ポハピピンポボピア星の方へ――『地球星人』(2)

奈月は自分を、ポハピピンポボピア星人だと思っているだけあって、母とは折り合いが悪い。
 
母はしょっちゅう奈月を叩く。頭は悪いし、見た目もみっともないので、きっと結婚もできないだろう。母は近所のおばさんと、そういう話をする。
 
奈月はそういう話をされても、はい、その通りです、と素直に肯んじる。そういうものに、なんの魅力もないと思っているからだ。

「自転車で走っていると、同じ形の家が並んでいる風景が、巣だなあ、と思う。
 ……
 ここは巣の羅列であり、人間を作る工場でもある。私はこの街で、二種類の意味で道具だ。
 一つは、お勉強を頑張って、働く道具になること。
 一つは、女の子を頑張って、この街のための生殖器になること。
 私は多分、どちらの意味でも落ちこぼれなのだと思う。」

「一つは、お勉強を頑張って」、「一つは、女の子を頑張って」は、子供が大人に対するとき、その場を取りつくろって、そういう言い方をする。「女の子を頑張って」は、言わないかもしれないが、そのぶん本気で、女の子はそういう気になっている。
 
その後、奈月は、塾のヘンタイの先生に、精液を飲まされるが、「魔法」の力で反撃し、逆に相手をなぶり殺してしまう。もちろん「魔法」の力が働いているので、奈月は守られている。このあたりは、なんというか「寓話」そのものだ。
 
そして一足飛びに、34歳になった奈月は、もう結婚している。ただし夫は、「すり抜け・ドットコム」というサイトで見つけた。つまり偽装結婚だ。
 
それは「婚姻や自殺、借金など、様々な項目で世間の目をすり抜けたい人たちが、仲間に呼び掛けたり、協力相手を探したりするサイトだ。
 私はその中の『婚姻』のページにアクセスし、『性行為なし・子供なし・婚姻届けあり』とチェック項目に印を入れて相手を探した。」
 
そうして、理想の夫を手に入れたのだ。しかしもちろん、偽装結婚には努力が必要だ。

「夫の両親、兄夫婦、友人などがたまに、『工場』の様子を偵察しに来た。私と夫の子宮と精巣は『工場』に静かに見張られていて、新しい生命を製造しない人間は、しているという努力をしてみせないとやんわりと圧力をかけられる。新しい人物を『製造』していない夫婦は、働くことで『工場』に貢献していることをアピールしなくてはいけない。
 私と夫は、『工場』の隅で息を潜めて暮らしていた。」
 
けれどもこれは、いつかはばれることだ。奈月はもう、希望もないままに、ただ生き延びていくしかない。

「私は、そのまま魔法使いではなくなり、宇宙船をなくしたただのポハピピンポボピア星人として余生を生きている。母星に帰れない今、ポハピピンポボピア星人として生きていくのは孤独だった。地球星人が私を上手に洗脳してくれることを願うばかりだった。」
 
ところが、そうはいかない。奈月と夫は、田舎の家で、二十数年ぶりに会った由宇を巻き込んで、人殺しの活劇を演じ、果ては由宇と夫の智臣の二人が妊娠するという、グロテスクな奇跡を招来するのだ。

ポハピピンポボピア星の方へ――『地球星人』(1)

村田沙耶香の出世作『コンビニ人間』は、人間の設定は面白いけれど、始まりと終わりで、話がまったく転がらないので、がっかりした覚えがある。
 
文章に、厚みも含みもなくて、ただ物語を物語るだけというもので、この作家は二度と読むまいと思ったが、こんどの『地球星人』は、あちこちで話を聞くので、つい手に取った。
 
