自民党の、「『共生の時代』に向けた外国人労働者受入れの基本的考え方」に、沿ったものだ。
 
この方針は、それまでの鎖国政策を転換させた、画期的なものだった、という。要するに、産業界からの、人不足の突き上げに、自民党が抗しきれなくなった、ということなのだろう。
 
しかしこの中で、「移民」については、実に奇妙な定義をしている。

「その定義とはーー、『「移民」とは、入国の時点でいわゆる永住権を有する者であり、就労目的の在留資格による受入れは「移民」には当たらない』というものだ。」
 
つまり、入国の時点で、永住権を持っていなければ、その後何年かいて、永住権を取った場合でも、「移民」ではないのである。
 
どうして、こんな奇妙なことになるかといえば、国民の間に、「移民」という言葉に対して、アレルギーがあるからというのが、著者の考えだ。

しかし僕は、これは違うと思う。
 
著者は、「移民」という言葉に対するアレルギーが、一般の国民にあるからだという。近年、ヨーロッパで起こったテロ事件の影響で、移民が増えれば犯罪が多くなり、また雇用の機会も奪われる、と思っている人が多い。著者はこのように言う。
 
僕は、安倍首相を筆頭とする自民党の、特に右派の人々に、「移民」に対するアレルギーが、強いのではないかと思う。
 
そうでなければ、「移民」に関して、実に珍妙きわまる定義は、必要ないではないか。はっきり言えば、安倍首相が、日本会議と仲良くしている間は、この「定義」は何年も続くだろう。
 
それにしても、外国人が日本に住む場合に、最初に問題になる賃貸契約は、どうなっているのだろうか。

「……たしかに新大久保界隈を歩いていると、『外国人OK』『外国人専門』を謳う不動産屋が何軒もある。審査は不動産屋や保証会社によっても違い、中には保証人が不要な代わりに給与明細や預貯金額の提示を求められることもあるようだが、ここ数年で不動産業者の対応もずいぶん変わってきているようだ。」
 
新宿で不動産屋を営んでいる人に、実際にどんなふうであるのか、聞いてみたい。これはこれで、一本の企画になるだろう。

どういうふうに考えるべきか――『コンビニ外国人』(2)

留学生の場合、出入国管理法で、週に28時間まで、夏休みなどは週に40時間までと、労働時間の上限が決められている。これを破ると、雇用する側と、される側の、両方に、罰則が科されることになっている。

「ちなみに『週に二十八時間』を仮に時給1000円で計算すると、週給二万八〇〇〇円だ。四週間働くと額面で一一万二〇〇〇円の稼ぎになる。時給が八〇〇円なら四週間で九万円弱。」
 
だから、週に28時間を守っていたのでは、かつかつの生活ができるだけで、たとえば、この先、学費を払うことはできない。

「二年目以降の学費を払えずに退学してしまうと、当然のことながら留学ビザでの滞在資格はなくなる。」
 
そうすると留学生は、次の三通りしか、選べなくなる。

1、借金を背負ったまま帰国する。
2、強制送還を覚悟でオーバーワークする。
3、とにかく失踪する。
 
つまり、週28時間を守っていては、貧乏な留学生は、日本で暮らしてはいけない。
 
これはこれで、日本の政府としては、一応の筋は通している。一定の富裕な層以上でなければ、日本に留学してはいけない(でもこれは、日本会議が描く鎖国「日本」と同じで、ちょっと空想的だ)。
 
たとえばコンビニは、今では圧倒的に外国人を頼りにしていて、彼らがいないと、立ち行かないのだ。
 
コンビニだけではない。留学生とは別に、外国から「技能実習生」として、それぞれの事業所で、個別の技術を習得する目的で、入国している人も多い。

「たとえば、早朝のコンビニでおにぎりをひとつ買うとしよう。……/おにぎりを買ったレジのスタッフは外国人のようだ。/その数時間前、工場から運ばれてきたおにぎりを検品して棚に並べたのも別の外国人スタッフだ。/さらに数時間前、おにぎりの製造工場で働いていたのも六~七割が外国人。日本語がほとんど話せない彼らをまとめ、工場長や各部署のリーダーからその日の業務内容などを伝えるスタッフも別の会社から派遣された外国人通訳である。/そして、『いくら』や『おかか』や『のり』の加工工場でも多くの技能実習生が働いている。/さらにその先の、米農家やカツオ漁船でも技能実習生が働いている可能性は高い。」
 
