端正な傑作――『ある男』

これも田中晶子が、夢中で読んでいたので、借り受けて読んでみた。

平野啓一郎は、『決壊』『ドーン』を読んだことがある。端正な文体で、作品を構築していくが、その端正さがちょっともの足りない、というかやや鼻につく、というところがあって、それっきりになっていた。

考えてみると、もの足りないのと、鼻につくは、正反対のことだが、しかしどちらも、そういうことがある。

今度の作品も、相変わらず端正な文章で構成してあるが、もの足りないとか、鼻につく、ということはない。それよりも、むしろこういうのは、今は好感が持てる。

これはこちらの問題で、たぶん伊藤比呂美ばかり読んでいたので、ちょっとげんなりしてたんだろう。

小説の構造はこうだ。

女と男が知り合い、惹かれあって結婚する。しかしほどなく、男は事故で死ぬ。女はそこで、愛したはずの男が、名前も戸籍も、全く別人だったことを知る。どうしていいか分からず、女は知り合いの弁護士に、調査を依頼する。

死んだ男は、殺人犯の息子で、それを隠すために、名前も戸籍も、別の人間と交換していたことがわかる。

しかし、これがメインの話かと言えば、そうではない。謎を追って活躍する弁護士は、家庭が不安定で、そちらの方が、むしろ話の本筋である。

名前も戸籍も、別の人間を騙っていた者と、弁護士という、社会的に安定した職業の人間と、どちらがまともな人間なのか、というか、愛し愛されるにふさわしい人間なのか。
 
後半、末尾に近く、弁護士が疑問を吐露する。

「……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」
 
しかし、そういう弁護士が、「その過去が、これまでのものだとわかっているとして、それで二人の間の愛は?」という渦中に、巻き込まれるのだ。
 
これは、何人もの登場人物が、嫌な人物も含めて、実に生き生きとしており、細部までが、流れるような筆で描き込まれた名品である。

(『ある男』平野啓一郎、文藝春秋、2018年9月30日初刷、10月10日第2刷)

装幀家の危機意識――『彼方の本―間村俊一の仕事―』(3)

そうは言っても、装幀家稼業は大変である。僕みたいな、全部装幀家にお任せでありながら、それが出来上がっていく過程で、いろいろ文句を付ける奴もいる。

何よりも、売れっ子の装幀家は、抱えている点数が、半端な数ではない。そこで間村さんは、一計を案ずる。大学に入ったときに、シュルレアリストのマックス・エルンストのコラージュ、『百頭女』に衝撃を受けていたのだ。

「古い挿絵本や木版画が切り貼りされ、思いもかけない作品に昇華される。まさしくエロティシズムの椀飯振舞、糊と鋏による前代未聞の狼藉である。」
 
この衝撃は、後々まで強く残った。

「以来すっかり嵌った。装幀の種に困るとコラージュを作ってしのいできた。『摂津幸彦選集』、『新撰21』もこのパターン。」
 
海に直立したドアと、画面中央のミノタウロス。摂津幸彦の高名な、夜汽車と金魚の句に対抗するために、牛頭人身の父を対峙させたのだが、その出来は実に見事である。
 
そうかと思えば、『句集 了見』『句集 實』などを装幀した、加藤郁乎との一夜。

「とある一夜、いまはない赤坂のさるバーにての出来事。『ワタシガ・カトウ・イクヤ・デス』。酔眼朦朧の態であるが、その視線はするどく当方を真正面から捉えてはなさない。『大学時代からの先生のファンで……』『ワタシガ・カトウ・イクヤ・デス』『先生の影響で俳句を始めたような次第で……』『ワタシガ・カトウ・イクヤ・デス』えんえん続くこの決めゼリフ。」
 
