漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(15)

芥川龍之介が、初めて漱石山房を訪問したのは、大正四年十一月十八日のことだった。芥川は最初から、他の門弟たちとは違っていた。

「面白いのは、出会った当初から芥川が漱石の放つ〝磁気〟に触れて過敏に感応したこと、そして理性の上での反撥と接近を繰り返しているのが観察されることである。
 ……
〝磁気〟がたんに漱石の存在、人格的魅力や包容力などをいうのではないことは明らかだろう。それは〝狂気〟というにちかい性質のものであったとも考えられる。」
 
芥川は、門弟の誰もが気づくことのできなかった、漱石の「……目に見えない、危険な電磁波」を捉えたのだ。
 
その芥川に対して、漱石は徹底して、酸いも甘いも嚙み分けた編集者のようにつきあう。
 
大正五年、漱石最後の年に、「新思潮」の創刊号が送られてくる。そこで漱石は芥川に、あの有名な激励の手紙を書く。

「文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あゝいふものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます」。
 
これは有名な手紙だけれども、『編集者・漱石』を読んできた身としては、また少し違った感興も湧いてくる。
 
そして、その次に記された文言こそは、編集者・漱石の真骨頂であろう。

「ずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身体の薬です」。
 
朝日新聞の読者に、責任を持つはずの漱石が、群衆は眼中に置かないほうがよい、というのである。これは驚くべき言葉だとは、いえないだろうか。
 
漱石は、他にも手紙で、ほとんど無防備に、芥川たちを励ましている。

「君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい」。
 
そして次のは、芥川の自殺と関連付けて、やるせない思いで、後で何度も、読者に読み返されたものだ。

「あせつては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈けです」。
 
芥川は死ぬ前に、この手紙を思い浮かべなかったろうか、と誰でもが考えることを考えてしまう。
 
それにしても、漱石のこれらの手紙は、尋常のこととは思えない。長谷川さんはそれを、こんなふうに鮮やかに指摘する。

「この指摘はたんに先輩作家による後進への指導の域を超えている。このとき漱石が編集者の眼で作品を読み込んでいたことに疑いはない……」。
 
漱石は死ぬ間際まで、編集者だったのである。
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漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(14)

その「心」は、岩波書店から自費出版される。創業者の岩波茂雄は、それまでは古本屋である。
 
漱石がなぜこれを、自費出版しなければならなかったのかは、わからない。
 
長谷川さんも、「なにが漱石を瞬時に突き動かしたのかは、無意識の声を聞くほかはない」と、少々お手上げである。
 
ただ漱石は、今回は自分で、装幀の一切をした。この本に自序が掲げられている。

「装幀の事は今迄専門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る気になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で書いた」。
 
それで表紙に、あの漱石全集などに見る、橙色の地に薄緑の「石鼓文」が用いられる。
 
それにしても、なぜ自費出版なのかがよくわからない。装幀の件は、ひょっとすると、岩波茂雄に任せておくと、贅を尽くそうとするので、とんでもなく高い本になると、心配したのかも知れない。
 
ただ漱石は、若い作家を起用するときに、決して才能を見まちがえなかったように、出版社を見る眼も、実に正確だった。まだ出版に乗り出す前なのに、漱石は岩波茂雄に、全幅の信頼を置いた。
 
夏目鏡子はそれを、次のように語る。

「或る時岩波さんが夏目のところへお見えになつて、何かとお話になつて居ります。と、夏目が私を書斎に呼びまして、いきなり株券を三千円ばかり持つて来て岩波へ貸してやれと、藪から棒にかういふのです。……
 かういふ例があつてからといふもの、時々大口の注文などにお金がいると、よく私どものところへいらして、事情を打ちあけて融通をつけていらつしゃいました」。
 
著者に金の都合をつけてもらう岩波茂雄も、なかなかのものだが、それを何度も都合してやる漱石も、それに輪をかけて凄いと思う。著者と出版社のこんな例は、他にもあるのだろうか。

「岩波書店の土台づくりに、漱石は文字通りの物心両面で多大な、とは決定的な貢献をしたのである。岩波茂雄が阿部次郎や安倍能成を頼りにしたのは無論のことだが、やがて寺田寅彦や中勘助、野上彌生子、和辻哲郎、やや遅れて小宮豊隆らの門弟またその周囲にいた思想家・文学者の著作が続々と岩波書店から発刊され、……」という具合である。
 
