官能の文体――『買えない味』(2)

水仕事も、季節によって驚くほど変わる。

「つい三月(みつき)ほど前までは、台所の水に肌をさらすのが一瞬ためらわれたのに、くちなしの花が咲くころともなれば、蛇口をひねると手がよろこんで水を迎えにいく。ざあざあ飛沫を浴びてうれしがるのである。」
 
ここは平松洋子の文体の特徴が、如実に出ている。最初に蛇口をひねったときは、「わたし」が主体なのだが、「手がよろこんで水を迎えにいく」ときは、すでに水が主役だ。

その熟した文体が、ぴったりくるものがある。「熟れる、腐る」の項に上がっている、熟成発酵させたエイの刺身、「ホンオ・フェ」は、韓国で食べられている「天下の奇食」だ。

「その刺激臭はこの世のものにあらず。エイの自己消化酵素がおのれの肉を分解し、さらに発酵した菌が体表の尿素などを分解してアンモニアを発生させ、激烈な臭いを生じさせる。嗅いだら最後、アンモニアの乱気流が鼻孔や毛穴から侵入して脳天を打ち、星が乱れ飛び目まいがくるくる。」
 
この項はとりわけ、実際に食べるよりも、読んだほうが堪能できる、とつい思ってしまう。

「くさや。チーズ。納豆。腐乳。キムチ。鮒鮓。魚醬。好きなものが、みな臭い。臭ければ臭いほどがぜん膝を乗り出し、生唾を呑みこむ。困った性分である。」
 
たしかに強烈だが、考えてみれば、膝を乗り出し、生唾を呑みこむほどのことはない。それよりもその文章の方が、より痛烈である。
 
そういえば「冷やごはん」の項に、「音を立てて小忙(こぜわ)しくかきこむ茶漬は、せっかちな江戸っ子にぴたりときた」という文章がある。
 
この「小忙しく」は、「せわしなく」というのと、だいたい同じ意味だろうか。というより、「小忙しく」というような言葉は、あるのだろうか、と僕は思ってしまう。
 
脳出血で半身不随になって以来、それまでと、それから後では、かなり語彙が違ってしまった。

半身不随以後は、とにかく語彙を、無理をして蓄えてゆかないと、貧相でどうしようもない。たちまち文章が出てこなくなってしまい、本当に立ち往生しかねない。

ま、いまでこそ、言葉が出てこなくなって万事休す、ということはなくなったが、それでも、「小忙しく」などという言葉は、心して頭の中にしまい込んでおかなければ、おいそれとは取り出せない。

「せわしなく」ではなくて、「小忙しく」かきこむ茶漬は、平松洋子が書いているのだから、必ず覚えておこう、と毎日そんなふうに、本を読みながら、肝に銘じている。

官能の文体――『買えない味』(1)

平松洋子の新刊、『そばですよー立ちそばの世界ー』をアマゾンで見ていたら、著者は2006年に、『買えない味』でドゥマゴ賞を受賞していた。

このとき賞を与えたのは、山田詠美。これはやっぱり、読んでおこうと思うでしょうが。

食の雑誌『dancyu』に連載されたもので、単行本にまとめたときは、まだ連載している最中だった(今はどうなっているか、知らない)。

「買えない味」という、ちょっと変わったタイトルは、次のような意味だ。

「……『金に糸目はつけんぞ』といくら騒いでみても、けっして買うことも出会うこともできない味がある。
 買えない味。そのおいしさは日常のなかにある。」
 
なるほど。そういうことならよく分かる。僕は逆に、不味くてとても買えない味のことかと思った。これでは何のことやらわからない。でも、そういう含みもあるかと思う。タイトルを見たとき、一瞬躊躇する。それが、頭の中に印象を残す。
 
中身は50本のごく短いエッセイ。「箸置き」「白いうつわ」「取り皿」「豆皿」など、台所の品々から、「レモン」「唐辛子」「野菜の皮とへた」などの食材、「水」「風」「熟れる、腐る」といった、台所で感じることまで。
 