ここは何度読んでも、本当におかしい。おもわず、『ワタシガ・カトウ・イクヤ・デス』というのが、こちらにも移ってしまう、頭の中で、わんわん反響している。
 
原稿の中に一人、堀江敏幸の「『とびどぐ』を持たない山猫」が、間村俊一の讃として載っている。その一節に、間村俊一の本質を捉えたところがある。

「うるわしき無頓着とは、計算をただしく排除する意識のありようである。……広々とした木の仕事机には、いまやブックデザインにおける『とびどぐ』とも言えるマッキントッシュの影はなく、はさみ、カッター、定規、糊、鉛筆などごく基本的な切り張りの文具しか置かれていない。機械が苦手だとか、信用できないという次元の選択ではない。いや、むしろ選択の形跡すらない。あるのはただ、着実な「手」順だけだ。間村俊一のブックデザインに洗練されたノンシャランスが感じられるのは、途中で手が嘘をついていないからなのである。」
 
間村さんの本質は、ここに集約されている。そして考えてみると、昔から職人の微妙なさじ加減は、機械の精密さをはるかに凌駕するものだったのだ。
 
最後に個人的なことを書く。

口絵の二ページ目の、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』全四巻は、僕の企画である。学生時代からの友人、島田裕巳に焚きつけられて、1980年後半に、彼を中心に企画を作ったものだ。

しかし『世界宗教史』第Ⅰ巻の原稿ができたところで、僕は仕事を外され、ほどなくして筑摩書房を辞めた。

以来、『世界宗教史』第Ⅰ巻の装幀を見るたびに、間村さんと、もっと早くに会っていればなあ、と思わずにはいられなかったのである。

(『彼方の本―間村俊一の仕事―』間村俊一、筑摩書房、2018年11月5日初刷)

装幀家の危機意識――『彼方の本―間村俊一の仕事―』(2)

写真家、鬼海弘雄と組む場合は、バトルである。初めて会ったのは2000年、福島泰樹の、短歌絶叫三十周年記念コンサートの、ポスター写真を依頼したときだった。

「……荒川を北上。大きな堰のあるあたりで車を止め、ここの河原で撮影しようということになった。
『そんな顔じゃダメだ。もっと怒れ!』カメラを構えて福島さんと対峙した鬼海さんは、じりじりとその間合いをつめる。黒のコートにボルサリーノで正装した絶叫歌人は徐々に追いつめられ、とうとう荒川の水際に足を踏み入れてしまう。まるで果し合いのような撮影現場であった。」
 
鬼海弘雄にとって、現場は常にこんなふうだ。これはじつにいい。仕事は常に、こういうふうにやりたい。

「都はるみさんも追いつめられた。『メッセージ』という彼女の発言を集めた本の出版記念の飲み会。『うしろの池にはまりそうになったわ』と涼しい顔でおっしゃった。」
 
その『メッセージ』は、間村俊一の装幀(図版31頁)。よく見ると、カバーの都はるみのアップが、いつもと違う。顔はすっぴんのようだが、表情の厚み、深みが、いつもとはまったく違うのだ。
 
中ほどに、「本あるひは装幀にまつはる五十五句」とサブタイトルを付けて、「間奏句集 ボヴァリー夫人の庭」が載っている。

これは著者の既刊句集、『鶴の鬱』(図版115、119頁)『拔辨天』(図版122,123頁)から装幀にまつわる句を選び直し、初出時の詞書を復活させたものである。

そこには、「本文はオーソドクスに組め」という詞書に続いて、「脚注のごとし春雨ふる様は」という、いかにも情景が浮かんでくるような句もある。

その最後に、「版下といふ絶滅危惧種。もちろん書物に未來は無い」と詞書があって、「初夏の版下あはれ書物果つ」とある。とにかく、覚悟が必要なのである。
 
図版ページに、平松洋子が書いている。

「間村氏は版下を『絶滅危惧種のガラパゴス』と自ら揶揄する……」

「絶滅危惧種のガラパゴス」であったとしても、そして「書物果つ」と覚悟していたとしても、その覚悟をもって装幀をする限りは、生き延びる道はかならずやあらん、と思うのだ。