結論から言うと、大変面白い。
 
主人公の「奈月」の子供のときを描き、そして突然、三十歳を超えてからを描いていくので、いやが応でも縦軸が通る。
 
文章は例によって、この人の距離感で書かれていて、通常の感覚ではない。情緒欠乏症というか、発達障害もどきというか。
 
でも、こんなところもある。

「……耳がきんとして、自分がどんどん空に近付いているのを感じる。おばあちゃんの家は、宇宙に近い。」
 
この「宇宙に近い」の、突拍子もない、しかし奇妙にそこに収まっているリアルさは、読む者を圧倒する、というかドキッとする。
 
主人公は夏休みに、祖父母の田舎の家で、「由宇(ゆう)」という男の子と、秘密を持つ。
 
奈月は「コンパクトで変身して、ステッキで魔法が使える」が、なぜそんなことが必要かというと、「この世界にはたくさんの敵がいるの。悪い魔女とか、バケモノとか。私はいつもそれをやっつけて、地球を守ってるの」ということなのだ。
 
それに対して由宇は、僕は宇宙人ではないかという。

「すごい。じゃあ私たち、魔法少女と宇宙人だったんだね」
「いや、僕は、奈月ちゃんみたいにきちんとした証拠があるわけじゃないから……」
「きっとそうだよ。由宇の故郷って、ポハピピンポボピア星なんじゃないかなあ。それだったらすごい! ピュートと同じ星からきたんだよ!」
 
文章に不気味な影を忍ばせてはいるが、これだけだったら、子どもの空想ですむ。
 
しかし小学生の二人は、このあと夫婦の真似ごとをし、夜中に外で性交ごっこをする。といっても男の子には、精通が来ていないから、あくまでもごっこなのだが、それを見つけた大人たちは、驚いて二人を離れさせ、三十歳を過ぎるときまで、会えなくするのだ。
 
そういう小説らしい筋立てを背景に、奈月の独特の世界観が示される。

「私は、人間を作る工場の中で暮らしている。
 私が住む街には、ぎっしりと人間の巣が並んでいる。
 ……
 ずらりと整列した四角い巣の中に、つがいになった人間のオスとメスと、その子供がいる。つがいは巣の中で子供を育てている。私はその巣の中の一つに住んでいる。
 ここは、肉体で繫がった人間工場だ。私たち子供はいつかこの工場をでて、出荷されていく。」
 
これはおそらく、著者の世界観でもあるのだろう。

真っ向から斬り込む――『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在―』(2)

一般に新聞は、権力に近い読売、産経と、それと距離を置く朝日、毎日、権力と対峙する東京というふうに分けられる。
 
沖縄ではそれが、より先鋭になって出てくる。2016年12月13日、名護市で起きた、オスプレイ機の事故に関する報道では、それが大きく分かれた。
 
まず「不時着」は、読売、産経、日経。
「大破した事故」は、朝日、毎日。
「墜落事故」は、琉球新報、沖縄タイムス。
 
見事に分かれている。そしてこれは、すべてにおいてそうなのだ。
 
山田先生はそれを、「第一章 地図」「第二章 歴史」「第三章 分断」「第四章 偏見」「第五章 偏向」「終章 権力」に分けて、こと細かく論じていく。それは見事なものだ。
 
でも沖縄の報道を問題にするについては、どこか徒労感を滲ませずにはいられないものではないか。そしてそれは、山田先生もよく心得ている。

「……沖縄に対する関心は一定程度広がりを見せつつあるものの、『日本』には沖縄でいま起きていることはまったくといってよいほど伝わっていない。」
 
そういうときに、ではどうすればよいのか。

「……日常的にオキナワを繰り返し報じること、しかもその時に必ず歴史的視点を入れることだ。同じことは原発報道にもいえる。……複雑な歴史をすべて飛ばして、再稼働反対だけを唱えても、少なくとも推進側の理解はまったく得られないし、まさにいまの全体状況が、総論としては原発はなくした方がいいけど、各論としてはおらが町の原発は早く再稼働してほしい、ということになっているわけだ。
 こうした『国策』を根本から問い直すことは難しい。」
 
だから結局、何度でも言い続けなければならない。
 
しかも沖縄は、日本の他の地域とは、まったく様相が違う。

「沖縄報道は日本のジャーナリズムの写し鏡であり、沖縄は日本の民主主義のリトマス紙であるということだ。あるいは逆に考えれば、沖縄から日本のいまが見えるのであって、沖縄ジャーナリズムこそがその窮地に立つ日本を救うことができる可能性を秘めていると思う。」
 
