それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(6)

二人の「契約」は、実際には、男の統合失調症の病歴という、重大な事柄をかくすことで、成り立っていなかった。

「『今、ここ』を四十年間脇目もふらず生きてきて、初めて『今』より『先』を見てしまった結果である。親にも相談せず自分の意思だけで決定したことだけに衝撃は大きく、自信もなくした。」
 
実際、男は2か月後くらいから、豹変したのである。

「結婚二ヶ月ぐらいは一見順調に見えたことから、その後の相手の急激な変貌が信じられず、また今までのように、ポストに望みがなく、仮に就職できたとしても好きな研究だけをやっていられるわけでもない苦行を続けていくのかと思うと、気が萎えた。」
 
これは年譜の中に、もう少し詳しい事実が書いてある。

「新婚旅行から帰って以降、××〔ここは男の実名が入る〕は自分だけの判断で薬を勝手にやめ、被害妄想、幻聴などの症状が頻出、会話も減り、パソコンに依存、この病気の特徴である同居者への執拗な攻撃性などが増していった。」
 
このときまだ、西村さんは、相手の統合失調症の病歴を知らない。

「玲も精神的に不安定になり、下痢・嘔吐などの症状が出、……『精神病も伝染するんだよ』。」

つまりは、そういうことである。
 
しかし、ご両親が何とか自分を納得させたいと、かろうじて言葉にしておられるものを、私が外から書いていて、スムーズに腹に納められるわけがない。

私には、「それにしても、なぜ」、という言葉しか出てこない。
 
西村玲さんが亡くなって、翌2017年12月に、「西村玲氏追悼研究集会 近世日本仏教思想の過去と現在」が、追悼研究集会実行委員会の呼びかけで、東大の本郷キャンパスで開かれた。参加者は約70名。
 
2018年1月、遺稿論文集『近世仏教論』が、末木文美士先生を中心に編まれ、法蔵館より出された。
 
後で末木先生に聞いたところでは、個々の論文は精度の高いもので、それを取りまとめるところまで、もう一歩だった、という話だった。
 
ここでお断りを一つ。本書は奥付に、「私家版」と入っている。果たしてこれは、公にしてよいのかどうか。非常に迷う話で、だからこのブログは、許可を得ずに書いた。

とにかく、西村玲さんのことは、ブログにどうしても書きたかった。

14年間、トランスビューにいて、西村玲さんの『近世仏教思想の独創ーー僧侶普寂の思想と実践』だけは、私が編集者であったから出来た本だと思う。そのことを、どうしても書いておきたかった。私も、仕事の上で、何かの役には立ったのだ、と、そう思いたい。

(『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』
編集・発行 西村茂樹・西村久仁子)

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(5)

最後の日記は、日記帳ではなく、別紙に書かれていた。

「2016・1・25
 ……
 なにも手伝えなくて、何もできなくて、ごめん。
 突然の事故で、と言えばいいと思う。
 無責任で、家族に対する犯罪で、死んだ後ひどいコトになる。でも、他に思いつかない。ごめんね。」

そして2016年2月2日、午後7時11分に、首を括って死去した。

この本の「あとがき」を、ご両親が別々に書いておられる。

そのうちの、ご父君の「あとがき」に、晩年の西村玲さんの、精神的な傾きの経緯が記されている。

「四十歳まで、玲は真面目に精進していれば、〝しかるべきポスト〟はついてくると無意識に信じて研究を続けていたし、親も、これだけ勉強していれば報われないはずはないと思っていた。先のことは考えず、『今、ここ』だけを生きていたのである。」
 
それが40歳を超えて、大学にポストを求めて、得られなくなったとき、足元が揺らぎはじめる。

「二十校以上の大学にポストを求める願書を出して、その都度『貴意に添えず』という回答を得、要求された大部な願書が読まれた形跡もなく返されてきた〝実績〟に鑑みて、状況はこれから悪化することはあっても良くなる見込みはないと判断した。今日の大学が求めているのは知性ではなく、使い易い労働力だという現実を認識せざるを得なかった。」
 
