およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(3)

伊藤比呂美の夫は、最後は自宅でのホスピスケアに行きついた。これはもう治療もリハビリもせずに、痛みや不快感をできるだけ取り除くだけで、ただ死ぬまで生きる、というものだ。
 
これにはしかし、世話をするヘルパーの保険が適応されない。

「二十四時間、ヘルパーがいた方がいい、とみんなに言われた。彼は重いし、要求が多いし、一人では無理だ、と。ヘルパーは、一時間(日本円で)二千五百円。二十四時間で六万。ひと月で百八十万。いや、目ん玉が飛び出たままひっこまない。」
 
最後の、「目ん玉が飛び出たままひっこまない」、というところで爆笑。
 
結局、ヘルパーはつけずに、伊藤比呂美が頑張ることにする。夫は要求は多いし、便も臭い。でも、死にたいと言われるよりは、家に帰ってきて、やっぱり生きたいと言われる方が、ずっとましだ、ずっと楽だ。
 
まあ、普通はこうなる。そして、夫は死んだ。
 
そもそも最初の恋愛期間が過ぎると、二人はしばしば意見が対立して、ケンカをするようになった。

「ほんとに、死んじまえと、何度思ったかわからない。意見が対立すると、相手を打ち負かすまで議論せずにはいられない男だった。妻だろうが、子どもだろうが、同僚だろうが、言葉で崖っぷちまで追いつめていくのだ。」
 
それでも居なくなると、かぎりなく寂しい。

「台所に立ってるのはあたし一人だ。/窓辺に立って外を見ても、外を眺めているのはあたし一人だ。」
 
再び私は、父のことでは、こういうふうにはならない。たぶん家族の誰も、こういうふうにはならないだろう。そして、何よりも本人が、変な言い方だが、死んでほっとしているんじゃないか。
 
もちろん、本人の生きる気力は、並大抵のものではなかった。詳しいことは聞いてないが、病院で、最後の瞬間は、身悶えしていたのではないか。
 
もちろん医者は、いまわの際に、そんなことになったとは言わないが。
 
父は、この二年間は、母の認知症を責め抜いた。母は、急速に認知症が重くなり、最後は父に何か言われても、まったく返事をしなかった。もう目も合わさなかった。
 
それが遺体を焼いたのちは、認知症は回復した。こういうのは、認知症のふりをしていたとは言わないのかね。
 
父は、私が出版の仕事をしているのは知っていた。しかし、まったく興味を示さなかった。
 
弟は大学を出て以来、ずっと介護の仕事をしてきた。しかし父は、それにも興味を示さなかった。そして弟と父は、些細なことから絶縁した。
 
母は自宅に生徒を呼んで、初め編み物を教え、それがやや下火になると、目先を変えてアートフラワーを教えた。

しかし父が停年で、家に居るようになってからは、生徒を招きにくくなり、こんどは自分が出歩いた。最後は、神戸大学の市民セミナーで、心理学の講師をやっていた。

父は、母がやるどんなことにも、まったく無関心だった。自分が大事で、家族にはずっと振り向いてほしかったけれど、どうすることもできなかった。

父はいつも憤怒の塊で、それは陸士出の、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。

父は、骨は拾うなと言ったので、焼き場に捨ててきた。当然、墓も作らない。世の中に居場所のなかった人間に、ふさわしい最後だ。

父の遺体を焼いた直後から、蘇って明るくなった母は、家族みんなで力を合わせて頑張ろう、と晴れやかに、高らかに言ったそうだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:59Comment(0)日記