とはいっても、今回の連載は、なかなか調子が上がらない。達者なことは達者だが、これはいつものことだ。
 
全体の五分の一を過ぎるころから、調子が上がってくる。

「わたしは激しい衝撃に打たれて動揺した。ものの味を味わうのは、口だけではなかった。一瞬からだは空中分解して混乱を示したが、ただちに官能が先に反応し、やわらかな理解を開いたものだ。
 そうか、指も舌なのだった!」

「指」と題するエッセイ。これはもう、突然全開になる。

「だから、つまみ食いは指に限る。箸なんか興醒めもいいところ。誰にも秘密でこっそり味わうなら、ざらざら、すべすべ、しっとり、ひんやり、ぬるぬる。もはや、指というもうひとつの舌をないがしろになどできるわけがない。
 ああ、指先が疼いてきました。」
 
エッセイはエッセイだが、乙にすましてはいない。それどころか、否応なく文章に引きずり込まれてしまう。

これは難しい――『日本の無戸籍者』(2)

2004年に是枝祐和監督が、『誰も知らない』を制作し、カンヌ映画祭ほかで賞を獲った。
 
これは実際にあった話で、2歳から14歳までのきょうだいたちは全員、無戸籍だった。

「こうした『親の住居が定まらず、貧困他の事情もあり、出産しても出生届を出すことまで意識が至らないか意図的に登録を避けるケース』の相談は減るどころか増加している。子どもたちはまさに『誰も知らない』状況で生き、『自分で自分を証明できないこと』に葛藤を抱きながら暮らしているのである。」
 
こういう子どもを、どうすればいいのだろうか。
 
人間の集団には、必ず一定程度、その集団からおちこぼれる者が出る、と言ってすましてるわけにはいかない。
 
こういう相談が増えることについては、実際に数が増加しているのか、相談がしやすくなった結果、増えているのかはわからない。

日本人の貧富の差が、広がった結果という考えが、どうも当てはまりそうだが、内実はわからない。

『誰も知らない』は学齢期の子どもがテーマだったが、無戸籍者が本当にどうしようもない現実に直面するのは、成人になるときである。

「戸籍がなければ基本的には住民票もないため、給与の振込先の銀行口座を開設することもできず、携帯電話の契約もマンションやアパートを借りることもできない。」
 
結局、大手を振りながら表を歩くことはできない。するとどうなるか。

「……かれらは『誰かに頼む』か『誰かになりすます』しか生きる術がない状況に追い込まれるのだ。」
 
このあとも、いろんな議論が重ねられる。そして著者はこう言うのだ。

「人としての尊厳すら消してしまう戸籍制度は、実は万能ではなく、登録制度としてはむしろ未熟であることは本書を通じて見てきた通りだ。『世界に冠たる戸籍制度』は、住民票やマイナンバーの支えがなければ立っていけないほどになっているのである。」
 
正直、僕は著者と同じところに立って、そうだとは言えない。話がややこしすぎて、よくわからないのだ。
 
ただ、今朝の毎日新聞のネットニュースを見ていると、「日本に住民登録し、小中学校の就学年齢にある外国籍の子どもの少なくとも約2割にあたる約1万6000人が、学校に通っているか確認できない『就学不明』になっていることが、全国100自治体を対象に」したアンケートで、明らかになったという。
 
もちろん、母国に帰った例も多いだろうが、しかし日本にいて、まったく教育を受けていない、という例も多いに違いない。
 
そういう外国人が増えると、治安が悪くなるのは当たり前だ。外国人でなくとも、そういう環境に置かれれば、だれでもそうなる。
 
今年から日本は、外国人をさらに受け入れやすくする。いよいよ本格的な、というよりも異次元の「雑種文化」の時代を迎える。戸籍が運用できなければ、早急に別の手を考える必要があると思うが、どうか。