だから、沖縄報道については、何度でも声をあげるのだ。

(『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在―』
 山田健太、ちくま新書、2018年10月10日初刷)

真っ向から斬り込む――『沖縄報道―日本のジャーナリズムの現在―』(1)

著者の山田健太さんの本は、『3・11とメディア―徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか―』と、『高校生からわかる 政治のしくみと議員のしごと』を、2013年に出した。

『3・11とメディア』は、これまでに書いたものを集めたのだが、それに手を入れていただくうちに、書き下ろしに近いものになった。
 
東北大地震と、新聞・テレビの旧メディア、WEBの新メディアを扱ったものとしては、まったく類書のない、画期的なものだった。もちろん朝日新聞を始め、ずいぶん書評に取り上げられた。
 
この本では、全国紙から地方紙までの各新聞を、図版として載せたのだが、その際、当該の記事の大きさを、新聞によって縮尺で分かるようにした。
 
たとえば福島の原発の記事を、朝日と読売と東京新聞では、どんなふうに違って取り上げているかを、図版で一目瞭然に、正確に示したのだ。

『政治のしくみと議員のしごと』は、山田先生が旗振り役の監修・執筆をしていただいて、若手弁護士たちや、NPO法人のメンバーなどが、選挙に当てて集中して作った。

これで与党自民党に、一矢報いようとしたのだ。というか選挙を、もう少しまともなものにしたかったのだ。
 
これは、いま問題となっている事柄を判断できるように、憲法、人権、社会保障、財政、安全保障、教育、政治と議会、の7分野を、79のQ&Aで示した。
 
日本社会の仕組みを知り、あわせて議員を判断する基準となるハンドブック、という趣旨だった。

僕には珍しいQ&A、一問一答式の本だが、著者が面白い人たちだと、仕事も面白くなる。そういうものだ。
 
そして『沖縄報道』である。山田さんはここで、二つのことを前提として上げる。
 
一つは、あえて新聞を、主たるテーマに挙げていることである。
 
現代ではインターネットが、報道の主流を占めていて、次がテレビ、ラジオ。新聞は完全に傍流である。実際、僕が新聞記者の話を聞いていても、数年前でも、とにかくみんな、ゆく末は悲観的だった。
 
ところが山田さんは、考え方が違う。インターネット・ニュースは、誰が発信しているのか。

「例えば、グーグルにしろヤフーにしろ、あるいはラインやスマートニュースにしろ、そのニュース提供元の多くは、いまだに新聞社や新聞社が経営上で支えていることが一般的な通信社であるのが現実だ。すなわち『報道』機関としての新聞社は、賞味期限が切れているどころか、そのど真ん中に居続けているということだ。」
 
こうして新聞社は、相変わらず報道の中心にいる。
 
もう一つは、あえて沖縄と、それ以外の日本を分けて考え、「沖縄」と「本土」という対立軸を設定したことだ。この「本土」は、日本の政治の中心である「東京」と、ほぼ同意語である。

「いま沖縄は、日本の民主主義の試金石であるとともに、日本のジャーナリズムが試されている地だ」、というのが山田さんの考えなのだ。

悪い奴らだが――『サカナとヤクザ―暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う―』

これは面白い。著者の鈴木智彦は、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部を経て、『実話時代BULL』の編集長を務めたのち、フリーとして週刊誌などに、暴力団関連記事を書いている。
 
海産物のうち、アワビ、ナマコ、カニ、ウナギは高価だから、暴力団が密漁している。これがなかなか取り締まれない。
 
この本はかなり巧みに作ってあって、6章のうち半分は、直接取材している。あとの半分は、書物をツギハギしている。そのツギハギの部分が、少し弱い。
 
しかし全体としては、かなりよくできている。三陸アワビの密漁団、築地市場で密漁の行方を追う、黒いダイヤ・ナマコ、暴力団が牛耳っていた銚子、東西冷戦に翻弄されたカニの戦後史、ウナギの九州・台湾・香港シンジケートを追って、といった具合だ。
 