コンビニだけではない。年が明けて、安倍晋三首相が、外国人を受け入れる、開国元年のようなことを言ったが、現実はもう、それを、はるかに超えているのだ。

どういうふうに考えるべきか――『コンビニ外国人』(1)

タイムリーな本である。というよりも、本になるのが、ちょっと遅いくらいである。

あるいはもっと遅くて、今年になっていれば、入管法がかなり変わっていて、これはこれで、実にタイムリーな本になっていたろう。

それでも、問題の大枠を見るのには、都合がよいような気がする。
 
著者の芹澤健介は、初めて読む人である。
 
「東京二十三区内の深夜帯に限って言えば、実感としては六~七割程度の店舗で外国人が働いている。昼間の時間帯でもスタッフが全員外国人というケースも珍しくない。」
 
最初にこうあるけれど、僕が倒れる前、つまり5年前には、浜町や馬喰町のあたり、あるいは、新宿や市ヶ谷のあたりのコンビニは、スタッフは全員、外国人だった、と思う。
 
日本人も、いたかもしれないけれど、少なくとも深夜には、外国人しかいなかったと思う。

「全国のコンビニで働く外国人は大手三社だけで二〇一七年に四万人を超えた。全国平均で見るとスタッフ二十人のうち一人は外国人という数字である。」
 
全国的にみると、たいしたことはない、と僕などは思ってしまう。やっぱり、「コンビニ外国人」といえば、東京や大阪といった大都市が、大きいのだろう。
 
その意味では、コンビニの外国人は、ますます全国津々浦々、増えていく可能性がある。
 
しかし、必ずしもそうではない、という予測もある。
 
レー・タイ・アインさんは24歳、ベトナムの男子留学生で、東大大学院で経済を学んでいる。彼は5年近く、コンビニで働いた経験がある。彼のいうことは、筋が通っている。

「おそらく東京オリンピックの後は、日本は不況になります。しかも、日銀の超低金利もオリンピック後には上昇する見込みで、企業の資金調達も困難になると思います。……本来は外国人の労働力をうまく使わないと経済成長できませんが、外国人はきっと増えません。なぜなら日本は外国人労働者の受け入れ制度が整っていません……」
 
だから、日本は不況になって、外国人労働者は、逃げてゆくだろう、その結果、日本の経済は、ますます傾いていくだろう、というのである。

著者は「はじめに」で、最初にこの点を押さえている。

デジャヴュ――『盤上の人生 盤外の勝負』『升田幸三の孤独』『最後の握手ー昭和を創った15人のプロ棋士ー』(4)

「藤井聡太は、人格が完成されてるんや。しかも、中学生のころから。これはいったい、どういうことなんやろなあ」

「ふふ、うふふふ」
 
Nやんも、苦笑いするほかない。

「べつに難しい漢字を、使うせいやない。いや、それも含めても、ええかもしれんけど、とにかく人格が完成されてる」

「第11回朝日杯将棋オープン戦のとき、今度の前のやつやけど、佐藤天彦名人が、藤井に負けた後で、感想戦をやってたんや。それが進んで行くにつれて、名人がひたすら、へりくだりおるんよ。これはたんに、名人が読み負けてる、という問題やないと見たが、どうやろ」

「将棋は、ふつうは段位が進むに連れて、人格もそれなりにできてくるもんや。例えば渡辺明。最初は言いたい放題やったけど、龍王を取って、何回かタイトルを重ねてくるにしたがって、人格ができてきたもんや」

「それが、藤井は中学生のころから、完成されてるやろ。つまり将棋は、人格が優れたものほど、将棋も優れたものやと、いえるんかいね」

「うーむ、どうやろ。そういえば、羽生も佐藤〔康光〕も森内も、人格的にもなかなかのもんや、と聞いてるけどな」

「将棋のライターには、その点を聞きたいけどなあ。本当のところ、将棋の技術と人格は、どういう関係なんやと」

「ほんまやな。そこがもっとも聞きたいとこや」

「それを、藤井と絡めて書いたら、けっこうベストセラーになるかもしれんで」

「しかしこれは、書き手も力量を試されるで。いまの将棋ライターでは、無理かもしれん」

「むかしは、五味康祐とか、山口瞳がいたんやけどなあ」
 
Nやんは、そこでしばらく黙っていたけれど、話の方向を転換させた。

「ところで藤井は、どこまで行くやろ」

「まあ、8大タイトルは、全部取るな。名人、龍王、王位、王座、王将、棋王、棋聖、叡王のうち、名人は挑戦するのに、あと四年ほどかかるやろけど、それ以外は、あと2、3年で、全部取るやろな」

