奈落の底は見えない――『出版の崩壊とアマゾン―出版再販制度〈四〇年〉の攻防―』(4)

一方、古書の世界も激震が走っている。これも一つはアマゾンのせいだ。アマゾンでは、新刊と古書が、まったく同時に並ぶのだ。
 
これでは、古書店によって値の付け方はさまざま、ということができなくなる。常にアマゾンの値段を意識して、付けざるを得ない。
 
ところがアマゾンの中では、古書価格が一円というのが、相当数出ている。郵送料で儲ければよい、という考えだ。こんなことをされては、たまったものではない。
 
しかし、古書の激震は、アマゾンにかかわるものだけではない。というか、もっと大きなことがある。
 
先日、Tさんからメールが来た。Tさんは長く、古書の雑誌の編集長をしている。そのメールを略術すれば、以下のようなものだ。

「……『日本国語大辞典』は、今は古書市場に出すまえに、潰します。『広辞苑』も、どこでも一冊百円で売られています。『国史大系』のような、かつて相当のお金になったものも、ほとんど入札されません。平凡社の県別の地名大事典も同じくだめです。要するに、デジタル化されることで、検索機能が付いたものがなければ、だめなのです。印刷本では需要が無くなったということです。」
 
これは、雑誌が急速に読者を失っているのとは、別のことだ。それはそうなのだが、一方で、「デジタル化」されないとダメだという点では、共通点がある。
 
これは結局、紙は全般的に、デジタル化にとって変わられているという、当たり前といえば当たり前のことなのだ。
 
けれども人間は、そんなに身軽に、あちらからこちらへ、という具合には飛び移れないから、右往左往しているのだ。
 
しかし、すーっと引いてみると、大きな流れは、そこにとどまらない、ということが分かる。これも先日、妻が、テレビの関係者の新年会に出たときに、聞いた話。

「テレビ局は、もう全然だめだ。若い人が、興味を持って入ってこない。民放はこの先、チャンネルは3つくらいになるんじゃないか。」
 
話を聞いていて私は、テレビには何の共感も湧かないから、さもありなんと思った。かろうじてニュースとドラマを見る程度で、ゴールデンタイムの番組の、9割9分はゴミである。ついでに言えば、そのニュースは、まずネットでやったものを新聞で取り上げ、それをテレビで焼き直している。
 
すでにもう、テレビニュースは用済みである。