出版社を潰した例は、たとえば埴谷雄嵩、花田清輝を筆頭に枚挙に遑がないが、著者が金まで出して出版社を作った例は、あるのだろうか。しかも岩波書店という、日本を代表する出版社を。
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漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(13)

漱石はいってみれば太陽の位置にあって、それは死ぬまで揺るがない。

伊藤左千夫の「野菊の墓」を誉める、長塚節の「土」を自分には書けぬと激賞する、和辻哲郎のラヴ・レターとも見まごうような手紙に返事を書く、「白樺」の新進作家、武者小路実篤や志賀直哉を登用する、果ては岡本一平に漫画集の出版を勧める。

長谷川さんは、それをこんなふうに言う。

「漱石を中心とする精神気圏がこれまでも、師弟愛を超えた独特な知的、かつ友愛の空間であったことは繰り返すまでもない。……漱石という存在が、全身で――『頭』と『ハート』で――若人を惹きつける光源となっていたのだった。」
 
そして、締めの文句が来る。

「余計な一言をつけ加えるなら、『頭の論理』と同時に『ハートの論理』を起動させるのは、編集者気質(エディターシップ)の要諦ともいえる。惚れ込むことから、仕事は始まるのである。」
 
本当にそう言える。確かに。全面的にそれに賛成である。
 
しかし一方、前にも書いたが、漱石は作家として、人の間にかける橋はない、と「行人」で言っていなかったか。あの鬼気迫る文章は、心の底の叫びではなかったのか。僕には本当にわからない。

「心」における「先生」の自殺にしてからが、わからない。自死した友人は、一つのきっかけにすぎない。確かに「先生」は卑怯だったが、それは一つのジャンプ台であり、なぜ自殺したのかはわからない。漱石の心の闇は、はかり知れず深い。
 
その闇を持った漱石が、周りからは太陽のように思われている。
 
朝日新聞に、「心」の連載が終わると、新鋭作家の短篇競作が始まる。
 
これは漱石が書いた、来たるべき文学の見取り図である、と長谷川さんは言う。
 
そこに列挙された作家の名前は、武者小路実篤(「死」)、小川未明(「石炭の火」)、後藤末雄(「柳」)、野上彌生子(「或夜の話」)、長田幹彦(「老兵の話」)、青木健作(「梅雨の後」)、久保田万太郎(「路」)、田村俊子(「山茶花」)、里見弴(「母と子」)、谷崎潤一郎(「金色の死」)、そして最後に小宮豊隆(「礼吉の手紙」)。
 
編集者・漱石の面目躍如、新進気鋭の作家を並べて見事なものである。

漱石はそれに先立って、こんなことも書いている。

「予告に是等の人の姓名をずつと並べるか又はだまつてゐて不意に、明日から誰と断つて行くか夫は考えものでせう。」
 
長谷川さんは、ここをこう書く。

「編集者ならではの〝遊び〟感覚が躍動する。」

これが、あの「心」を脱稿した直後の出来事なのである。
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漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(12)

明治の末、四十五年の正月は、門弟・知人いろんな人が、漱石邸に来た。森田草平、鈴木三重吉、寺田寅彦、松根東洋城、野上豊一郎、……。こうした中で、森田草平が酔っ払って気炎を上げ、鈴木三重吉と寝入ってしまう。
 
長谷川さんは、そこをこう書く。

「こうした、作家を囲んだどんちゃん騒ぎは、昭和時代までの文藝編集者なら、誰れもがいつか、どこかで経験したことがあるものだろう。私にも懐しい場面がいくつも思い出される。漱石はたえず人懐しい、そんな気持ちでいるのである。」
 
また別の機会に、漱石が芸者に、絵を二、三枚描いてやり、それに俳句の賛を付けてやったことを、長谷川さんは漱石の遊び心と捉えて、「……私には微笑ましいことと思われる。遊びごころとは思いやりであり、融和の精神に大事な栄養素なのである。これがなくては編集者とはいえない。」
 
弟子が、正月から酔っぱらって寝てしまうことといい、あるいは芸者に、絵を描いて賛を付けることといい、そこには漱石を通した、長谷川さんの編集者観が色濃く出ている。そういうことを、今の編集者たちは実感としてわかるだろうか。
 