(『日本の無戸籍者』井戸まさえ、岩波新書、2017年10月20日初刷)

これは難しい――『日本の無戸籍者』(1)

著者は井戸まさえ。これは、田中晶子が企画を考えるために、読んでいたものだ。面白そうなので、読んでみた。
 
離婚後、300日以内に生まれた子供は、前夫との子供である、という民法の規定がある。そうではない子供は、300日以内に生まれたら、無戸籍にならざるを得ない。母親は誰の子であるかを、知っているはずである。それで、無戸籍にならざるを得ない。

そういうことは知っていたが、それ以外でも、いろいろな場合があるということが、初めて分かった。

1、出生届を出さず、子供に対するネグレクトや、虐待が疑われる場合。
2、戦争や災害で、戸籍が失われたケース。
3、認知症などで、自分の名前や住所の記憶がなくなってしまい、家を出たまま身元の確認ができない場合。
4、戦争や災害などで、戸籍が焼失したケース。
5、天皇・皇后および後続の場合は、戸籍はなく、「皇統譜」に記される。なお結婚して皇室を出る女性皇族は、夫を筆頭者とする戸籍を作り、そこに入ることになる。新たに非皇族(=臣民)の戸籍に入ることを、「降下する」という。これ、ほんとかね、ばかばかしい!
6、親が戸籍制度そのものに反対で、子の出生届の提出を拒む場合。
  
まあ、ざっと挙げても、かなりいろんな場合がある。
 
もう一つ、無戸籍者になりやすいのは、出生届を出すのに、本人が「届出義務者」になれないという理由がある。
 
出生届の欄には、第一順位として父・母、第二順位としてその法定代理人、三番目は同居者、四番目は医師、五番目は助産婦、六番目はその他の出産に立ち会った者、最後は公設所の長などである。

「ある程度成長した子どもたちは戸籍を持たない不便さを訴えて、自らが手続きをしようと奔走する。しかし、かれらはどんなに望んでも自らの出生届を提出することはできない。」

出生者本人は、出産時の事情を知ることはできないので、自分の出生届を出すことはできない。これは、ひどく無体なことではないか。

ポハピピンポボピア星の方へ――『地球星人』(4)

僕は脳出血で病院に入って以来、そこを出て家に帰った後も、お金というものを、紙幣といわず貨幣といわず、持っていない。時計も持っていない。
 
それは寝たきりの老人だったら、ごく当たり前のことかもしれない。僕だって外を歩くのがやっとで、お店で買い物ができるわけではない。だからもうお金は持っていない。それはそういうことだ。
 
しかし例えば、新聞を読んでいて、ゴーン元日産会長が何十億も着服した疑いがある、という記事を見ても、まったく何も感じない。義憤に駆られるでもなく、バッカじゃないかという気も、起こらない。
 
株の上げ下げが、ここ数日ニュースになっている。政治家が、株を上げたままにするのを、至上の命題と考え、日銀がそれを側面から、腹の膨れたカエルよろしく、必死に買い支えている。いい歳をした大人のやることではない。しかし、かといって、それほど腹も立たない。
 
思えば奈月も、夫の智臣も、できる限り感情には流されず、できる限り冷静に合理的な判断を下そうとしていた。
 
僕は必ずしも、そういうことに、全面的に賛成はしないけど、でも僕は、地球星人から見れば、心理的な面で、少し落剝している。
 
都会に暮らし、都会人としてうわべを覆い尽くそうとすれば、どうしても感情は、抑制気味になる。
 
そのときたとえば、異性の扱いはどうなるのだろうか。明らかに今の「日本人」の異性の扱い方、向き合い方には、変化が見えてきている。それは、いい悪いの問題ではない。
 
保守党の政治家が、一生懸命に、とにかく結婚をしろ、性交をしろという。産めよ、増やせよ、というわけだ。
 
でも今の世の中では、子どもを育てるのは、躊躇される。収入の面でも、子育てをしているということそのものでも、そういう男女はそれだけで、ハンデを追っている。だからこれは、政治家が本気でやらなければ、ダメなのだ。
 