「羽生の時代は、7大タイトルやったが、タイトルを全部持ってたんは、わずかに5カ月や」

「藤井は全部のタイトルを、たぶん10年は、持ってると思うよ」

「そうやな。藤井が同じ相手に、連敗というのは、考えられんから、そうすると、あと10年は、全タイトルを独占、ということになりそうやな」

「考えると、頭がくらくらしそうやけど、でもこれはこれで、異様な光景で楽しいな」

(河口俊彦『盤上の人生 盤外の勝負』マイナビ、2012年8月30日初刷、『升田幸三の孤独』マイナビ、2013年2月28日初刷、4月5日第2刷、『最後の握手ー昭和を創った15人のプロ棋士ー』マイナビ、2013年12月31日初刷)

デジャヴュ――『盤上の人生 盤外の勝負』『升田幸三の孤独』『最後の握手ー昭和を創った15人のプロ棋士ー』(3)

「結局のところ、藤井聡太が出てきて、何が変わったんや」

 Nやんが僕に聞く。

「一番の違いは、ほかの棋士全員が、藤井を天才と崇めてることや。というか、そういうことを、露骨に示していることや」

「ほほう!」

「棋士はみな、自分を天才やと思てるから、そして事実そういうことやから、相手を讃えるときでも、自分もなかなかの者やけど、相手も立派や、という言い方でしか誉めよらん」

「まあ、そうやねえ」

「大山名人なんか、誉めるどころか、どんな人間も必ず間違える、だから、全体で八割、正解を出してれば、一曲の将棋はだいたい勝てる、という主義や」

「その前の、木村義雄名人と升田幸三なんか、ああ言えばこう言うで、本当にすごいものやった」

「でもそれは、お互い、天才であることを認めたから、やってるわけや」

「唯一の例外は、羽生が谷川を認めて、この人が出てきて、将棋は変わったと言うたんや」

「谷川の高速の寄せ、か」

「それだけやない。駒を点数化して、はっきり、どちらがいいか悪いかを、その時点で言うようになったやろ」

「羽生は、谷川が初めてそういうことをやった、とはっきりいうたんや。先達に対して、尊敬をもってな」

「それは、稀有な例やね」

「藤井聡太に対するのは、それとは違うんかい」

「この前、2月に、藤井七段と渡辺明棋王が、第12回朝日杯将棋オープン戦の決勝を戦こうたんや」

「うん、それはもちろん知ってる」

「渡辺はこの一年、鬼神のごとき活躍で、タイトル戦もほとんど敵なし、たぶんこの時点で、藤井を除けば、ダントツの存在やった。それが、藤井に対しては、まったくのボロ負けや」

「うーむ」

「渡辺は、自分のブログでも書いてて、この将棋でチャンスがあるとすれば、一箇所だけ、しかし藤井は、そういうことが分かってて、それを上回る手を考えてた、という」

「それでとにかく、渡辺は、へへーっ、となってるわけやな」

「それに立ち会うとったんは、佐藤天彦名人で、渡辺と佐藤、二人の天才が、後の検討会で、いろいろ言うてみたけど、ああ言えばこう言うで、藤井に全部、なぎ倒されたそうや」

「そうか、そうすると、棋王と名人が2人そろうて、参りましたとなったわけやな」

「しかしたんに、それだけやない」

デジャヴュ――『盤上の人生 盤外の勝負』『升田幸三の孤独』『最後の握手ー昭和を創った15人のプロ棋士ー』(2)