密漁に関しては、まず税金の類いを払わない、禁漁期間に禁漁区域で採る、採ってはいけない稚魚を採る、採れた地域をいつわる、といったところだが、もちろんそこには、ヤクザが群がる。

「密漁を求めて全国を、時に海外を回り、結果、平成25年から丸5年取材することになってしまった。関係者にとって周知の事実でも、これまでその詳細が報道されたことはほとんどなく、取材はまるでアドベンチャー・ツアーだった。」
 
確かにそういうことなのだが、読み終わって、これは困ったことだという気には、もうひとつなれない。
 
WEBRONZAの書評頁「神保町の匠」で、幻冬舎新書編集長の小木田順子さんが、「『悪いヤツらの話はなんでこんなに面白いんだろう!』というのが、一番の本音の感想だった」と記している。
 
そうなのだ、結局、悪い奴らも直接、市民に手を出すわけではない。悪いことは悪いが、でも彼らの悪足掻きは、見ていてちょっと面白いところもある。
 
それに、広く世界を見れば、漁業権だのなんだのは、いってみれば、むりやり設定したものじゃないか。
 
タラバガニが、ロシア産だの日本産だの、カニには関係ないじゃないか。禁漁区域も、禁漁期間も、人間が勝手に決めたものだろう。

もちろんそんなことを言っていれば、たちまち漁獲資源は枯渇する。たがら、ヤクザには一片の利もない、ということを前提に、それでも、「悪いヤツらの話はなんでこんなに面白いんだろう!」ということだ。

(『サカナとヤクザ―暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う―』
 鈴木智彦、小学館、2018年10月16日初刷、11月18日第3刷)

日本語見本帳――『切腹考』(4)

この本のもう一つの柱は、死にゆく夫の看取りである。この本を書く二年前の春、著者は夫と一緒に、ロンドンに行った。

「夫は長旅に疲れ果て、タクシーによろぼい乗って行き先を運転手に告げたまま息も絶え絶えになっていた……」。
 
面白い、「よろぼい乗って」とは、じつにいい言葉だ。

「夫はそのまま、断末魔の形相のまま、ソファにひっくり返って動かなくなった。客死と書いてカクシと読むとわたしは考えた。二葉亭四迷もカクシ。芭蕉もカクシ。夫も、もしかしたらこのままカクシと心で何度も考えた。」
 
しかし夫は、まだ死なない。

「夫は老いの段差をウッカリと踏みはずし、がっくんと転げ落ち、その後、数か月のうちに、さらにいくつもの段々を転げ落ちていった。あれよあれよと歩けなくなり、手がふるえて、箸が持てなくなり、おしっこが洩れるようになり、うんこが拭けなくなった。……」
 
この後もこの調子が、さらにハイになって、延々続く。お分かりだろうか、これもまた詩なのだ。
 
これに、もちろんそうではない、通常の叙述も入る。

「去年の秋には、呼吸ができなくなった。医者に連絡を取ったら、ERに行けと指示されて、そのまま入院したら、心不全。腎臓の値がよくないのも見つかって、腎臓の専門医に送られて、腎不全。リュウマチ性の関節炎に脊椎管狭窄症、身動きするたびに疼痛に責め苛まれる。」
 
それでも夫は、まだ死なない。
 
そうして昨日のこととなる。夫はトイレで叫んでいた。トイレで転んで、うつ伏せになって、おしっこの中を泳いでいた。パンツやズボンや、むくみを取るためのストッキングを、全部脱がせて体を拭き、新しいのに着替えさせた。
 
ところが少したつと、もうだめである。

「しばらくして、あああ、と叫ぶので走っていくと、溲瓶の口からペニスがはずれて下半身がおしっこにまみれていた。パンツもズボンもストッキングも、ぜんぶ脱がせて体を拭き上げて、新しいのに替えた。三回目は、溲瓶を取ってくれと叫ぶから走っていくと、間に合わずにおしっこにまみれていた。
 本人は絶望していた。おれはどうなるんだろうと言うのである。」
 