という論調は、少し違っていると思う。もっときつい言い方をすれば、アサッテの方を向いた話だと思う。

有史以来、戦前まで、どんなに苦しくとも、子供を作ることは、人間が生きている限り、第一番目に、というより他とは比較を絶して、重要なことだった。性交に始まる、子供を作るというプロセスそのものが、ほかのこととは、比較できることではなかった。

ところが、子供を作ることは、この時代には、そういうことではないのだ。まず最初の、男女の交接そのものが、ときによっては、避けられている。

子供よりも大事なものが、戦後はっきり顕われたのである。それは『地球星人』のクライマックスに、はっきり書かれている。

「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛することなく、敬うことなく、慰め合わず、助け合わず、命ある限り自分の命のためだけに生きることを誓いますか?」

これである。子供よりも、何よりも、自分が大事なのである。

「命ある限り自分の命のためだけに生きる」ことを、第一に考えた結果、戦後の寿命は劇的に伸びた。戦後70年たつうちに、寿命は一年ごとに半年間伸び、ついに80歳前後まで伸びた。第二次大戦までは、平均寿命は50歳くらいである。

戦争中の、命を粗末にすることの反動として、戦後、個人の命は、何物にも代えがたいものになった。相当きつい反動だと思うが、これはこれで、やむを得ぬことである。というか、当たり前のことである。

しかしその結果、「地球星人」のうち、そういうものがあるとすれば、「日本人」類は、風前の灯火である。これは淋しい気もするが、でも仕方のないことだとも思う。

(『地球星人』村田沙耶香、新潮社、2018年8月30日初刷、12月20日第5刷)

ポハピピンポボピア星の方へ――『地球星人』(3)

ここはクライマックスで、あり得ないことが起こることで、いかにも文学作品だが、ここにはもう一つ、別の大団円のつけ方があった。
 
そこに至る直前に、三人は離婚して、といっても最初から結婚したわけではないが、バラバラになって生きることを誓い合う。

「『ええと、宮沢智臣さん。あなたは奈月さんと夫婦ではない、まったく別の存在になろうとしています。ええと……健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛することなく、敬うことなく、慰め合わず、助け合わず、命ある限り自分の命のためだけに生きることを誓いますか?』
『はい、誓います』
『奈月さん。あなたも誓いますか?』
『誓います』
 夫は大きく頷き、『これで、僕たちは分断された。もう家族でもなんでもない。一匹ずつただ生きているだけなんだ』と言った。」
 
こういう「離婚式」を、せっかくクライマックス直前に挙げているのに、もったいない、ストーリーの上で、全然生かしてないじゃないか。
 
当然三人はバラバラになって、生き延びるべく、命の尽きるところまで疾走し続ける、というのが、正しい終わり方ではないかな。僕はそう思う。
 
この作品は、クライマックスに比重がかかり過ぎているけれど、本当はそれまでのところが面白いし、考えさせる。
 
夫婦といっても偽装結婚で、奈月と夫は「工場」の隅で、息を殺して暮らしている。文学作品なので、かなり誇張して描いてあるが、これは特に今の若い人たちに、共感を持って読まれるだろう。
 
都会に出てきた人たちは、結婚をしたがらない。性交するのも、結婚という前提があってするわけではないだろう。
 
もちろん歳を取ってから、どう思うかはわからない。でもとにかく今は、結婚や、結婚を前提とした性交は、嫌なのだ。
 
そう思えば、ポハピピンポボピア星人もどきは、結構いるのではないかな。
 
でもそれ以上に、僕は個人的なこととして、ポハピピンポボピア星の方へ、郷愁を感じている。