およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(1)

これは妻が、あんまり面白そうに読んでいるので、私も続けて読んでみた。考えてみれば、伊藤比呂美を読了するのは、およそ30年前の『良いおっぱい 悪いおっぱい』以来だ。
 
もちろん、それよりも前に読んでいた、詩集『姫』『青梅』の印象の方が、強烈だが。
 
この本は、全体を貫く芯に、87歳の夫の看取りがある。

私の父親は94歳で、酸素マスクを着けているので、もういくらも日がない。しかしそうは言っても、案外何年間か、持つかもしれない。

妻も私も、いつもどこかで気にかけているので、この本に手が伸びたのだと思う。気にかけているというのは、かならずしも、ただ心配しているという意味ではない。

「四肢が動かなくなって、病院で四年半寝たきりだった。認知症もあった。寝たきりだったから気にならなかったが、シャバにいたならみんな困っていただろう。DNAが人を操作するならば、あたしもああなる。可能性はおおいにある。でも、いつか? いまじゃない。」
 
これは伊藤比呂美が、母を看取ったとき。こういう文章なので、実に読みやすい。

伊藤比呂美は、私より二歳年下。まあ同じ世代といってもいい。その人に、夫を亡くした友人たちが、口々に言うのだ。

「夫が生きていた頃はむかついたしイライラしたしうっとうしかった。でも、死んでみたらそれどころじゃない、ほんとうに寂しい、誰もいない、と。」
 
これはよく言われることだが、それでも例外はあるだろう。私も、母に聞いてみたい。でも、母は90歳で、認知症が進んでいるから、夫がもしいなくなっても、正確なことは分からないかもしれない。
 
伊藤比呂美の家族は、波乱万丈だった。もちろん、彼女のせいだ。

「一九九七年に子どもらを連れて移住してきた。思春期でむずかしかった。思春期でむずかしいのに、離婚して、家庭壊して、ステップ家庭で無理をさせた。そして海を渡ってこっちに連れて来ちゃって異言語異文化。」
 
こういうのは、もうしょうがない。子は、良きにつけ悪しきにつけ、親を選べない。
posted by 中嶋 廣 at 18:24Comment(0)日記

高次脳機能障害の親戚か?――『どもる体』(3)

この本の記述は、心身二元論的な視点に立っている。というと難しそうだが、実際にこの本は、ある種の難しさを帯びている。
 
たとえば、心身二元論はデカルト以来、旗色が悪いと述べて、これを批判するものには、「精神と物質を一元論的に解釈しようとしたベルクソンのイマージュ論や、メルロ=ポンティの現象学のことがすぐに思い浮かぶはず」というが、『どもる体』を読んで、ベルクソンのイマージュ論や、メルロ=ポンティの現象学を思い浮かべるのは、ちょっと距離がありそうだ。
 