装幀家の危機意識――『彼方の本―間村俊一の仕事―』(1)

これは豪華な本である。本体4700円、でもその価値は、十分すぎるほどある。

間村俊一の装幀の仕事を、主として2000年ごろからたどった本で、およそ半分が写真ページで、装幀の仕事は約300点を数える。

しかもその写真は、単に装幀を立体的に見せるだけでなく、書名によってゆるやかにカテゴライズしてあり、またときに、装幀に用いたさまざまなオブジェを配している。
 
残り半分は装幀をめぐるエッセイ集で、これが図版ページとつかず離れず、見事である。

初めの方の「古本グラフティ〈青春篇〉」では、同志社大学にはいってアングラ演劇に熱中し、耽読したのは唐十郎、澁澤龍彦、種村季弘、また短詩型文学は加藤郁乎、塚本邦雄と覚醒的な出逢いをしている。

何のことはない、間村俊一の装幀の核心的な仕事は、学生の頃から、一本が通っていたのだ。

けれども今では、平穏無事に装幀の仕事をこなしていくわけには行かない。

「時代はまさに携帯電話とインターネットに席巻され、もはやジャズ喫茶の暗闇で、あらぬ世界を夢見て本を開く若者もいなくなってしまった。」
 
実際、装幀の仕事もコンピュータで行い、ラフスケッチを何枚も出してくる時代なのだ。そんなとき、間村俊一はあくまでも手作業にこだわる。表の帯に言う。

「道具は糊、定規、カッターナイフ。/情緒に回収されない端正な造本を続ける/職人気質の装幀家……」
 
もちろん何通りものラフスケッチなど、出してくることはない。それは和田誠が言うように、レストランにはいってカレーとチャーハンの上手くできた方を食べたい、ということがないのと同じことだ。
 
巻頭の「下駄とリヤカー」では最初から、装幀の秘密を実に微妙に、かつあっけらかんと開示している。

「深夜、仕事場の窓をたたく音がする。開けると又三郎だ。『困っているようだから、これを持ってきてやった。』闇の向こうでガラスのマントのこすれる音がしたと思ったらもう姿はない。すさまじい風が吹いて仕事机にアンモナイトがひとつ残された。そうかこれを使えというのか。しらじらと夜も明ける頃合、化石をちりばめた『新校本宮澤賢治全集』の装幀プランが成った。」
 
そこで併せて図版ページ(六頁)の、『新校本宮澤賢治全集』の数冊を見れば、なるほどこういうふうに出来上がるのかと、言葉を介することなく、深く納得できるのである。

絶滅危惧種か?――『文藝春秋作家原稿流出始末記』

これには表題作と、あと二編、「古書流行史」「『鶴次郎・稲子・中野重治』考」が入っている。

著者の青木正美は、著作も手がける古本屋で、『ある古本屋の生涯―谷中・鶉屋書店と私―』『古書肆・弘文荘訪問記―反町茂雄の晩年―』の他、ずいぶんたくさんの著述がある。
 