日本の大学の現状については、このブログの『文系学部解体』(室井尚)や、『知性は死なないー平成の鬱をこえてー』(與那覇潤)で、論及したことがある。
 
西村さんは、40歳を超えて、少し弱気になったのだ。あるいは弱気になるように、つけこまれたというべきか。

「とつおいつ考えた末に、彼女自身言うところの『非常口』を開けるしかないと思った。結婚ーー研究は好きなだけやってよろしいというような奇特な男がもしいれば、安定した生活の中で好きな勉強ができるかもしれない。大きな期待をしたわけではないが試してみようと思った。/たまたま、その可能性のある男にめぐりあった。初めは冗談のように考えていた玲も、早朝から深夜に及ぶメイルによる執拗な口説き、熱意にほだされた。この話を断われば、相手の両親が上京して口説くという。」
 
これは二人が納得した、「契約」のように見えた。しかし「契約」は、成り立っていなかった。

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(4)

私は脳出血で、2014年11月20日に、虎の門病院に運び込まれた。それからほどなく、小金井リハビリ病院に転院した。そこに半年間、2015年6月の初めまでいて、家に帰った。半身不随のままだった。
 
西村玲さんは、2014年3月に、「『私、結婚する』と突然、親に宣言」し(「年譜」)、精神科医でクリニック勤務の男性と婚約、11月に式を挙げる(『遺稿拾遺』には、男性は実名で記載されている)。
 
西村さんは、講義の都合があるので、東京の実家で暮らし、2015年の4月から、倉敷で結婚生活に入った。
 
6月には、イタリアで新婚旅行に出かけている。
 
私が、友人たちのおかげで、快気祝いの席に出られたのは7月で、このとき西村さんは、東京にいて出席されている。
 
場所は出版クラブだった。私が、結婚したんですね、と声をかけると、ええ、とためらいがちに、微笑みを浮かべておられた。
 
それ以上の話はしなかった。とにかく私は、かろうじて立っていられるだけで、話の相手をすることもできなかった。これで快気祝いとは、よく言ったものだ。
 
島田裕巳氏が、これは中嶋の生前葬だな、と笑いながら言っていたのが、当たっているんじゃないか。
 
西村さんは、8月は東京で集中講義があり、実家に泊まっている。
 
このころ男性は、「八年間服薬、注射していた統合失調症の薬を独断で中止し、勤務先院長より〝統合失調症の再発〟として休職を通告される。このとき初めて、全く隠蔽されていた統合失調症の病歴を知る。」(「年譜」)
 
男性のみならず、その両親も、婚約したときから、結婚後を通じて、統合失調症の病歴があることを徹底的に隠し、再発後に初めて認めたのである。

『遺稿拾遺』の終わりは、西村さんが亡くなる直前の日記だ。

「2015・11・2
 本当に、わずか二、三ヶ月でどうしてこんなにひどいことになったんだ。もう先のことも、前のことも考えない。本当に立ち上がれるのかどうか。仕事、研究のことがまるで別世界のように思える。それだけのことをされたんだから。……」
 
その四日後。

「2015・11・6
 大学に職がなく、安定を求めて結婚したら、相手が統合失調症で、自分が病気になりかけて、離婚を決めたけれど、応じてくれない。安定に目がくらんだことを認めつつ、認められない。……」
 
このあと、年が明けても数日、日記は続くが、徐々に精神の傾きは、より暗い所へ傾斜してゆく。

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(3)

このとき私は、西村玲さんの研究者としての行く末は、明るいと思ったし、西村さんも一瞬、そんなふうに思ったはずだ。

でも、そうはならなかった。この本の、西村さんの年譜のところに、こんなことが書かれている。

「学術振興会賞は、宗教研究として初めての受賞者だったが、本人の関連する〝業界〟ではほとんど無視され、大学の求職活動でもマイナス要因にはなってもプラスにはならなかった。」
 
研究者が細かく棲み分けて、互いに領分を侵さないようにしている現状では、そういうことは、あるかも知れないと思う。これは文科・理科、両方ともに言えることだ。
 
若い、独創的な研究者は、いつの時代も、最初から位置が定まっていない分、必ずそういう目に合う。
 
この『遺稿拾遺』は、大きく5つに分かれている。「Ⅰ エッセイ」「Ⅱ 師の導き 師の支え」「Ⅲ 両親への手紙から」「Ⅳ 書評・インタビュー・講義」「Ⅴ 二〇一五年十一月からの日々」の五つである。
 