「それにしても、今は羽生、佐藤、森内世代の活躍で、霞んでしもてるけど、〈昭和五十五年組〉の活躍は、見てる分には凄かったで」
 
Nやんは、煙草に火を点けながら、言った。

「昭和60年に、B級2組の中村修六段が、王将戦で、時の名人、中原誠を破っとる」

「おんなじ60年には、高橋道雄が、加藤一二三に奪われた王位を奪い返し、翌61年にも米長邦雄とやって、四連勝と完璧に叩いて、王位を防衛しとるやろ」

「ほんで62年には南芳一が、桐山清澄に三連勝して、棋聖になる」

「おんなじ年には塚田泰明も、中原誠を三勝二敗で破り、王座に着いとる」

「翌年には島朗が、米長邦雄に四連勝し、初代の竜王になったんや」

「このときは、二日制タイトルの一日目の夜に、島が女の子とプールへ行ったいうんで、米長が怒ってしもて、負けたんや」

「せやったなあ。しかしあれは、米長を怒らせるために、言うたんやと思うな」
 
Nやんは往時を懐かしんで、ちょっと遠い目をした。

「せやけどわいは、大山や升田いう王道やのうて、脇役の個性派が好きなんや。たとえば花村元司や」

「賭け将棋からプロになった、〈東海の鬼〉やね。俺が覚えてるのは、花村が60歳で、A級に復帰したときや。確か米長が相手のときに、中央でぶっかった駒が、花村の分だけ、退却を始めたんや。谷川の言葉に、『前進できない駒はない』ちゅうのがあるけど、その逆や」

「それで、どうなったんや」

「指し手はまるで忘れたけど、花村が勝って、米長が負けた」

「どんどん退却して、結果は退却した方の勝ちか」

「こんなことも、藤井登場以後には、見られんやろな。少なくとも、話題になることはないやろ」

「そういえば、昔は、ときに『待った』しても、よかったんやね」

「ええっ!」

「そこを読むよ。
『終盤では萩原〔淳八段〕必勝となっていた。そこで萩原があきらかに悪手とわかる手を指した。オヤ?という顔で加藤〔一二三〕が考えでいると、「こんなアホな手はないよな」の呟きとともに萩原の手が伸び、打った駒をはがし、別の手を指した。待った、をしたのである。
 加藤はちょっとふくれたが、そのまま指しつづけ、萩原快勝となった。
 今でも、その場面が浮かぶが、鷹揚な時代だったと懐かしくなる』(『升田幸三の孤独』)
これが順位戦の、勝てば昇級という最終戦やから、びっくりするやろ」

「鷹揚な時代どころやないで、無茶苦茶やな」

間奏曲――「昔、ハルビンでお会いしましたね」

「それにしてもなんか調子、悪そうやねえ」
 
Nやんがそう言いながら、煙草に火を点けようとして、僕の顔を見ながら、ためらいを見せた。

「煙草はかまへんよ。自分ではもう吸えんけど、人が吸う分には、かえって落ち着くんや」

「ブログの更新が一日、途絶えとるのは、風邪でも引いてたんかいね」

「うん、風邪が元になった、老人性知恵熱やね」

「なんとまあ、懐かしい言葉を聞いたもんや」

「ただしく老人になる道を、歩んでるんや」

「ワシは去年から、尿漏れパンツを穿いとる。これやと安心して、どこへでも行ける」

「テレビや新聞でやってるアレか。アレを友だちがしとるとは」

「ハズキルーペと尿漏れパンツは、老人の必需品やで」
 
それから一呼吸あって、僕が言った。

「話は違うけど、僕が週1回行ってる、全日のデイサービスに、Uさんという、89歳の男性がおるんや。Uさんは東大の文Ⅰを出て、役人にはならんと、そのまま、今は無くなったT銀行に勤めたんや」