そういえばこの二冊は、日本古書通信社から出ているので、『古書通信』編集長の樽見博さんは、著者とは親しいだろう。この本も初出は全部、『古書通信』である。
 
ことの起こりは昭和42、3年ころ、文藝春秋が、自社の雑誌で使用した作家原稿を、大量に廃棄処分したところ、それが古紙問屋から古本屋に流れていったという話である。
 
著者はこのうち、安部公房の「チチンデラ・ヤパナ」の原稿を落札する。これは、「砂の女」の書き出し部分であり、落札価格は11万2千円だった。
 
すると翌日、文藝春秋を名乗る人が来店して、責任ある肩書きの名刺を出し、こういった。

「例の、先日お宅が買われた安部さんの原稿、買い戻したいのです。無論利付けしますし」
 
これに対して、著者はとっさにこう答える。

「あれ、注文で買ったんで、お客さんに届けちゃって、もうありませんよ」
 
まだいろいろと経緯はあるが、こういうわけで、作家の原稿は広く出回ることになる。
 
面白いのは、作家原稿を破棄する場合、タイトルと署名のある一枚目を破り取り、あとは古紙問屋に下ろしていることだ。これを俗に、「首ナシ」の原稿と呼ぶ。

当然、シュレッダーなどはない時代である。原稿の全体を破棄するには、気の遠くなるような時間がかかったのだ。
 
しかし少なくとも、古書市場では、「首ナシにその発表誌を添えなければ古書市場では絶対に通用しない。」
 
ふーん、そういうものなのか。
 
年末の明治古典会などで、たまに古書会館へ行くと、陳列してある中に、生原稿があり、その一ページ目はなくて、その代わり、雑誌の一頁目が添えられてあるが、あれは「首ナシ」原稿だったのか。
 
他にももちろん、面白いところは多々あるが、しかし全体としてはやや古すぎる。話の骨格が古すぎて、どうしようもないのである。
 
そもそも生原稿は、今の作家には存在しない。コンピュータで創作するのが、当たり前になった今は、それがいいか悪いかは別にして、もう不可逆的なことである。

もちろん、「古典籍」は残るだろう。これは間違いない。

しかし、個人的には信じたくはないけれども、「古本屋」は近い将来、絶滅危惧種になっていくと思うが、どうか。

(『文藝春秋作家原稿流出始末記』青木正美、本の雑誌社、2018年8月25日初刷)

「投資家」はどこにいる?――『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音―』(2)

たとえば次の文章。

「国内外の投資家は常に各国の国債金利をにらみながら内外債券の保有ポジションを決めています。」
 
一国の、あるいは地球規模の経済活動を見すえて、「投資家」はいつも、虎視眈々と利益を上げようとしている(らしい)。
 
しかし、その「投資家」はいったいどこにいるのだ。
 
もちろん有名な「投資家」は、何人かはいる。けれどもみんな、こういう言い方はどうかと思うが、人間としては、およそ魅力のなさそうな人ばかりだ。
 
そういう有名な人ばかりでなく、大勢いるに違いない、無名の「投資家」たちは、普段はどこで、何をしているのだろう。
 
機関投資家と呼ばれる人たちは、普段は会社にいる。だからこれは、会社の人以外には、会うことはなかろう。
 
そうではない、街の個人投資家は、二十四時間、インターネットを見ながら、株の売買をやっているのかね。
 
だとすると、実につまらない人生を送っていることになろう。少なくとも、そんな人生を送ることは、私はまっぴら御免だ。
 
だいたい「投資家」とは、日本の場合でいえば、何人ぐらいいて、男女の比率はどのくらいで、どんな暮らしをしているのだろう。
 
資本主義の中心には、「投資家」がいるはずなのだから、もっとはっきり声を出してもいいはずだ。それとも、株の売買以外に、とくに言うことはないのかね。
 
はっきり「投資家」とは分けられない「投資家」が、大半なのだろうか。
 
中学や高校で、「投資家」になるには、という授業があってもいいはずだと思うが、そういう話はとんと聞かない。
 
だいたい私の周りには、「投資家」なるものが、一人もいない。ここまで生きてきて、まったく一人の「投資家」にも出会わない。これはつまり、どういうことなのだろう。

「国債金利をにらみながら内外債券の保有ポジションを決め」ている「投資家」は、一国のうち何パーセントが、それに当たっているんだろうか。
 
そういうものを、最も重視しなければいけない経営者や政治家というのも、むなしい商売だなあ。

「投資家」は、こういう良識を持ち、こういう勉強をし、こういう努力を行ない、世間に対してはこういうふうに振る舞ってほしい、というガイドラインを、大枠だけでも決められないものか。
 