これは必ずしも、整然と分けられているわけではない。ご両親がなんとか、西村玲さんの全体像を偲ぶ縁(よすが)になれば、ということで、必死の思いで編纂されている。
 
その中から、西村玲さんの、いかにも玲さんらしいというところを、取り上げておこう。

「プリンストン留学記」(「Ⅰ エッセイ」)は、 2005年9月から2006年8月末まで、一年間にわたって、客員研究員として滞在した記録である。そこにこんな言葉がある。

「以前は、近世や近代という分断された時代区分で日本の思想を考えていたが、その後〔=留学した後〕は時代を連続するものとして捉え、日本だけではなくアジア全体の中で考えることを心がけるようになった。それに伴って、他の研究を見るときにも細部に拘らずに、研究の眼目である普遍的な主題を理解できるようになった。」
 
そのもう少し後に、こういう文章もある。

「たとえば近世仏教であれば、日本と同じくアメリカでも、社会史的な研究が中心になっていることに変わりはない。私が学ぶべきは、そういった知識ではなく、地域と時代にわたる歴史的な広い視野と、伝統の重石がない自由な発想、研究に対する姿勢と視点なのだ。」
 
こう見てくると、日本学士院学術奨励賞を、文科系でただ一人受賞したのは、宝くじに当たったわけではない、ということがよく分かる。
 
と同時に、私は、理想的な著者の卵を、見つけていたのだといえる。

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(2)

科研費をもらうことを前提に、企画を進めた場合に、それに落ちたら、普通は企画は取りやめになる。
 
西村玲さんと、その件で会ったとき、さすがにちょっとがっかりされていたが、しかし日本思想史は仏教というジャンルにくらべても、科研費の予算が少ないので、近世の律僧・普寂といっても、まだ誰も知らないので無理だと思う、と冷静に述べられていた。

近世の江戸は、これまでのイメージとしては、儒教全盛の時代であった。「近世仏教堕落史観」というのも、辻善之助以来、根強くある。つまり、鎌倉仏教は素晴らしいものだが、幕府に統制された近世仏教は堕落している、という思い込みが根強い。

これを何とか、覆せないか。

西村玲さんの仕事は、その先駆となる可能性がある。
 
そこで私は、科研費は無理でも、この本を企画として、推進することにしたのである。

近世の律僧・普寂という、まだ誰もやったことのない主題、西村玲という33歳の、無名の研究者の処女作、私に送られてきた、これまでの論文の見事な切れ味、というような諸々のことを考えたなら、これは勝負してみる価値はある。私は、そう考えた。
 
もちろん末木文美士先生が、これは独創的な研究だと、太鼓判を押して下さっているのも大きかった。
 
それにしてもこういうとき、社長をしているのは、本当にこれ以上ない強みだ。企画のいろいろな点を挙げて、これはやるべきだと力説しても、一編集部員だと、結局はその人の信頼性にかかってくる。このときは本当に、社長をしていてよかった、と心底思った。
 
これは『近世仏教思想の独創ーー僧侶普寂の思想と実践』と題して、トランスビューから刊行された。
 
傑作なのは、本が刊行されると、「普寂を中心とする日本近世仏教思想の研究」により、日本学術振興会賞をもらったことだ。
 
それなら、日本学術振興会で科研費の審査するときに、もう少し慎重にやってくれよ、と言いたくなる。

でもこれは、出来上がったのを見なければ、イメージが浮かばないので、無理はない。それだけ、西村玲さんの研究成果が、独創的なものだったのだ、ということにして、私は自分を慰めた。

けれども、もっと驚いたのは、この本が、日本学士院学術奨励賞を受賞したことだ。学士院学術奨励賞をもらったのは、全部で五人。うち四人は理科系、文科系は西村さん一人だった。

まったく不謹慎だけど、文科系の中で、全国でただ一つの宝くじに、当たるようなものだ、と思った。

それにしても、なぜ?――『〔私家版〕西村玲 遺稿拾遺――1972~2016』(1)