「東大文Ⅰにしては珍しいのう」

「T銀行は合併で無くなったけど、Uさんは、当時は副頭取まで行った人や。この人が、ちょっと認知が入ってて、面白いんや」

「話はできるんかいな」

「うん。面と向かって、正面からきちっと喋ると、大丈夫やね」

「編集者の極意が、こんなところで役に立つとはね」

「Uさんは、T銀行の副頭取をやめた後は、東大の文Ⅰに入り、次に福岡の修猷館高校に入るんや。つまり、頭の中では、経歴を遡っとるわけやね」

「なんと、おもろいなあ。しかし全然、会話にならんやないか」

「そんなことはないよ。頭の中で逆にたどっとるとわかれば、それはそれで、コードははっきりする」

「そういうもんかのう」

「Uさんとは、なんとなく気が合うて、中嶋さんとは、最初はハルビンでお会いしましたねえ、と言うたのには、ちょっと参ったね」

Nやんは、思わず噴き出した。

「満蒙開拓団で、苦労されたんやろか」

「いや、お父さんは、満鉄のエライさんやったらしくて、引き上げるのに、そう苦労はしとらん、という話や」

「それにしても、ハルビンでお会いしましたねえ、は傑作や」

「俺らは戦後の生まれやで。しかし、そのUさんも、もう来んようになってしもた」

「亡くなったんか」

「いや、たぶん老人ホームに入られたんやろけど、個人情報ということで、だれも教えてはくれんのや」
 
Nやんと僕は、そこでしばらく黙った。

デジャヴュ――『盤上の人生 盤外の勝負』『升田幸三の孤独』『最後の握手ー昭和を創った15人のプロ棋士ー』(1)

雨が上がった昼下がり、久しぶりにNやんが来た。河口俊彦の懐かしい将棋本を、何冊か持っている。

「今年のNHK杯、見てるか」

「うん。そんなに熱心にではないけども。しかしここへきて、急に盛り上がってきたな」

「何しろ最後に残ったのが、超ベテランの棋士ばかりやからなあ」

「準決勝が羽生善治と丸山忠久、森内俊之と郷田真隆というのは、今から二十年前の組み合わせやね。この人たちは全員、NHK杯で優勝したことが、あるんちゃうか」

「そうなんよ。準決勝の組み合わせだけ見てると、ふた昔前のテレビ欄を見てるようで、頭がくらくらするで」

「やっぱり藤井聡太七段が現われて、景色が一変するから、その前に、これまでの将棋の歴史をパノラマで見せよ、と神様が考えたわけやね」

「そうやねん。せやから、河口俊彦〈老子〉の本を、まとめて読んでるちゅうわけや」

「これからは、河口俊彦の描いた、そういう機微はなくなるね」

「やっぱり藤井というのは、それだけ別格の強さがあるんやなあ」

「将棋というジャンルそのものを、変えてしもたからねえ。大山十五世名人の言う、人間は必ず失敗する生き者や、というのもきっと、昔懐かしい語り草になるに違いないで」

「しかしその大山やけど、『十六年間、タイトルを奪われた次の期には必ず挑戦者になり、遅くとも二年目にはタイトルを再び自分のものとしている』(『盤上の人生 盤外の勝負』)というんやから、やっぱりすごいよ」

「大山名人は、ガンになったときも、一年後に順位戦に復帰して、びっくりしたことには、勝ち抜いて挑戦者になってる。このときが、なんと62歳や。まあさすがに名人戦では、中原に敗れたけどな」

「将棋の歴史も考えてみれば、いろいろあったな。大山、升田、中原、米長、加藤、いうのが、最初の将棋界隆盛のころで、あとは中村修、高橋道雄、南芳一、塚田泰明、島朗の、〈昭和五十五年組〉が猛威を振るうた」

「しかし〈昭和五十五年組〉は、急速に勝てんようになったね」

「まあ谷川浩司と、そのあと出てきた羽生善治、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆あたりに蹴散らされたからね」

「すると今は、本当に群雄割拠やねえ」

本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(6)

もはや多くを語る必要はあるまい。梯久美子の栗林忠道に対する評価は、小さな中での評価であり、別の言い方をすれば、うわべの矛盾を撫でるだけのものだった。

だから、栗林の戦術や作戦も、結果はむしろ、余計に悪くするものだった。

「目的はあくまでも持久戦なのだから、水際では決戦を行わず一撃を与えたら引き上げる。そして複線化した陣地で長期にわたって徹底抗戦をする。それが合理主義者である栗林の考えだった。」
 
このような「合理主義者」の行く先は、どれだけ悲惨な事態を生むか。

栗林はアメリカをよく知っていた、と梯は言う。

それで、硫黄島を戦場にして、ほかの南洋の島の場合とは、全く違う戦い方をした。しかしそれは、原爆につながる、最も悲惨な運命を、結果として選び取るものだった。
 
栗林はアメリカを、本当のところはよく知らなかったのだ、と私は思う。
 
梯久美子は、栗林を評価するのに、いつも近視眼的な見方ばかりをしている。

「……結論に行き着くや具体的な計画を立て、万難を排してただちに実行に移すという迅速さは栗林ならではであろう。しかもその時点において、栗林の決断は大本営の方針に背くものだったのだ。」
 