あるいは多くの「投資家」を見れば、自ずからそこには、一つの典型が見えてくる、というふうには、ならないのだろうか。
 
株の売り買い以外は、まったく正体不明の「投資家」というのは、ただただ不気味という以外にない。

(『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音―』
 河村小百合、集英社新書、2016年11月22日初刷)

「投資家」はどこにいる?――『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音―』(1)

東京新聞でコラムを書いている河村小百合が、そのコラムで『世界経済 危険な明日』(モハメド・エラリアン)を推薦していたので、読んでみたが、面白くなかった。というか、よく分からなかった。
 
そこでこんどは、河村の本を読んでみる。
 
一読した感想を言えば、やっぱり五割方しか、分からなかった。特にヨーロッパやアメリカの、中央銀行が取っている政策の話が出てくると、とたんに分からなくなる。

やっぱり「経済」の話は難しい。これは必ずしも、僕だけがバカなんじゃないと思うが(でもまあ、反省はしてますよ)。
 
しかしそれでも各国で、急場にどういう方策がとられたかは、なんとなく、というか身に沁みてわかる。

「国債の元利払いだけは何とかして継続できるようにお金をひねり出し、その分は他の歳出を大幅にカットするのです。実際には『公務員のお給料を約束どおりに払わない』『国として払うと約束していた年金を約束どおりに払わない』『公共事業をやらせておいて、完成しても後で建設会社に代金を払わない』という具合に、財政破綻の瀬戸際となればどこの国でもやりますし、そのやり方は様々です。」
 
というわけで日本でも、ずるずると借金財政を続けていれば、必ずこういうことが起こる。
 
ところがこれを、まずメディアが理解していない。

「メディアがしっかりと報道してくれない以上、国民の側からは、どうしようもないのかもしれません。そうした国民の無理解をよいことに、今の日銀は、これまでの政策運営に端を発する先行きの問題点に関する説明から逃げ続けているようにも私にはみえます。本来これは、当局として国民に対して誠実に説明すべき事柄のはずです。」
 
これはいつか来た道であり、あのときとまったく同じことだ。1941年12月に太平洋戦争を始め、42年の6月まで戦局は有利だったが、以後、45年8月まで、ずっと負け続けた。

メディアはこれを、軍と一緒になって隠し続けた。そして原爆をはじめとする、悲惨極まりない敗戦。
 
自民党は、このときの教訓を、骨身に染みては分かっていない。だからこれは、かたちを変えて、必ずもう一回ある。

「このままでは、近い将来に間違いなく起こるであろう〝変化〟に備えようとしていないわが国では、危機は起こるべくして起こるのです。」

もう一回と言わず、あと二、三回はある。ほんとうは二、三回ですめばいい方だ。
 
しかしここでは、それとは別の、ある疑問を述べておきたい。

およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(4)

伊藤比呂美のエッセイで、かぎりなく共感するのは、たとえば以下の場面だ。

「父が死に、夫が死んで、もうだれもあたしを怒鳴らない。
 平穏である。
 もう二度といやだ。怒鳴られるのは。」
 
私の父を含む、ある年代の男たちは突然、怒鳴り声をあげた。あれは絶対、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だよなあ。