西村玲さんが死んだ。自殺だった。
 
2016年2月2日夕方、市役所に離婚届を提出した後、首を括って死んだ。四十四歳だった。
 
私は末木文美士先生から、亡くなったことを、メールを頂いて知ったが、あまりに唐突で、何が何だかわからなかった。
 
西村玲さんはアトピーを持っておられたので、それが急速に悪化したのかと思った。そのくらいしか、考えようがなかったのだ。
 
今度、ご両親が編まれた、『西村玲 遺稿拾遺ーー1972~2016』を頂いて、それが自殺であることが、初めて分かった。
 
それにしても、考えられない。そういう思いを持って、本を読み進めていった。
 
西村玲さんと初めて会ったのは、2005年のたぶん6月ごろ、彼女が東北大学大学院の博士課程を修了し、日本学術振興会特別研究員(SPD)になって、すぐの頃だった。

所属は東京大学の、末木文美士先生の研究室で、専攻は日本思想史だった。
 
末木先生のところで、日本思想史を研究するといえば、当然、仏教と重なる面が出てくる。
 
もしそういうのを本にするのなら、トランスビューがいいのではないか、と末木先生が考えられたとしても、不思議ではない。この辺は、日ごろのお付き合いのおかげである。
 
末木先生のところで、西村玲さんに会ったのだが、初めて会ったときから、たちまち、その明晰さに魅了された。
 
たしか、丸山真男のことが話題に上った。私は編集者なので、例によって、人の口真似、口移しで、いい加減なことを述べていたのだが、そのとき返してくる応答が、実に的確で、というより、対象との距離が正確に取れていて、何というか、舌を巻いた。
 
そのとき西村さんは、近世の僧侶、普寂(ふじゃく)について、本を書こうとしていた。
 
こういう学術書は、専門家向けに出すので、通常の流通には載せられない。部数も500からせいぜい800まで。文部省の科学研究費補助金(科研費)をもらって、本にする。
 
著者に対する印税はない。その代わり、できた本を何冊か進呈する。これは科研費の決まりで、そうなっている。
 
このころ西村さんから、本に入れようと思う論文を受け取った。

「合理の限界とその彼方ーー近世学僧・普寂の苦闘」
「日本近世における絹衣論の展開ーー禁絹批判を中心に」
「蚕の声ーー近世律僧における絹衣禁止について」
「聖俗の反転ーー富永仲基『出定後語』の真相」
 
難しい内容だが、明晰に、しかも上手に書かれていて、読めば私などにも、話が分かり、けっこう面白い。もちろん論文は、これで全部というわけではない。
 
一方で私は、日本学術振興会に科研費をもらうべく、申請書類を提出した。
 
ところがこれが、学術振興会の審査をパスせず、科研費をもらえなくなったのである。

なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(3)

原民喜は東京にいるとき、結核の妻を見送っている。それは悲しいことだけれど、しかし一方、「病みついてから死までの日々は、心安らぐ穏やかなものだった。」
 
死者の世界は、原にとって懐かしいものだった。

「だが広島の死者たちはそうではなかった。『このやうに慌しい無造作な死が「死」と云へるだらうか』という叫びは、死ぬものと死なれるものが共有した時間のかけがえのなさを知る原にとって、心底からのものだったろう。妻を看取ったその目で見たからこそ、広島の死者の無惨さは原を打ちのめしたのである。」
 
こういうところは、梯久美子の文章表現の粋である。本当にうまい。こちらの気持ちを、何か根こそぎ、持っていかれるような気がする。
 
原は東京へ出てきてからは、遠藤周作との親密なやりとりや、年若い女友達との不思議な友情の話があるが、結局は死に向かう一つの方向へ、自分の位置を定める、というか定められてしまう。

「……その後、心身に刻まれて消えることのない惨禍の記憶と向き合う中で、死者たちのいる方へと魂は引き寄せられていった。」
 
それにしても、いったい今、原民喜を書く意味は、どこにあるのだろうか。

「私は、本書を著すために原の生涯を追う中で、しゃにむに前に進もうとする終戦直後の社会にあって、悲しみのなかにとどまり続け、嘆きを手放さないことを自分に課し続けた原に、純粋さや美しさだけではなく、強靭さを感じるようになっていった。」

「あとがき」のこの箇所で、全体をうまく納得することができるだろうか。
 
おなじ「あとがき」に、こういう個所もある。

「個人の発する弱く小さな声が、意外なほど遠くまで届くこと、そしてそれこそが文学のもつ力であることを、原の作品と人生を通して教わった気がしている。」
 
個人の発する声は、それが個に徹していればいるほど、文学としては、より強度な力を持つということは、当たり前のことではないか。
 
梯久美子の作品では、『狂うひと ー「死の棘」の妻・島尾ミホー』が、これを書く意味が、究極のところ、よく分からなかった。
 
それで、著者の秘められた恋を重ねたなどという、勝手な推測をしたわけだが、考えてみれば、秘めた恋の一つや二つ、あって当たり前である。これでは、何を言ったことにもならない。