大本営の方針が、あまりに馬鹿々々しいから、それを批判する栗林は、一見合理的に見える。しかも、大本営に対して、栗林は一人で論陣を張り、戦っている。
 
でも、その合理主義は、より大局から見れば、とんでもない愚行なのだ。
 
栗林は、この本では、いかにも将兵を大事にし、合理主義者でスマートに見える。しかし、それは違うのだ。

「戦術思想においては合理主義者だった栗林だが、生き方においては、前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分であるという愚直なまでの信念を持っていた。」
 
だから硫黄島の戦場は、栗林の意図したとおりになった、と梯は言うが、それは違うと思う。

「前線に赴き敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分である」ということと、そのまま軍人として死ぬこととは、イコールで結ばれてもいなければ、直線的につながってもいない。
 
鴻上尚史『不死身の特攻兵』のブログで書いたように、今現在、本当に優れていると思うことでなければ、文章の修飾などでごまかしたり、酔ってうっとりしたって、駄目なものは駄目である。
 
とはいえ、戦争のことに関しては、例えば梯久美子の書くものが、今のところ、日本人の限界なのかとも思う。

話を広げて、人間の限界ということになると、これはもう、はっきりとあって、どうにもならない。

でも私は、できればそれを、少しでも広げたいと思い、現役の編集者のころは、そういう思いで仕事をしてきた。

今はもう、編集者の仕事はできないけれど、でも人としての限界を広げられたならと、なおも秘かに思っている。

(『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』
 梯久美子、新潮社、2005年7月30日初刷、2006年11月10日第21刷)

本当の疑問――『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(5)

栗林忠道が、どんな犠牲を払ってでも、硫黄島の戦闘を持久戦に持ち込もうとしたのは、Bー29によって本土が空襲されるのを、一日でも遅らせたい、という思いからだった。
 
それは妻、「義井」宛ての手紙に、はっきり書かれている。

「もしまた私の居る島が攻め取られたりしたら、その上何百という敵機がさらに増加することとなり、本土は今の何層倍かの激しい空襲を受けることになり、悪くすると敵は千葉県や神奈川県の海岸から上陸して東京近辺へ侵入して来るかも知れない。」(昭和20年1月21日付)
 
だから自分は、「最後の一人となるも『ゲリラ』」となって、敵を悩まそうというわけだが、それにしても、全体としてはかなり空想的である。
 
硫黄島で戦っている間に、上層部で和平交渉をしてほしい。でも、軍の中枢で、いったい誰が? 「どうかアッツ島のようにやってくれ」、と言った東条英機か。
 
栗林が、妻に宛てた手紙には、はっきりと「敗戦」を前提とした一節がある。

「これからさらに恐ろしい敗戦の運命の中、どういうことになるかもわからないことを思い、女ながらも強く強く生き抜くことが肝心です。」(昭和19年8月25日付)
 
こんな手紙が検閲を通るはずがない、と思うだろうが、最高指揮官であればこそ、届いた手紙なのである。
 
硫黄島では、米軍との4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5か月間にわたる戦闘を、上回る死傷者を出した。
 
あまりの犠牲者の数に、アメリカの世論は沸騰した。新聞には、若者をこれ以上殺すな、指揮官を更迭せよ、という投書が載った。

「こうした事態を事前に見越していたからこそ、栗林は華々しく戦って散るよりも、持久戦に持ち込んで米軍の人的被害を少しでも多くすることを選んだ」というのが、アメリカの史家の指摘である。
 
それが指摘通りだとしても、その後に起こったことは、栗林の期待を大きく裏切るものだった。

「これ以上自国の若者たちを死なせるわけにはいかないと考えた米国政府が戦争の早期終結のために選んだのは、原爆の使用によって、日本の一般市民を大量に殺傷することだったのである。」
 
これは栗林が、まったく予想もしていない結末であろう。
 
しかし、そうではあるけれど、米国政府が、「自国の若者たちを死なせるわけにはいかない」と考えたのに対し、日本は、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言い、第2次大戦末期には、若者を特攻隊に仕立てて、次々と死地に追いやったのである。
 
米国と日本では、同じ戦争を戦ってはいても、戦争の位相が、まったく違っていたことに、注意すべきである。