さあ、どうなるんでしょうねえ、と言いながら、着ているものを全部脱がせると、べっとりうんこがついている。
 
ところがなんと、夫は拭かなくてもいいと、しらっとした表情で言うのである。

「そこでわたしは一計を案じ、あなたは気持ちがいいと思う、そうした方が、と言ってみた。すると、それなら拭いてもいい、おまえが拭きたいのなら、と夫があまりに厳かな調子で言うものだから、ありがとうございます、と思わずお礼を言いそうになった。」
 
素晴らしいオチである。詩というよりは、落語に近いけれども。
 
そして夫は、「死骸になり果てた」のである。

(『切腹考』伊藤比呂美、文藝春秋、2017年2月25日初刷)

日本語見本帳――『切腹考』(3)

鷗外は、実は高校生になったぐらいのときに、熱心に読んだ。本当に熱心に読んで、日本の作家で一番好きなのは、鷗外だと思った。そのくらい、入れ込んで読んだ。

「山椒大夫」「高瀬舟」に始まり、「阿部一族」も「興津弥五右衛門の遺書」も「大塩平八郎」も「最後の一句」も「寒山拾得」も「堺事件」も「ぢいさんばあさん」も「渋江抽斎」も、とにかく文章の隅々までが、直接染みてくるようで、こんな作家は、他にはいるまいと思った。
 
そうして大学に入って、もう一度読んでみた。すると、もう全く感じない。全く、というと語弊があるが、そのくらい、感じないという点において、猛烈な落差があった。こんなことは、森鷗外だけに起こったことだ。

「鷗外が好き。
 そう書きつけてみたのはいいが、何からこの好きという感情を説明していったらいいのかわからない。」
 
伊藤比呂美がそういうのだから、鷗外については、ただ字面を舐めるだけにしておこう。

著者の鷗外の見方は、角度がついていて、それはそれで面白くはあるけれど、でも正直なところ、鷗外の本当の面白さは、伊藤比呂美が力説するわりには、僕には分からない。

それよりも、日本語見本帳としては、熊本は浄国寺の、谷汲(たにぐみ)観音の話が面白い。

「県外から客が来れば、谷汲観音を見に連れて行く。これがすごい観音菩薩像で、一見商売女にしか見えない。お歯黒をした口を半開きにし、細い眉毛が描かれ、なんとも言えない、なまなましい表情をして、少し後ろの何かを見つめている。」
 
これはぜひ見てみたい。仏像に、そういう劣情をもよおしたことは、まだ一度もない。

「……神々しさにむせ返るような思いをする。着物をめくると、胴体はまるで竹籠のように、骨格がむき出しで、女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情が、またいやにエロい。」

「女が半殺しになって虫の息でうっちゃらかされたようなその風情」とは、どんな風情なのかわからないが、それであれば、よけいに見てみたい。
 
それからズンバ。これは『たそがれてゆく子さん』では、読者はみな、伊藤比呂美ならズンバ、そんなことは言うまでもない、と言わんばかりに、説明は省略されていた。
 
しかし一つ手前の『切腹考』には、ちゃんと説明がある。

「ズンバとは、腰を回しながら踴りくるうエクササイズで、中年の女によって熱狂的に支持されているのだとか……」。
 
ズンバの先生は三十代後半、背は低く、筋肉こそついているが、ちょっと太めの女である。

「それがいったん踊り出すや、身体の常識をくつがえして、海中のタコカかイカのようにくねるのである。身体のあらゆるところを、ぷるぷると震わせることができるのである。」
 
そうして、クライマックスにさしかかっていく先生が言うのだ。

「まず腰をずんと落として、骨盤に神経を集中させるんです、それから尻の筋肉を左右に動かす、それから肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで、肛門から膣へかけての筋肉を前後に激しく動かす、この一連の動きを素早くやれば、腹全体が動いているように見える……」。
 
本当にこれは、詩である。「肛門を内側に突っ込み、膣を掬い上げるつもりで」なんて、詩以外のどんな言葉で、言い表わすことができよう。脳の内側をむんずとつかみ、ただひたすら、頭蓋骨を揺さぶられている気がする。

