高次脳機能障害の親戚か?――『どもる体』(3)

この本の記述は、心身二元論的な視点に立っている。というと難しそうだが、実際にこの本は、ある種の難しさを帯びている。
 
たとえば、心身二元論はデカルト以来、旗色が悪いと述べて、これを批判するものには、「精神と物質を一元論的に解釈しようとしたベルクソンのイマージュ論や、メルロ=ポンティの現象学のことがすぐに思い浮かぶはず」というが、『どもる体』を読んで、ベルクソンのイマージュ論や、メルロ=ポンティの現象学を思い浮かべるのは、ちょっと距離がありそうだ。
 
でもとにかく、そういう衒学的な側面を含めて面白い。ちなみに、心身二元論的なところというのは、体と心が一致していない、といった程度の意味だ。
 
本全体は、たとえば「たたたたたまご」というふうに、どもる「連発」から、特定の言葉を回避する「難発」へ、というふうに進んでいくが、その過程で面白いことが起こる。

「難発は、一般には吃音の『症状』として紹介されていますが、同時に連発を回避するための『対処法』でもあるのです。」
 
これは面白い。ある現象が、見方によっては「症状」でもあり、また別の見方では「対処法」でもあるのだ。

「これこそ、……吃音の『ダブルスタンダード性』にほかなりません。」
 
先ほど、高次脳機能障害とは、言葉の困難ということで親戚のようだけど、でも重なるところは、あまりないと書いた。
 
しかし、言葉が出てこなくて、とっさに外国語に言い換えるなどというのは、「難発」から「言い換え」に進んだ体と、高次脳機能障害とでは、全く同じだ。
 
今はもうそんなことはないが、病院にいるころは、「ねこ」が言えずに、とっさに「CAT」といっていた。
 
あれも「どもる体」が、「難発」を回避して、うまく「言い換え」ていたのだろうか。でも言い換えるのは、嫌なこと、決まりの悪いことだった。
 
この本は、全体としては、どもる人とその周辺にしか、読者はいないと思う。しかし文章が秀逸なのと、構成が巧みなので、ついつい終わりまで読んでしまう。
 
そして文章を、いま一度味わい、細部に宿った、なんとも言えない魅力を満喫するために、またすぐ最初から読んでしまう。

(『どもる体』伊藤亜紗、医学書院、2018年6月1日)
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記