ここはクライマックスで、あり得ないことが起こることで、いかにも文学作品だが、ここにはもう一つ、別の大団円のつけ方があった。
そこに至る直前に、三人は離婚して、といっても最初から結婚したわけではないが、バラバラになって生きることを誓い合う。
「『ええと、宮沢智臣さん。あなたは奈月さんと夫婦ではない、まったく別の存在になろうとしています。ええと……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛することなく、敬うことなく、慰め合わず、助け合わず、命ある限り自分の命のためだけに生きることを誓いますか?』
『はい、誓います』
『奈月さん。あなたも誓いますか?』
『誓います』
夫は大きく頷き、『これで、僕たちは分断された。もう家族でもなんでもない。一匹ずつただ生きているだけなんだ』と言った。」
こういう「離婚式」を、せっかくクライマックス直前に挙げているのに、もったいない、ストーリーの上で、全然生かしてないじゃないか。
当然三人はバラバラになって、生き延びるべく、命の尽きるところまで疾走し続ける、というのが、正しい終わり方ではないかな。僕はそう思う。
この作品は、クライマックスに比重がかかり過ぎているけれど、本当はそれまでのところが面白いし、考えさせる。
夫婦といっても偽装結婚で、奈月と夫は「工場」の隅で、息を殺して暮らしている。文学作品なので、かなり誇張して描いてあるが、これは特に今の若い人たちに、共感を持って読まれるだろう。
都会に出てきた人たちは、結婚をしたがらない。性交するのも、結婚という前提があってするわけではないだろう。
もちろん歳を取ってから、どう思うかはわからない。でもとにかく今は、結婚や、結婚を前提とした性交は、嫌なのだ。
そう思えば、ポハピピンポボピア星人もどきは、結構いるのではないかな。
でもそれ以上に、僕は個人的なこととして、ポハピピンポボピア星の方へ、郷愁を感じている。