「哲学対話」は本当に哲学なのか?――『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』

これは、編集者のKさんが送ってくれた。
 
去年の半ば以降、『漫画 君たちはどう生きるか』がヒットして、ついに最速で200万部を突破したという。
 
これについては、まず岩波に、どの面さげて出版社をやってるんだ、と言いたいけれど、それはまあ置いておく。
 
とにかく哲学のブーム、それも「ごく初歩的な哲学」のブームが、またやって来たということで、これは編集者の腕の見せ所だ。そう思ってみているけれど、それにしては他に何も聞こえてこない。
 
そういうときにKさんが、『考えるとはどういうことか』を送ってくれたのだ。これは期待して読まなければ。
 
そう思って読みはじめたけれど、うーん、これはどういうもんでしょう。
 
人間が自由になるためには、まず考えることが必要なのである、というのは、その通りである。
 
でも、「一人だけで頑張っても、途中で力尽きるだけだろう。しかし、共に考える『対話』としての哲学には、それが可能なのである。しかもそこでは、一人で勝手に自由になるのではなく、他の人といっしょに自由になることができるのだ。」
 
こうして、「哲学対話」を引っ提げて、これのやり方を説いてゆく。
 
これは明らかに、哲学の新種ですね。
 
どこまでも、ただ一人で考えを巡らせるから、哲学は真に自由なのだ、という前提を、最初から、いともたやすく超えている、あるいは壊している。
 
こんなの哲学じゃない、と思いながら、終わりまで読むと、しかし、哲学ではないとして、では何なのだ、という思いに駆られる。
 
とくに「哲学対話」を実際にやる段になると、こういうことをして、実際に何が出てくるのだろうか、という気がふつふつと湧いてくる。
 
こんなの哲学じゃないよ、と僕が言うのは、Kさんはよく分かっていると思う。その上で、「哲学対話」によって、いかなるものが出てくるのか、それを知りたいと思う。
 
しかしそもそも、哲学は一人で、知性の極北まで考えることだ、というのも考えてみれば、ずっと昔からの擦り込みではあるのだか。

(『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』
 梶谷真司、幻冬舎新書、2018年9月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 20:24Comment(0)日記