健在! 養老節――『骸骨考―イタリア・ポルトガル・フランスを歩く―』(2)

養老さんのお墓の調査には、何の目的があるのだろうか。

「……お墓の場合には、どういうアナロジーが、どういうこととの間で成立するのか、それが自分でもわかっていない。だからお墓をひたすら回る。それしか方法がない。いずれなにか出てくるかもしれないし、結局出てこないうちに死ぬかもしれない。人生はそういうもので、つまりそれはそれで仕方がないのである。」
 
墓めぐりをしている間に、人生とはどんなものか、悟りを得てしまう。これが養老孟司。まったく、たまんないなー、である。
 
個人の歴史の上で、意識が発生する始まりを考えると、結局いつの間にかもの心がついて、意識が発生している。

「だからいつの間にか意識が消えて死ぬはずである。つまり意識を左右している主体は、意識ではない。それではなにかというなら、身体に決まっている。だから私はそれを『脳』と呼ぶ。脳は身体の一部だからで、意識は脳機能の一つにすぎない。」
 
これ、わかりますか。非常に明晰なのだが、一般の前提は、意識がすべてだから、「意識は脳機能の一つにすぎない」というのを、なかなかすんなりとは納得できない。
 
それどころか、身体も、あくまでも意識の中に取り込もうとする。

「それが健康志向の根本にあって、だからサプリメントであり、ジョギングであり、禁煙であり、ダイエットなのであろう。」
 
なるほど、これはよく分かる。「健康志向」は、意識のためにそうするのであって、身体のためには、特に役に立っていない。……えっ、本当にそうなの?

本当にそうだろうか、そういう疑問を差し挟む余地のないほどに、養老さんの頭の回転は、いよいよ鋭さを増していく。

「意識的に可能であって、論理的かつ合理的なら、それが正しいことである。意識はそう主張するであろう。では身体はどうか。身体はなにを主張するのか。黙って生まれ、黙って育ち、黙って死ぬ。その身体が意識を根本的に左右している。現代人はそこをどう思っているのか。というより、歴史的にも、昔から、それをヒトはどう思ってきたのだろうか。」
 
というような問題意識があって、それで墓参りをしている。これ、分かりますかね。
 
養老さんには、普通の人間は持っていない、もう一つの脳がある、と僕は思う。意識と身体に分かれている人間を、統一的に見るための、もう一つの脳。

それは言ってみれば、世界に向かうところの、第三の目であり、松果体の上についている《もう一つの脳》である。
 
養老さんは子どものとき、よく頭の大きいのをからかわれたという。「頭はでかし、ようろうたけし」、と囃されたと、養老さんのお母様で医師の静江先生が、自伝の中で書いておられる。当たり前であろう、なにしろ脳が二つ入っているのだから。
 
というようなヨタを、つい飛ばしたくなるほど、養老先生の思索は深い。底なしに、角度を変えて、深い。
posted by 中嶋 廣 at 08:59Comment(0)日記