日本語見本帳――『切腹考』(2)

このО氏の、表情の変化が面白い。もちろん、伊藤比呂美の目に映った限りでは、ということだ。
 
この辺も日本語の見本帳になる。

「玄関で出迎えられたとき、О氏はわたしを見て落胆した。切腹が好きなばかりか、セックスのことをあけすけに書いている若い女の詩人が来るから、どんな女か、誘えば一しょに腹が切れるか、そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発かと浮き浮きして出てみたら、こんなに泥臭い、化粧っ気もない、若いだけでたいしたことのない女だったと、落胆したのが見てとれた。」
 
これは、どの部分がすごいかといえば、「そのあと血まみれになりながら我がペニスを挿入できるか、その挿入はこれまでのどんな挿入よりもすばらしく、つづく射精はどんな爆発か」というところ。
 
ペニスのない伊藤比呂美が、まるでペニスがあるかの如く、じつにリアルに、神経の襞をなぞっている。

切腹といえば、近松門左衛門や滝沢馬琴や鶴屋南北の、血まみれの死は、「とてもエロい」。その血まみれの切腹に、いちばん近いのはお産だ、と著者は見当をつける。
 
はっはっと息が荒くなって、「がっくり落ち入る」というラマーズ法は、どれほど快感が大きかろうと、期待していたのだか、痛いだけであった。
 
で、その次が面白い。

「そう言えば台所でしょっちゅう包丁で我が指を切り刻み、家人に血まみれのキャベツの千切りなどを食べさせていたが、あれも不快なだけだった。」
 
まざまざと浮かんでくるなあ、「血まみれのキャベツの千切り」。
 
切腹小説は、著者の見るところ、オノマトペに見るところがある。そうしてそれは、古いものほど見るべきところがある。

「昔に書かれたものほど、オノマトペが少なく、あえて使うときにも、生活の他の場面にも使えるような一般的なオノマトペをひっそりと使う傾向がある。ぞりぞり、ぐぐっ、ふーむ、(これはオノマトペではないが)笑み割れた臍(へそ)の上になどというのが、私の好きな表現だ。」

「笑み割れた臍の上に」のどこが気に入ったのか、皆目見当がつかない。
 
そういえば、この本の柱の一つである、森鷗外の「阿部一族」や「興津弥五右衛門の遺書」の読ませどころも、僕にはわからない。

日本語見本帳――『切腹考』(1)

編集者のО君に、伊藤比呂美の『たそがれてゆく子さん』を読んでるけど、面白いというと、ぜひ『切腹考』を読みなさいと言われた。
 
日本語を革新する旗手が三人いるが、そのうちの一人が、伊藤比呂美だと言われた。あとの二人は、聞いたけども忘れた。
 
読んでみると、なるほどすさまじく面白い。今現在の日本語が、何と言ったらいいか、伊藤比呂美においては、びっくりするぐらいどこまでも伸びてゆく。
 
自由気ままなエッセイだけど、本としては骨格がある。まず切腹について、そして切腹関連で、森鴎外の「阿部一族」とその関連、最後に伊藤比呂美の、死にかけている年の離れた夫。そういう構成になっている。
 
それぞれが、それ用の文体になっており、読んでいくと、もうまるで日本語の見本帳だ。冒頭の「切腹考」は、そういうものだということを、あっけらかんと披露している。
 
まず著者は、切腹するのを、実際に見にいく。

「うむと突き刺したとたんに、彼の顔が、さーっと青ざめた。青ざめて、生きている人の顔色とは思われないものになった。驚いた。人のからだの自然の反応だ。死ぬことについての。斬られ、えぐられ、断たれて、滅ぼされることについての。人のからだが、挿入した刃物をみとめ、受け止め、理解して、その場で反応したのである。」
 
