漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(11)

明治四十二年五月、春陽堂から「三四郎」が出る。菊判、角背で布製の上製本、装幀は橋口五葉である。
 
背と表紙は多色刷り。草花のデザイン図案に、小さなフクロウが飛ぶ。書名を印刷した外題貼りの函入りである。
 
五葉は、タイトルの書体に、漱石が強いこだわりを持つのを知っていたので、篆書ふうの文字を図案化し、工夫を凝らした。
 
ところが漱石には、これが不満だった。

「表紙の色模様の色及び両者の配合の具合よろしく候
 然し文字は背も表紙もともに不出来かと存候」
 
編集者・漱石の面目躍如、こうまではっきりと著者に言われることは、ちょっとない。というか、僕だけではなく周りでも聞かない。あるいは、装幀家・橋口五葉を育てるためには、ここまで斬り込まなければいけなかったのか。
 
この年、十一月二十五日に、東京朝日新聞に「文藝欄」が設置される。

「以後、この欄の評論、小説、読み物の選定はすべて漱石に一任された。」

「朝日新聞社史」はそう言って、簡単に一行で片づけるけれども、これは簡単なことではない。
 
漱石はすぐに、永井荷風や森鷗外に小説執筆を依頼する。もちろん門下生は総動員である。

「鷗外といい、荷風といい、それぞれは漱石とは文学的立場を異とする個性である。そこから容易に推察されるように、『文藝欄』を担当する漱石の動機は、文壇的党派性に起因するものではなかった。もとめるものは、ただオリジナリティーであり、文章の力だった。」
 
朝日新聞文藝欄の最終責任者と、評判作を書き続ける専属小説家、この両輪を回し続けるためには、どれほどの努力が要ったことだろう。

漱石が世に出て十年、あっという間に終焉が来たが、この両輪を回し続ける期間としては、充分な長さといえるのではないか。とにかく僕なんかには、まったく想像もつかない。

なおちょっと横道にそれるが、漱石の「三四郎」も「それから」も、朝日新聞の校正係になっていた石川啄木が担当した。

啄木は日記に、こう記している。

「近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。」
 
漱石は、明治四十五年四月十五日の、浅草・等光寺での啄木の葬儀に参列している。
posted by 中嶋 廣 at 18:40Comment(0)日記