『原民喜』を、いま書く意味が、もう一つよく分からないのは、『狂うひと』の、やはり書く意味がはっきりしていないのと、同じことではないのだろうか。それとも、これはまた違うことなのだろうか。
 
最初に返って、名著で名高い処女作、『散るぞ悲しき ー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』を読んで、じっくり考えるとするか。

(『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』梯久美子、岩波新書、2018年7月20日初刷)

なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(2)

原民喜は第二次大戦の末期、1944年に、「三田文学」2月号と8月号に、作品を発表している。2月号は「前線将兵慰問文特集」で、ほかの著者は、勇猛かつ悲壮な内容のものばかりだったが、原は違っていた。
 
原稿用紙、1,2枚の掌編を、6つ並べた連作で、日常をスケッチしたもの。いわば童話か、散文詩の趣である。

「六篇はいずれも、ヒステリックなまでに戦時色が強まった一九四四(昭和一九)年によくぞ書いて発表したと思えるような作品である。常套句を使わず、声高にならず、平易な文章で何でもない日常を描くーーそれは、非日常の極みである戦争に対する、原の静かな抵抗であった。」
 
ここは、僕は違和感を感じる。原民喜は、知らない人や、気の張る人と話すのに、妻を介してでなければできなかった。
 
国が危うくなっている時でさえも、それに同調することは、できなかった。それは個人の、体質の問題ではないか。
 
もちろん容易に同調しないというのは、文学者として素晴らしいことだ。しかし最初から、どんなものにも、同調できないというのであれば、それはまた別の問題だ。
 
私はこの点では、梯久美子には賛成しない。
 
ただ、繊細極まりない原民喜のもとに、原爆が墜ち、しかも爆心に近いところにいながら、ほとんど無傷だったというのは、原爆を描く人間として、これ以上ない意味がある。

「手探りで便所の扉を開け、縁側に出ると、まもなく薄らあかりの中に破壊された家の中が浮かび上がってきた。近隣の家は倒壊し、青い空が見える。
 原は以前から空襲をひどく恐怖していて、そのときになったら自分が気絶か発狂でもするのではないかと心配していた。だがこのときはあまりにも突然で、怖がるひまもなかった。」
 
原民喜は、生きている意味をさとり、原爆を書き残さねばならいと、深く心に銘じた。

「長いあいだ原は厄災の予感に怯えてきた。それが現実になったとき、まず生きのびられまいと思っていた自分が、なぜか無傷で生きのびた。幼い頃から怖れ、怯え、忌避してきた現実世界。それが崩壊したとき、生きる意味が、まさに天から降ってきたのだ。」
 
なお「夏の花」は、被爆時のメモをもとにしたもので、創作の要素は入っていない。その被爆時のメモは、『定本 原民喜全集』第三巻に、「原爆被災時のノート」として収録されている。
 
メモは、「文学的直観」に基づいて書かれた、見事なものだった。

「生来の繊細さと、それまでの言語生活で培った表現者としての理性、そして死と死者に対する謙虚さが、大げさなこと、曖昧なこと、主情的なことを拒否した。」
 
そのメモに基づいて、「夏の花」は書かれたのだ。

なぜいま原民喜か――『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』(1)

これは、岩波新書にもう一つ、カバーが掛けてある。『原民喜ー死と愛と孤独の肖像ー』というタイトルと、梯久美子という著者名、そして通常は帯の文句である、「愛しすぎて、孤独になった。今よみがえる、悲しみの詩人」という惹句が、カバーに刷ってある。
 
岩波書店も苦労してるね。梯久美子は、今の岩波としては、ビッグネームだ。かなり部数がすれるはずだし、またそうでないと著者に対しても、面目が立たない。
 
しかし今、単行本で刷れたとしても、せいぜい2,3000ではないか。岩波で、それを超えて部数が刷れるのは、衰えたといっても、岩波新書に如(し)くはない。
 
けれども、岩波新書の一冊として埋没させるには、著者の名前からしてふさわしくない、というかもったいない。
 
社内的には、岩波新書だからといって部数を確保し、書店に出すときは堂々の単行本。これで行くしかない、と編集者は考えたと思うのだが、違うかな。
 
原民喜については、東京で大学を出て、所帯を持ったが、妻が病気で他界、その後、疎開先の広島で原爆に遭い、東京に出て、「夏の花」を出版するも、鉄道自殺する、というのが、僕の知っているすべてのことがらだ。
 
