漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(9)

この時代は、編集者がいて著者がいて、校正者、印刷所があって、というふうには、職種は確立してはいなかったのだろう。

『漱石という生き方』を書いた秋山豊さんは、岩波書店にいたころ、とにかく最初に、漱石の自筆原稿を探しまわったという。
 
普通は、原稿を新聞に連載して、次にその新聞を第二次原稿にして、単行本を作ればよいと考える。その方が、より洗練されたものができる、と考えられがちである。
 
ところが、漱石の時代には、原稿を朝日新聞大阪本社に送ると、そのゲラを取る余裕がない。あるいは漱石は、ゲラに興味を示さなかった。

しかも朝日に送った原稿は、返されてこない。するとどうなるか。漱石は、新聞を原稿として取っておくほかなくなる。ところがこの時代の新聞には、おびただしい誤植がある。

秋山さんは『漱石という生き方』の「あとがき」で、そういう例を一つだけ上げている。

『永日小品』の「泥棒」という、身辺雑記風のエッセイがある。これが新聞では、

「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
 
となっている。
 
漱石はこれでは舌足らずだと思い、新聞原稿を用いて単行本にする際に、一文を加えた。

「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。聞けばもよと云ふ下女の声である。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
 
秋山さんは、それでいいと思っていた。それまでの全集もそうなっている。
 
しかし偶然にも、ある古書展にその原稿が出品された。それを見た秋山さんは驚いた。原稿は次のようになっていた。

「すると忽然として、下女の泣声で目が覚めた。此下女は驚ろいて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
 
何のことはない、「女の泣声」は「下女の泣声」の誤植だったのだ。
 
こんなふうに漱石の原稿に帰らないと、最初に決定した原形はわからない。

「文学論」は朝日新聞に連載されたものではないから、ゲラを取ったはずだが、それを初校までしか取っていないんじゃないか、と思わざるを得ない。
 
再校、三校と、ゲラを取るようになったのは、いつ頃からだろうか。

あるいは、出版を引き受けた大倉書店は、どういう役割を負っていたのか。
 
漱石は、印刷所には憤然と怒りの声を上げているが、出版を引き受けた大倉書店には、怒りの矛先を向けていない。

これも考えてみると、ちょっと解せない話だ。出版を引き受けた書店に、いわゆる編集者はいなかった、と思わざるを得ない。あるいは編集者は、漱石が兼務したのか。
posted by 中嶋 廣 at 19:41Comment(0)日記