漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(12)

明治の末、四十五年の正月は、門弟・知人いろんな人が、漱石邸に来た。森田草平、鈴木三重吉、寺田寅彦、松根東洋城、野上豊一郎、……。こうした中で、森田草平が酔っ払って気炎を上げ、鈴木三重吉と寝入ってしまう。
 
長谷川さんは、そこをこう書く。

「こうした、作家を囲んだどんちゃん騒ぎは、昭和時代までの文藝編集者なら、誰れもがいつか、どこかで経験したことがあるものだろう。私にも懐しい場面がいくつも思い出される。漱石はたえず人懐しい、そんな気持ちでいるのである。」
 
また別の機会に、漱石が芸者に、絵を二、三枚描いてやり、それに俳句の賛を付けてやったことを、長谷川さんは漱石の遊び心と捉えて、「……私には微笑ましいことと思われる。遊びごころとは思いやりであり、融和の精神に大事な栄養素なのである。これがなくては編集者とはいえない。」
 
弟子が、正月から酔っぱらって寝てしまうことといい、あるいは芸者に、絵を描いて賛を付けることといい、そこには漱石を通した、長谷川さんの編集者観が色濃く出ている。そういうことを、今の編集者たちは実感としてわかるだろうか。
 
しかし一方、こういうところはどうか。

「以後、『行人』『心』『道草』『明暗』が新たな決意のもとに書き継がれる。漱石の文学がマンネリズムの弊から免れることができたのは、編集者としての自覚がそれを許さなかったからだろう。」

「編集者としての自覚がそれを許さなかったから」、とはいかにも格好はいいが、僕はこういう結論のつけ方には疑問が残る。
 
漱石の一連の作が、マンネリに陥らないのは、ようく考えてみる必要がある。どの小説も、三角関係やその類いを描くと見せて、それは枠組みに過ぎず、テーマは毎回、違っていたのではないだろうか。
 
それを、「編集者としての自覚」云々で収めては、表面を撫でただけで終わっている、というか見当を少しはずしている、と思われるがどうか。しかし、これはまた別の漱石論が必要になる。
 
漱石はまた、中勘助の「銀の匙」を、「東京朝日新聞」に連載させている。なぜ漱石のもとに、こういう原稿が集まるのだろうか。あるいは中勘助のような人が、なぜ漱石に惹かれ、そして結局は推挽を受けるのか。

「銀の匙」は、僕には懐かしい。私事に関わるが、小学校六年生のとき、Yさんという女の子に、「あなたは『銀の匙』を読んだことがないの? これを読まない人は、情操教育に問題があると言われているの。」
 
僕はびっくりした。そんなふうに、日本の子ども全員に必読の書があるならば、これは是非とも、(強迫観念として)読まねばなるまい。
 
そう思って、図書室から借りてきて読んだ。実に面白かった。
 
そういうわけで、「銀の匙」というと、Yさんのセリフと、実に面白かったという記憶が、鮮明に立ち上ってくる。
 
それにしても、「銀の匙」を読まねば情操教育に問題がある、というのは誰の言葉だろうか。そして、Yさんに力強くそれを言わせたのは、なんだったんだろうか。
posted by 中嶋 廣 at 14:54Comment(0)日記