立場上、家長がこういうふうになると、ほかの家族はどうしようもない。ただ黙って、嵐の通りすぎるのを待つより、方法がない。
 
その間、心がどれほど壊れていくか。子どもは、長じて距離を置いたり、または絶縁できるが、妻は耐えるしかない。それは本当に、どちらかが死ぬしか、解決の道がない。
 
でもまあ、父の話はもういい。それよりも、やっぱ伊藤比呂美だ。

「あたしは社会的な発言が苦手である。苦手というより嫌い。人と対立するのがいやでいやで堪らない。三無主義だからだ。三無って何だったか、無気力、無関心、無農薬?」
 
あははは、無農薬? ところで三無主義ってなんだっけ。私は高次脳機能障害により、前世のことは、もうひとつよく分からない。
 
伊藤比呂美は介護について、特に男の介護については、こんなことを述べている。

「もう一度、介護したい。
 ……
 男が一人、老いて死んでいくのを看取るのは、ほんとうによかった。
 母の死は、同じ女として見届けた。悲しみなんかなかった。ただ、よく生きた、よく死んだと納得した。でも男たちの死に対しては、それ以上の何かを感じている。達成感というか、終了感というか、完成感というか。
 ……
 いねぇがっ、どごかに、介護できる年寄りいねぇがっ、と心の中で叫んでいる。」
 
こういうのは、ほんとうに感動する。女がみんなこうとは、もちろん限らないが。というか、ひょっとすると、女でも少数かもしれないが。

「一日生きてるといろんなことを考える。昔はそれをだらだらと夫に話した。話してるうちに夫の話しぶりにむかついてケンカになった。いやな気分だった。でも夫がいなくなったら、ネットのニュースで読んだことや散歩しながら考えたことがリアルなのかどうか、だれもあたしに証明してくれないのだ。」
 
仕事をしていても、くつろいでいても、どこにもリアルがない。願わくば、私が死んだ後も、妻にこういうふうになってほしい。

(『たそがれてゆく子さん』伊藤比呂美、中央公論新社、2018年8月25日初刷)

およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(3)

伊藤比呂美の夫は、最後は自宅でのホスピスケアに行きついた。これはもう治療もリハビリもせずに、痛みや不快感をできるだけ取り除くだけで、ただ死ぬまで生きる、というものだ。
 
これにはしかし、世話をするヘルパーの保険が適応されない。

「二十四時間、ヘルパーがいた方がいい、とみんなに言われた。彼は重いし、要求が多いし、一人では無理だ、と。ヘルパーは、一時間(日本円で)二千五百円。二十四時間で六万。ひと月で百八十万。いや、目ん玉が飛び出たままひっこまない。」
 
最後の、「目ん玉が飛び出たままひっこまない」、というところで爆笑。
 
結局、ヘルパーはつけずに、伊藤比呂美が頑張ることにする。夫は要求は多いし、便も臭い。でも、死にたいと言われるよりは、家に帰ってきて、やっぱり生きたいと言われる方が、ずっとましだ、ずっと楽だ。
 
まあ、普通はこうなる。そして、夫は死んだ。
 
そもそも最初の恋愛期間が過ぎると、二人はしばしば意見が対立して、ケンカをするようになった。

「ほんとに、死んじまえと、何度思ったかわからない。意見が対立すると、相手を打ち負かすまで議論せずにはいられない男だった。妻だろうが、子どもだろうが、同僚だろうが、言葉で崖っぷちまで追いつめていくのだ。」
 
それでも居なくなると、かぎりなく寂しい。

「台所に立ってるのはあたし一人だ。/窓辺に立って外を見ても、外を眺めているのはあたし一人だ。」
 
再び私は、父のことでは、こういうふうにはならない。たぶん家族の誰も、こういうふうにはならないだろう。そして、何よりも本人が、変な言い方だが、死んでほっとしているんじゃないか。
 
