健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(3)

ところで、「意識」が扱うことができるのは、時間的に変化しないもの、つまり「情報」だけである、というのが養老さんの大前提である。
 
よく考えると、この前提はかならずしも、絶対的なものではないような気がするが、養老孟司の文章を読んでいるときには、ついつい快調なペースに乗せられて、ふむふむと納得してしまう。

情報は変わらない、ところが実際の世界は、常に目まぐるしく動く。「諸行無常」である、という決めゼリフが出てきては、もうだめである。

「だから情報化社会はむやみに忙しい。概念や観念によって世界をなんとか固定つまり情報化するのだが、そのそばから世界自体は動いてしまう。それで古いとか新しいとか、レッテルを貼ってみるが、どのみち情報は固定し、世界は動く。固定された情報はいつまでも残存して消えないから、情報過多だという話になる。」
 
なるほど、それで情報は過多だという話になるのか。でもそれなら、最新の情報が出たところで、それより一つ手前の情報は、破棄してしまえばいいではないか。ちょうど、上書きの上に、上書きを繰り返すようなものだ。
 
でも、そんなふうには、誰も思わない。それが養老さんの、文体の魔術である。
 
それにしても、ヨーロッパの墓巡りとは、優雅なものですなあ。そういう人は、養老さんを全く理解していない。
 
イタリアのサン・ベルナルディーノの納骨堂を見学した後、外に出て教会の外観を眺めてみる。外の柱には、すり減った骸骨が二つ、頬を寄せあって描かれている。そのすぐ下に、聖書の言葉、「与えよ、さらば与えられん」が掲げられている。これは、ちゃんと図版まで載せてある。その図版を見て言う。

「なぜ骸骨がそれをいうのか、意味がわからない。こういうものをいちいち調べていると、いくら時間があっても足りない。世界は詳細に満ちていて、ゾウムシを調べているだけで十分すぎる。それだけで生涯がつぶれてしまう。」
 
ここでは骸骨が、聖書の文句を述べている理由の考察は、ゾウムシの生態を解き明かすことには、及ばない。養老孟司は、もう十分に忙しいのである。
 
そうかと思えば、脳死から話が飛躍して、横浜市では単身世帯が四割を占めていて、共同体が実質的に、異質の社会になりかけてはいないか、という話になる。

「人生とはなんのためなのか。独居老人にとっての生死の意味はなにか。独身の一人暮らしの若者の生の意味とはなにか。状況依存の社会で単身世帯四割という状況が出現すれば、生死は『自分のもの』という暗黙の了解が生じて当然であろう。具体的にはそうとしか、考えようがないからである。ところが『自分のもの』という人生は、年老いてみればわかるが、貧しいものである。」
 
これも考えようによっては、常識的な結論に帰着している。
 
しかしこれは、その前段の、独り者は身近な共同体を持たないがゆえに、直ちに国家と結びついてもおかしくない、というところに肝がある。ここでは養老さんは、過度の原理主義を警戒しているのだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:50Comment(0)日記