最初から、一瞬にして上り詰め、絶好調だ。こういうところに連れてこられると、もう目が吸い付いて、離れなくなる。

「わたしは息を止めて見守った。右脇まで引き回し終えたО氏が、くり返すが本来ならば右まで引き回し、いったん刀を抜いて、返す刀で、みぞおちに突き刺し、そこから一気に下に切り下げて十文字腹にかっさばき、その後、やりたい人は臓腑をつかんで引きずり出し、まあそこまでやらなくても、十文字にかっさばいた後は、抜いた刀でとどめを、自分で首筋を左から右へ刺し貫くとか、心臓を突き刺すとかするのであるが、その前に意識がなくなるかもしれず、出血で目が眩み、ないしは吐き気に襲われて動くに動けなくなっているかもしれず、刀を握りしめた拳は、開こうという意志があっても、どうにも開かなくなっているかもしれず、ここは何としてでも、拳を開いて持ち直さないと心臓に突き立てられない、死にそびれたらこんな恥なことはあるまい、そう焦るが、てのひらは血に滑り、膝も腰も尻のくぼみまでも血に濡れるのが分かる、酸鼻を極めるとはこういうことかと我れながら思いつつ意識が遠のいていくのである。」
 
ふーっ、長い引用だ。でも、文章はたった二つ。何度読んでも、手に力が入って汗をかく。
 
しかし、切腹するОさんは、実際に絶命するところまではいかない。いったら大変だ。Оさんは、いわゆる切腹マニア、そういうのがあることを、私は初めて知った。

お墓を見てぶつぶつ――『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』(2)

この本の後書きである「その場に身をおくということ」に、面白い話が出てくる。

「30年前に、ウィーンで変なものを見たのである。
 ふと立ち寄った教会で、日曜日のミサの案内が貼ってあり、その中にハートに矢が射すようなマークがあったのだ。これはなんだ? その案内は、失敬して、後生大事に持っている。」
 
これは図版をそのまま、僕が編集した、養老さんの『日本人の身体観の歴史』に使わせていただいた。ウィーンの教会でミサがあり、そこには案内板として、ハートに矢を射た絵があったのだ。

養老さんは、その奇妙な図版を、ずっと気にかけてきたのだが、それは実は、そのまま心臓信仰を表わしていた。だから例えば、聖心女子大学の「聖心」とは、もともと聖母マリアの御心(みこころ)、すなわち心臓そのものなのだ。

この辺りは、養老さんの推理が、冴えに冴えわたる。

だから「第1章 ハプスブルグ家の心臓埋葬」は、『日本人の身体観の歴史』を、そのまま発展させたものなのだ。

「ハプスブルク家の一員が亡くなると、心臓を特別に取り出して、銀の心臓容れに納め、ウィーンのアウグスティーン教会のロレット礼拝堂に納める。肺、肝臓、胃腸など心臓以外の臓器は銅の容器に容れ、シュテファン大聖堂の地下に置く。残りの遺体は青銅や錫の棺に容れ、フランシスコ派の一つ、カプチン教会の地下にある皇帝廟に置く。つまり遺体は三箇所に埋葬される。」
 
心臓信仰の淵源は、結局わからないが、しかし文化的背景は実に興味深いものだ。
 
と同時に、キリスト教信仰も、ヨーロッパに長く暮らしてみれば、決して明澄なものではないことがわかる。心臓信仰といい、マリア信仰といい、一見わけの分からぬ「土俗」は、西洋にもある。
 
そういうこととは別に、本筋とは関係なく、養老さんの話には鋭い警句、本質を突く話が出てくる。

「石油が現代を作り、おそらく石油の消滅とともにその現代が消えるはずである。……私が育った時代は経済のいわゆる高度成長期で、これを物質的にいい換えるならば、石油を代表とするエネルギー消費の成長にほかならなかった。」
 
湯水のように石油を使い、そのことを一般には、誰も考えていない。しかしもちろん、遠からぬうちに、石油は枯渇する。
 
トヨタと日産・ルノーが、車の出庫台数を競うなど、本当に愚かしい。じっと家で本を読む方が、よほど未来を先取りしていることに、もうすぐ気がつくころだ。

(『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編―』
 養老孟司、新潮社、2014年5月30日初刷)