でもとにかく、そういう衒学的な側面を含めて面白い。ちなみに、心身二元論的なところというのは、体と心が一致していない、といった程度の意味だ。
 
本全体は、たとえば「たたたたたまご」というふうに、どもる「連発」から、特定の言葉を回避する「難発」へ、というふうに進んでいくが、その過程で面白いことが起こる。

「難発は、一般には吃音の『症状』として紹介されていますが、同時に連発を回避するための『対処法』でもあるのです。」
 
これは面白い。ある現象が、見方によっては「症状」でもあり、また別の見方では「対処法」でもあるのだ。

「これこそ、……吃音の『ダブルスタンダード性』にほかなりません。」
 
先ほど、高次脳機能障害とは、言葉の困難ということで親戚のようだけど、でも重なるところは、あまりないと書いた。
 
しかし、言葉が出てこなくて、とっさに外国語に言い換えるなどというのは、「難発」から「言い換え」に進んだ体と、高次脳機能障害とでは、全く同じだ。
 
今はもうそんなことはないが、病院にいるころは、「ねこ」が言えずに、とっさに「CAT」といっていた。
 
あれも「どもる体」が、「難発」を回避して、うまく「言い換え」ていたのだろうか。でも言い換えるのは、嫌なこと、決まりの悪いことだった。
 
この本は、全体としては、どもる人とその周辺にしか、読者はいないと思う。しかし文章が秀逸なのと、構成が巧みなので、ついつい終わりまで読んでしまう。
 
そして文章を、いま一度味わい、細部に宿った、なんとも言えない魅力を満喫するために、またすぐ最初から読んでしまう。

(『どもる体』伊藤亜紗、医学書院、2018年6月1日)
posted by 中嶋 廣 at 18:30Comment(0)日記

高次脳機能障害の親戚か?――『どもる体』(2)

「どもり」は、高次脳機能障害とは、必ずしも関わりはないといったが、じつは関係するところもある。

「……関節を曲げる角度や口の開き具合、あるいは体重のかけ方について、私たちは体の細部にわたって逐一命令を出しているわけではありません。その多くは、体の物理的な構造と習慣の産物による自動化した動きであって、意識的にコントロールされたものではないのです。そうした『体が勝手にやってくれていること』にかなりの部分を依存して、私たちは生活しています。」
 
ところが、「どもり」と高次脳機能障害は、どちらも、身体が勝手にやってはくれないのである。
 
高次脳機能障害は(「私の」と限定した方がいいのかも知れないが)ときとして、まずごっくんと何ものかを飲み込まないと、言葉を発することができない(しかし、そうでないこともある)。

そして、最初の言葉を発するのだけど、これがまた、声の高低が定まらない場合がある(もちろん二言、三言しゃべっていれば、すぐに落ち着くところに落ち着く)。つまり、意識してコントロールしないといけない。

一方、「どもり」は「『たまご』と言おうとしているのに、『たたたたたたまご』になって出てくる。あるいはそもそも最初の『た』が出ない。こんなふうに、思ったのとは違う仕方で、言葉が体から出てくるのです。いわゆる『吃音』と呼ばれる症状です。」
 
しかもこれには、「隠れ吃音」で悩んでいる人もいて、事態はそうとう複雑である。「目に見える症状(バグ系)」と「目に見えない症状(フリーズ系)」の、どちらが出やすいのかが、人によって違ってくるのである。

「多くの人がその両方を持っていますが、バグがよく起こる人がいる一方で、フリーズ中心の人もいる。隠れ吃音の人は、目に見えるバグが起こりにくい人ですが、それでもまったく起こらないわけではありません。」
 
ふーむ、ややこしい。

しかも、吃音がなぜ起きるのかが、まだわかっていない。「遺伝なのか、脳の機能障害なのか、環境的な要因なのか」、そして原因は、一つとは限らない。

でもここでは、吃音の原因探しも、治療法の提案もしない。ただ体に起こる現象として、観察したいのだ。
posted by 中嶋 廣 at 17:49Comment(0)日記

高次脳機能障害の親戚か?――『どもる体』(1)

医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の一冊。この企画を推進している白石正明さんとは、「いける本・いけない本」という冊子の、年度代表本を挙げる会で、会ったことがある。場所は出版倶楽部で、忘年会を兼ねていた。
 
そのとき、どんな話をしたかは忘れてしまったが、感じの好い方だった。

「ケアをひらく」は、シリーズ最初の『ケア学:越境するケアへ』(広井良典)に始まり、『ALS 不動の身体と息する機械』(立岩真也)、『べてるの家の「当事者研究」』(浦河べてるの家)、『逝かない身体:ALS的日常を生きる』(川口有美子)、『リハビリの夜』(熊谷晋一郎)、『驚きの介護民俗学』(六車由美)、『カウンセラーは何を見ているか』(信田さよ子)を、読んだことがある。
 
