タイトルの『願わくは、鳩のごとくに』は、以下のような理由で付けられた。
「鶴は連れ合いが死ぬと、一生孤高を保つという。中学生のころ飼っていた鳩は、再婚はするが、つがいの間は決して離れない。
願わくは、鳩程度にはなんとかしたい、と思う。」
さすがに、60歳に近い男は必死である。そしてまた、いじらしくもある。しかしとにかく、出たとこ勝負で行くしかない。
「あと数年で、定年である。ということは、年金生活者になるということである。年金生活者が三十違いの妻を抱えて、いったいどうやって生活しようというのだ。おまけに九十近い前妻の養母と、二十も半ばを超えた定職を持たない学生の、二人の扶養家族がくっついているんだ。これはもう、想像するもなにも、絵が浮かばないんじゃないのか。」
しかし結局、再婚相手とは、三人の子をもうける。そしてとにかく育てる。その七転八倒振りは、もう実に面白い、としか言いようがない。
それはそうなんですが、でも本としては、何かがほんのわずかに狂っている。ピントが、こちら、つまり読者のほうへ、正確には向いていない、と感じられるのだ。どうしてだろうか。
たとえば一章をかけて、従兄妹(いとこ)の「山川泰子」が、死んだ話が出てくる。十円玉、四枚を握って、変死したのだ。
「ベッドは、人がやっと横になる程度の隙間しかなく、ほとんど洞窟と見えた。風呂場は、風呂桶に山ほど物が積まれ、溢れ、片側に少しタイルが見えるだけだった。
『どうも、シャワーですごしていたようですなァー』
シャワーといっても、これでは無理だ。ここに、裸に近い格好で倒れていた。どうして……? 僕は、写真を凝視していた。」
そして、従兄妹の変死に迫っていく。都会の片隅で、親戚からも疎まれ、孤独に死んだ女性。よくあるといえばあるけれど、でもこれはこれで、迫力のある、真に迫った物語だ。
しかし、ここに挿入している意味が分からない。
そう思って終わりまで読んでいくと、最後の最後に「(追記)」として、こんなことが書かれている。
「『お父さんはこんな人だったのよーーって、私から伝えることできないからーーそんなつもりで、書き遺してーー』と、あなたから言われ、なにやら遺言めいて書き進めたものです。」
なあんだ、そうだったのか。年のいった父は、子供が成人するまでは、ひょっとすると持つまいと思って、遺言の代わりにこれを書いたのだ。それで文章の方向が、微妙に読者のほうを向いていなかったのだ。
山田太一は堪能して読んだらしいけど、『北の国から』を見たことがなく、なま身の著者を知らない僕としては、子供に書き遺すのを読まされるのは、ちょっとどうもという気がするのである。
(『願わくは、鳩のごとくに』杉田成道、扶桑社、2010年12月1日初刷)