もちろん、本人の生きる気力は、並大抵のものではなかった。詳しいことは聞いてないが、病院で、最後の瞬間は、身悶えしていたのではないか。
 
もちろん医者は、いまわの際に、そんなことになったとは言わないが。
 
父は、この二年間は、母の認知症を責め抜いた。母は、急速に認知症が重くなり、最後は父に何か言われても、まったく返事をしなかった。もう目も合わさなかった。
 
それが遺体を焼いたのちは、認知症は回復した。こういうのは、認知症のふりをしていたとは言わないのかね。
 
父は、私が出版の仕事をしているのは知っていた。しかし、まったく興味を示さなかった。
 
弟は大学を出て以来、ずっと介護の仕事をしてきた。しかし父は、それにも興味を示さなかった。そして弟と父は、些細なことから絶縁した。
 
母は自宅に生徒を呼んで、初め編み物を教え、それがやや下火になると、目先を変えてアートフラワーを教えた。

しかし父が停年で、家に居るようになってからは、生徒を招きにくくなり、こんどは自分が出歩いた。最後は、神戸大学の市民セミナーで、心理学の講師をやっていた。

父は、母がやるどんなことにも、まったく無関心だった。自分が大事で、家族にはずっと振り向いてほしかったけれど、どうすることもできなかった。

父はいつも憤怒の塊で、それは陸士出の、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。

父は、骨は拾うなと言ったので、焼き場に捨ててきた。当然、墓も作らない。世の中に居場所のなかった人間に、ふさわしい最後だ。

父の遺体を焼いた直後から、蘇って明るくなった母は、家族みんなで力を合わせて頑張ろう、と晴れやかに、高らかに言ったそうだ。

およそ30年ぶりの伊藤比呂美――『たそがれてゆく子さん』(2)

伊藤比呂美の夫は、いよいよ危ない。しかし、まだ生きている。

「ERで念入りに検査され、治療されて、少しだけ蘇った。百年前なら、ああいう状態の年寄りはそのまま動かなくなり、しゃべらなくなり、食べなくなり、萎んで死んでいったはず。それをこうやって蘇らせる。ゴールに着いたと思うと、ゴールが移動していて向こうにある。こんな現状は自然に反していると思わないでもない。」
 
今は延命治療をするから、どうしてもこうなる。

でも、そうならない場合もある。
 
この本を読みはじめてすぐ、私の父が亡くなった。まるでこの本の、伊藤比呂美の夫と並行関係にあるようだった。
 
私は半身不随で、関西へ行くことはできない。二人兄弟で、弟は関西にいるが、父とは絶縁状態である。母は施設にいるから、父は一人である。そこで私の妻が、たった一人、活躍することになる。本人は嫌がっているが、ほかに人がいないのだから仕方がない。
 
いつかも書いたが、この父は陸軍士官学校出で、ついに戦後の世の中に馴染めなかった。世間的には、良い地位について裕福だったが、そういうことと内面は、まったく関係がない。
 
父はたとえば、人間はみな平等に権利を持っている、というのが、ついに解らなかった。私に向かって、どうも解せない、皆が人権を持っているというのは、どういうことなのか、と最後まで腑に落ちなかったようだ。
 
病院で、酸素マスクを外し、強硬に家に帰ると言い募り、病院の医師も困り果てていた。帰れば、治療はできないのだから。そうして病院にいて、一週間ほどで亡くなった。
 
私は、とにかく延命措置は絶対にしないようにと、妻を通じて言った。医師は、それでは「引き気味に」治療をしましょう、と言ったそうだ。
 
遺体を焼くときに、母に最期の別れをするように言ったが、ちらっと見て、いかにもめんどくさそうに、というか、もうこれ以上は関わりたくない、もういい、というふうにしていたそうだ。
 
父の遺体を焼いた直後、認知症が進んでいると見えた母は、言葉も劇的に復活し、表情は戻り、にこにこしていたそうだ。
 
伊藤比呂美の夫は、いよいよだめなようだ。

「前から歩けなかったが、もはや立つこともできない、体の向きも変えられない。うんこも寝たまま。おしっこは導尿に頼り、呼吸は酸素の管に頼っている。」
 
普通はこうなる。医師が、「引き気味に」治療をしなければ。

「ああ、どうして最初にERに連れていったか。そもそもどうしてこんな老人をこうまでして生かす必要があるか。でも本人はまだ生きたがっている。と何回も何十回も考えているところにぐるぐる回っていく。」
 
これが普通だ。でも私の父は、普通ではなく、例外を選ばされた。選んだのは私であり、それを医師に伝えたのは妻だ。