著者は黒井千次。
父親は九十歳を越え、息子は七十歳を越えた。その息子の視点で、戦時中、「思想検事」を務めていた、父親との関係を描く。
そもそも「思想検事」とは何か。それはどうやら、思想的犯罪者の「転向」に関係があるらしい。
とはいっても、たいしたことは起こらない。父親が急病で搬送され、病院に入っている間に、息子が秘密の、というほどでもないのだが、昔、父親の書いたものを読む。
しかし、その読んだものは、もうひとつはっきりしない。こういうふうに書かれたものと、はっきり示されていないからだ。
この本を三分の一まで読んだとき、なんというか、シーラカンスに出会ったような、非常に懐かしい感じがした。いかにも「純文学」で、懐かしいなあという感じがした。
こういう文体は、著者と読者に、あるつながりを暗黙のうちに要求する。それがつまり、「ジュンブンガク」の気圏というか、アトモスフィアである。
たとえば冒頭、父親が書いたものを息子に手渡すところ。
「息子はしかし、それを勝手に引き出すのではなく、父親の手から直接渡してもらいたかった。儀式ばるつもりはなかったが、父親が渡したぞと認め、息子が受け取ったと感じた上でそれは息子の手に納まるべきものだった。心理的手続きとしての過程はしっかり踏んでおきたい、と息子はのぞんだ。」
いやー、「純文学」ですな。もちろんバカにしているのではない。それどころか、こういう文章に出会うと、懐かしさと同時に、非常にゆったりした時間が流れていくのを感じる。
それはいいのだが、しかし、肝心の話が転がっていかない。
「何も知らなければ、ただ隣同士に住む老いたる親子として日を送っているだけでよかったのに、分厚い報告書を読んだばかりに、気持ちの上でなにやら面倒なことに捲き込まれねばよいが、と息子は細い息をついた。」
これが最初のほうにあればまだしも、終わり三分の一を切ったあたりで、こんな文章に出会うと、いささかうんざりする。
謎の女、というほどでもないのだが、大学図書館の発禁本の展示会場で出会った、「もう若くはない女性」をめぐって、あれこれ想像するところがある。
「……私は検事の娘です、と告げた女性の姿が、時にふれてふっと頭を過るのを意識した。もしかしたら、父親達は同じような仕事をする役人同士としてお互いに知っていたのではないか、という彼女の憶測は、それを聞かされて以降は息子の中にも住みついて見え隠れするようになっていた。」
こういう文章は、過度にブンガク的である必要はない。「息子の中にも住みついて見え隠れするようになっていた」と書く代わりに、「息子はときどきそう思っていた」で、充分ではないか。
かつては確かに、こういう「ジュンブンガク」があった。でも今は、内容のないのを、文体でごまかしてはいけない、そう言われてしまう。
(『流砂』黒井千次、講談社、2018年10月22日初刷)