お墓を見てぶつぶつ――『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』(1)

養老孟司さんの『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』が面白かったので、その前編、『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』も読んでみる。
 
これは出たとき書店で見て、買うのをやめた記憶がある。どうしてやめたんだろう、とつらつら頁を繰りながら見ていくと、だんだん思い出してきた。
 
編集が『骸骨考』と違って、図版が三カ所に分かれて入っていて、しかも本文中に、本文とは別に、図版込みで、細かい字で、一ページの挟み込み解説がある。
 
それは、たとえばこんなふうだ。「ハプスブルグ家の歴史」「ハプスブルグ家の埋葬方法」「葬儀博物館」「ヴィッテルスバッハ家の埋葬」「日本の骸骨」。
 
どれも面白そうだ。けれどもこれらは、養老さんの語りの邪魔をする。編集者はよかれと思ってやっているが、それが裏目に出たかたちだ。この辺はなかなか難しい。
 
続編の『骸骨考』では賢明にも、一ページの挟み込み解説は無しにしている。
 
とにかく本文の他に、註に当たるものが、本文註と巻末の図版解説の、二カ所もあるのは煩わしくて、養老さんを読む邪魔になる。
 
と文句を言っておいて、とにかく読んでみよう。

「フレデリック・ルノワール『人類の宗教の歴史』(トランスビュー)を読んでいたら、『十万年前のホモ・サピエンスの信仰については、墓以外になにも知るすべがない』と書いてある。」
 
フレデリック・ルノワールは、フランスの売れっ子宗教学者。これは、僕が編集を担当して、養老さんに送ったものだ。養老先生なら必ず目を通されるはずだ、と思っていた。
 
ここでは巻頭、お墓や埋葬儀礼はよくわからん、だからヨーロッパの墓をめぐるのだ、と宣言している。
 
で、最初にデカルトが出てくる。デカルトは、目は二つあるのに、モノは一つにしか見えない、これはどういうことか、という疑問を唱えた人である。そうしてついに、結論を導き出す。

「……モノを認識している心の座は、両半球の間に単独で存在している松果体にあるに違いない。」
 
これは、今となっては間違いだが、当時の知的水準からすれば、はなはだ論理的であろう、と養老さんは言う。

「意識の座は大脳半球にある。それが二つあるなら、モノはどうして一つに見えるのか。現代人でも、それにきちんと答えられる人は少ないであろう。もし意識が完全に『唯物論的』であるなら、物理・化学的に意識が定義できるはずである。しかもその定義は『意識が行う』はずである。では意識が先か、モノが先か。」
 
ここでは、設問が二段重ねになっている。最初の疑問に答えられる人は、そもそも少ないだろうとして、次に意識を定義するのに、仮に物理・化学的に定義したとして、その定義は意識が行うとすれば、さて「では意識が先か、モノが先か」、というのである。
 
高次脳機能障害の僕は、より一層、頭がくらくらしてくる。
posted by 中嶋 廣 at 11:16Comment(0)日記