僕は脳出血で病院に入って以来、そこを出て家に帰った後も、お金というものを、紙幣といわず貨幣といわず、持っていない。時計も持っていない。
それは寝たきりの老人だったら、ごく当たり前のことかもしれない。僕だって外を歩くのがやっとで、お店で買い物ができるわけではない。だからもうお金は持っていない。それはそういうことだ。
しかし例えば、新聞を読んでいて、ゴーン元日産会長が何十億も着服した疑いがある、という記事を見ても、まったく何も感じない。義憤に駆られるでもなく、バッカじゃないかという気も、起こらない。
株の上げ下げが、ここ数日ニュースになっている。政治家が、株を上げたままにするのを、至上の命題と考え、日銀がそれを側面から、腹の膨れたカエルよろしく、必死に買い支えている。いい歳をした大人のやることではない。しかし、かといって、それほど腹も立たない。
思えば奈月も、夫の智臣も、できる限り感情には流されず、できる限り冷静に合理的な判断を下そうとしていた。
僕は必ずしも、そういうことに、全面的に賛成はしないけど、でも僕は、地球星人から見れば、心理的な面で、少し落剝している。
都会に暮らし、都会人としてうわべを覆い尽くそうとすれば、どうしても感情は、抑制気味になる。
そのときたとえば、異性の扱いはどうなるのだろうか。明らかに今の「日本人」の異性の扱い方、向き合い方には、変化が見えてきている。それは、いい悪いの問題ではない。
保守党の政治家が、一生懸命に、とにかく結婚をしろ、性交をしろという。産めよ、増やせよ、というわけだ。
でも今の世の中では、子どもを育てるのは、躊躇される。収入の面でも、子育てをしているということそのものでも、そういう男女はそれだけで、ハンデを追っている。だからこれは、政治家が本気でやらなければ、ダメなのだ。
という論調は、少し違っていると思う。もっときつい言い方をすれば、アサッテの方を向いた話だと思う。
有史以来、戦前まで、どんなに苦しくとも、子供を作ることは、人間が生きている限り、第一番目に、というより他とは比較を絶して、重要なことだった。性交に始まる、子供を作るというプロセスそのものが、ほかのこととは、比較できることではなかった。
ところが、子供を作ることは、この時代には、そういうことではないのだ。まず最初の、男女の交接そのものが、ときによっては、避けられている。
子供よりも大事なものが、戦後はっきり顕われたのである。それは『地球星人』のクライマックスに、はっきり書かれている。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛することなく、敬うことなく、慰め合わず、助け合わず、命ある限り自分の命のためだけに生きることを誓いますか?」
これである。子供よりも、何よりも、自分が大事なのである。
「命ある限り自分の命のためだけに生きる」ことを、第一に考えた結果、戦後の寿命は劇的に伸びた。戦後70年たつうちに、寿命は一年ごとに半年間伸び、ついに80歳前後まで伸びた。第二次大戦までは、平均寿命は50歳くらいである。
戦争中の、命を粗末にすることの反動として、戦後、個人の命は、何物にも代えがたいものになった。相当きつい反動だと思うが、これはこれで、やむを得ぬことである。というか、当たり前のことである。
しかしその結果、「地球星人」のうち、そういうものがあるとすれば、「日本人」類は、風前の灯火である。これは淋しい気もするが、でも仕方のないことだとも思う。
(『地球星人』村田沙耶香、新潮社、2018年8月30日初刷、12月20日第5刷)