健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(4)

世界はまったくの無原理主義だと、どうしようもなくなる。しかしガチガチの原理主義だと、これもあるところから、狂気に近づいていく。養老さんはそう言う。

「世界にそんなにちゃんと筋が通っている保証なんかない。筋が通るのは頭の中だけで、若い頃から私は『筋が通れば、道理が引っ込む』と思っていた。筋が通るのは一種の快感だから、それはそれでいい。でも頭の中だけではなく、それで世界を左右しようとすると、とんでもなく問題が生じてしまうことがある。私は原理主義をそんな風に規定している。イスラム国もそうだが、原理主義者に網の目をどう理解させるか、まだ私は解答を発見していない。」
 
これは昔、仏文の渡辺一夫先生が、口を酸っぱくして仰っていたことだ。寛容は、非寛容に対して寛容であるべきか。

終戦直後の仏文研究室で、加藤周一さんたちが、新しい日本をどう建設するか、という議論に熱くなっているときに、渡辺一夫先生は、たまにはこういうのも聞いた方がいいんじゃないのと言い、大きな音で軍艦マーチをかけたという。
 
養老さんは、原理主義者に網の目をどう理解させたらよいか、自分はまだ解答を見出していないというが、これはひょっとすると、人間の限界ではないかとも思う。
 
もちろんそうは言わず、昨日までの僕は、人間の限界などと言わずに、それでも本を作っていたわけだが。
 
そもそも骸骨と対峙しているとき、養老さんは、いったいどんな気持ちでいるのか。

「骸骨が与える衝撃の強さなどというものは、自分の気の持ちようだけだから、訓練次第でどうにでも抑えられる。白骨を見ながら、要するに私は自分を訓練する。……でも仕掛けてこない相手としては、整然と並んだ千五百個近い骸骨の衝撃は、なかなかのものである。これはこれで格闘技だな。骸骨に直面しつつ、私はそう感じる。」
 
僕は養老さんを読んでいると、脳出血より前の脳が、復活するように感じる。一度死んだ脳の部分は、蘇らないと言われるが、それにしては、まざまざと復活を感じる。

(『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』
 養老孟司、新潮社、2016年12月20日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 15:18Comment(0)日記