考えてみれば、一つのシリーズと意識しないで、7冊も読んでいるのは、ちょっと驚きである。
 
もちろんそれぞれ、大宅壮一ノンフィクション賞や、新潮ドキュメント賞、日本医学ジャーナリスト協会賞など、賞を得たものもあって、多分そのころは、仕事に役立てるつもりで、読んでいたに違いない。
 
巻末広告の最初に、「ケアをひらく」全体を貫く方針が、掲げられている。

「本シリーズでは、『科学性』『専門性』『主体性』といったことばだけでは語りきれない地点から《ケア》の世界を探ります。」
 
こんな感覚的なことばで、斬新なシリーズができるとは、本当に驚いた。
 
これでたとえば、『死と身体:コミュニケーションの磁場』(内田樹)、『こんなとき私はどうしてきたか』(中井久夫)、『中動態の世界:意志と責任の考古学』(國分功一郎)の各著者と、執筆交渉しているところを、ぜひ見てみたい。
 
医学書院という、外側からは堅牢剛直に見える版元を、口説き落とすには、かなりの手練手管が必要であったはずだが、その辺はどうなのか、これもぜひ聞いてみたいものである。
 
それで、最新刊の伊藤亜紗の『どもる体』だが、これは私の高次脳機能障害と、関連があるかと思って読んでみた。
 
結論を言うと、必ずしも高次脳機能障害について、何かが分かるということはなかったが、しかしこれはこれで、実に興味深い本であった。
 
しかし本文を読む前に、本として、イラストも含めて、ショッキングピンクと墨の二色刷りで仕上げたところや、口からもう一人の自分が出ていくところを、イラストにした装幀のセンスは、本当に見事なものである。
posted by 中嶋 廣 at 17:57Comment(0)日記

「哲学対話」は本当に哲学なのか?――『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』

これは、編集者のKさんが送ってくれた。
 
去年の半ば以降、『漫画 君たちはどう生きるか』がヒットして、ついに最速で200万部を突破したという。
 
これについては、まず岩波に、どの面さげて出版社をやってるんだ、と言いたいけれど、それはまあ置いておく。
 
とにかく哲学のブーム、それも「ごく初歩的な哲学」のブームが、またやって来たということで、これは編集者の腕の見せ所だ。そう思ってみているけれど、それにしては他に何も聞こえてこない。
 
そういうときにKさんが、『考えるとはどういうことか』を送ってくれたのだ。これは期待して読まなければ。
 
そう思って読みはじめたけれど、うーん、これはどういうもんでしょう。
 
人間が自由になるためには、まず考えることが必要なのである、というのは、その通りである。
 
でも、「一人だけで頑張っても、途中で力尽きるだけだろう。しかし、共に考える『対話』としての哲学には、それが可能なのである。しかもそこでは、一人で勝手に自由になるのではなく、他の人といっしょに自由になることができるのだ。」
 
こうして、「哲学対話」を引っ提げて、これのやり方を説いてゆく。
 
これは明らかに、哲学の新種ですね。
 
どこまでも、ただ一人で考えを巡らせるから、哲学は真に自由なのだ、という前提を、最初から、いともたやすく超えている、あるいは壊している。
 
こんなの哲学じゃない、と思いながら、終わりまで読むと、しかし、哲学ではないとして、では何なのだ、という思いに駆られる。
 
とくに「哲学対話」を実際にやる段になると、こういうことをして、実際に何が出てくるのだろうか、という気がふつふつと湧いてくる。
 
こんなの哲学じゃないよ、と僕が言うのは、Kさんはよく分かっていると思う。その上で、「哲学対話」によって、いかなるものが出てくるのか、それを知りたいと思う。
 
しかしそもそも、哲学は一人で、知性の極北まで考えることだ、というのも考えてみれば、ずっと昔からの擦り込みではあるのだか。

(『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』
 梶谷真司、幻冬舎新書、2018年9月30日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 20:24Comment(0)日記