しかし一方、こういうところはどうか。

「以後、『行人』『心』『道草』『明暗』が新たな決意のもとに書き継がれる。漱石の文学がマンネリズムの弊から免れることができたのは、編集者としての自覚がそれを許さなかったからだろう。」

「編集者としての自覚がそれを許さなかったから」、とはいかにも格好はいいが、僕はこういう結論のつけ方には疑問が残る。
 
漱石の一連の作が、マンネリに陥らないのは、ようく考えてみる必要がある。どの小説も、三角関係やその類いを描くと見せて、それは枠組みに過ぎず、テーマは毎回、違っていたのではないだろうか。
 
それを、「編集者としての自覚」云々で収めては、表面を撫でただけで終わっている、というか見当を少しはずしている、と思われるがどうか。しかし、これはまた別の漱石論が必要になる。
 
漱石はまた、中勘助の「銀の匙」を、「東京朝日新聞」に連載させている。なぜ漱石のもとに、こういう原稿が集まるのだろうか。あるいは中勘助のような人が、なぜ漱石に惹かれ、そして結局は推挽を受けるのか。

「銀の匙」は、僕には懐かしい。私事に関わるが、小学校六年生のとき、Yさんという女の子に、「あなたは『銀の匙』を読んだことがないの? これを読まない人は、情操教育に問題があると言われているの。」
 
僕はびっくりした。そんなふうに、日本の子ども全員に必読の書があるならば、これは是非とも、(強迫観念として)読まねばなるまい。
 
そう思って、図書室から借りてきて読んだ。実に面白かった。
 
そういうわけで、「銀の匙」というと、Yさんのセリフと、実に面白かったという記憶が、鮮明に立ち上ってくる。
 
それにしても、「銀の匙」を読まねば情操教育に問題がある、というのは誰の言葉だろうか。そして、Yさんに力強くそれを言わせたのは、なんだったんだろうか。
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漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(11)

明治四十二年五月、春陽堂から「三四郎」が出る。菊判、角背で布製の上製本、装幀は橋口五葉である。
 
背と表紙は多色刷り。草花のデザイン図案に、小さなフクロウが飛ぶ。書名を印刷した外題貼りの函入りである。
 
五葉は、タイトルの書体に、漱石が強いこだわりを持つのを知っていたので、篆書ふうの文字を図案化し、工夫を凝らした。
 
ところが漱石には、これが不満だった。

「表紙の色模様の色及び両者の配合の具合よろしく候
 然し文字は背も表紙もともに不出来かと存候」
 
編集者・漱石の面目躍如、こうまではっきりと著者に言われることは、ちょっとない。というか、僕だけではなく周りでも聞かない。あるいは、装幀家・橋口五葉を育てるためには、ここまで斬り込まなければいけなかったのか。
 
この年、十一月二十五日に、東京朝日新聞に「文藝欄」が設置される。

「以後、この欄の評論、小説、読み物の選定はすべて漱石に一任された。」

「朝日新聞社史」はそう言って、簡単に一行で片づけるけれども、これは簡単なことではない。
 
漱石はすぐに、永井荷風や森鷗外に小説執筆を依頼する。もちろん門下生は総動員である。

「鷗外といい、荷風といい、それぞれは漱石とは文学的立場を異とする個性である。そこから容易に推察されるように、『文藝欄』を担当する漱石の動機は、文壇的党派性に起因するものではなかった。もとめるものは、ただオリジナリティーであり、文章の力だった。」
 
朝日新聞文藝欄の最終責任者と、評判作を書き続ける専属小説家、この両輪を回し続けるためには、どれほどの努力が要ったことだろう。

漱石が世に出て十年、あっという間に終焉が来たが、この両輪を回し続ける期間としては、充分な長さといえるのではないか。とにかく僕なんかには、まったく想像もつかない。

なおちょっと横道にそれるが、漱石の「三四郎」も「それから」も、朝日新聞の校正係になっていた石川啄木が担当した。

啄木は日記に、こう記している。

「近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。」
 
漱石は、明治四十五年四月十五日の、浅草・等光寺での啄木の葬儀に参列している。
posted by 中嶋 廣 at 18:40Comment(0)日記