日本語見本帳――『切腹考』(3)

鷗外は、実は高校生になったぐらいのときに、熱心に読んだ。本当に熱心に読んで、日本の作家で一番好きなのは、鷗外だと思った。そのくらい、入れ込んで読んだ。

「山椒大夫」「高瀬舟」に始まり、「阿部一族」も「興津弥五右衛門の遺書」も「大塩平八郎」も「最後の一句」も「寒山拾得」も「堺事件」も「ぢいさんばあさん」も「渋江抽斎」も、とにかく文章の隅々までが、直接染みてくるようで、こんな作家は、他にはいるまいと思った。
 
そうして大学に入って、もう一度読んでみた。すると、もう全く感じない。全く、というと語弊があるが、そのくらい、感じないという点において、猛烈な落差があった。こんなことは、森鷗外だけに起こったことだ。

「鷗外が好き。
 そう書きつけてみたのはいいが、何からこの好きという感情を説明していったらいいのかわからない。」
 
伊藤比呂美がそういうのだから、鷗外については、ただ字面を舐めるだけにしておこう。

著者の鷗外の見方は、角度がついていて、それはそれで面白くはあるけれど、でも正直なところ、鷗外の本当の面白さは、伊藤比呂美が力説するわりには、僕には分からない。

それよりも、日本語見本帳としては、熊本は浄国寺の、谷汲(たにぐみ)観音の話が面白い。

「県外から客が来れば、谷汲観音を見に連れて行く。これがすごい観音菩薩像で、一見商売女にしか見えない。お歯黒をした口を半開きにし、細い眉毛が描かれ、なんとも言えない、なまなましい表情をして、少し後ろの何かを見つめている。」
 
これはぜひ見てみたい。仏像に、そういう劣情をもよおしたことは、まだ一度もない。

「……神々しさにむせ返るような思いをする。着物をめくると、胴体はまるで竹籠のように、骨格がむき出しで、女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情が、またいやにエロい。」

「女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情」とは、どんな風情なのかわからないが、それであれば、よけいに見てみたい。
 
それからズンバ。これは『たそがれてゆく子さん』では、読者はみな、伊藤比呂美ならズンバ、そんなことは言うまでもない、と言わんばかりに、説明は省略されていた。
 
しかし一つ手前の『切腹考』には、ちゃんと説明がある。

「ズンバとは、腰を回しながら踴りくるうエクササイズで、中年の女によって熱狂的に支持されているのだとか……」。
 
ズンバの先生は三十代後半、背は低く、筋肉こそついているが、ちょっと太めの女である。

「それがいったん踊り出すや、身体の常識をくつがえして、海中のタコカかイカのようにくねるのである。身体のあらゆるところを、ぷるぷると震わせることができるのである。」
 
そうして、クライマックスにさしかかっていく先生が言うのだ。

「まず腰をずんと落として、骨盤に神経を集中させるんです、それから尻の筋肉を左右に動かす、それから肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで、肛門から膣へかけての筋肉を前後に激しく動かす、この一連の動きを素早くやれば、腹全体が動いているように見える……」。
 
本当にこれは、詩である。「肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで」なんて、詩以外のどんな言葉で、言い表わすことができよう。脳の内側をむんずとつかみ、ただひたすら、頭蓋骨を揺さぶられている気がする。
posted by 中嶋 廣 at 18:37Comment(0)日記