そう思って読んでいくと、その通りのことが書いてある。そしてもちろん、相応に詳しく書かれている。それに何といっても、梯久美子の文体がよい。

1939年に、「三田文学」に発表された、「溺没」という短編小説について。轢死という死に方は、原民喜がもっとも恐れていたものだった。原は若いころからずっと、轢死幻想にとらわれていたという。

「光るシグナル、開け放たれた窓のつらなり、胴体の上を通過する電車の床を踏んでいる女の靴……。怖ろしくてならないものを、怖ろしさゆえに繰り返し夢想せずにはいられず、その反芻の中から、結晶が析出するように、あるイメージが生まれてくるーーそんな文章が原にはしばしば見られるが、『溺没』もそうした作品といえる。」
 
本当に原民喜がそこにいて、その内面までが、さらけ出されるようだ。

「原爆の惨禍の記憶は、原の感受性の基底にもともとあった外界への怯えに、あらたな層を付け加えた。電車への恐怖は戦後、さらに増していたはずである。」
 
梯の文体は、一度取り込まれると、そこからは、なかなか抜け出すことができない。予想外のことは起きていないにも関わらず、のめり込み、飛ぶように読めてしまうのだ。
 
次に挙げるのは、全体を統括する一文である。

「戦後の東京にひとり戻った原は、死者たちを置きざりにしてしゃにむに前に進もうとする世相にあらがい、弱く微かなかれらの声を、この世界に響かせようとした。」
 
そしてその後、原は自殺を選んだ。原は、自死を選んだとき、はじめてその人の生が、くっきりと浮かび上がってくる、そんな人間だった。

惜別と郷愁――『新・旧 銀座八丁 東と西』(5)

「銀座七丁目 西」の章では、よし田のコロッケそばが、クローズアップされる。
 
まず、吉田健一の『舌鼓ところどころ』を引いた上で、坪内さんは、それに評を加える。

「『この特製のコロッケ蕎麦を、コロッケの端をちぎっては上の生卵と、下のカレイ南蛮と混ぜこぜにして食べて、茄子の芥子漬けで口直しをする所を丹念に胸に描いていれば、かなりの間気を紛らせていることが出来る筈である。』
 おいしいのかまずいのかわからない感じだが、吉田健一の筆の力で魅力的なものにうつる。」
 
思わず吹き出してしまう。坪内さんの、徹底して飾らないところが出ていて、実におかしい。

それにしても、吉田健一にとって、コロッケそばは、おいしいのかまずいのか。
 
坪内祐三のこの本は、ほんとうは今は消えてしまったいくつかのバーや、それにまつわる作家の話が面白い。
 
でも、そんなことは当たり前。坪内さんのそういう話が、面白くないわけがない。そこはもう、本文を読んでください。
 
ただ常盤新平さんについては、個人的なことを書いておかないわけにはいかない。

私は筑摩書房を辞めるとき、後足で砂をかけるようにして辞めた。常盤さんとの仕事も、その中に入っていた。
 
そのとき進行している翻訳本があり、その先の仕事もあり、途中でやめるわけにはいかなかった。しかし、それを放り投げて辞めた。合わせる顔はなかった。本当にひどいことだった。
 
10年ほどたって、法蔵館の仕事をしているとき、地下鉄の人形町の駅の入り口で、常盤さんとすれ違った。
 
お互いに、あっと声にならない声を上げて、立ち止まり、私はとっさに、「すみません」と言った。反射的に、その言葉しか出てこなかった。
 
常盤さんは、「お茶でも飲みましょうか」と仰り、私は思わず、ついて行きかけた。しかし数歩、歩くと立ち止まり、「すみません」とまた言った。常盤さんは、そうですか、といわれたんじゃないかと思う。
 
私はすぐに、常盤さんが行く方向とは、違う方に足を向けた。
 
かりに、一緒に喫茶店に入ったとしても、私には、「すみません」という以外の言葉が、どうしても浮かんでこなかったのである。

(『新・旧 銀座八丁 東と西』
 坪内祐三、講談社、2018年10月16日初刷)