漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(5)

漱石は、明治三十三年八月二十六日、寺田寅彦とともに子規庵を訪れた。

これが英国留学直前の、子規との最後の別れになる。漱石も子規も(そして寺田寅彦も)、これが今生の別れであることを覚悟していた。

「この日、どんな言葉が交されようとも、無意識の触手が静かに絡み合っていたことだろう。『半死』の子規の『霊魂』が漱石の無意識にしっかり摑まれた様子が、私には想像されるのである。子規が黙ったまま頷いて、その表情が緩む一瞬までが確認される気がする。……子規の魂は漱石の意識の深層に宿る。」
 
もちろん実際に、何がどうであったかは、わからない。ただ「無意識の触手が静かに絡み合っていた」というのだ。それはもちろん、長谷川さんの想像の世界だ。

けれども、長谷川さんにこう書かれると、子規と漱石が、子規庵のそこに座っているのが見えるようだ。もうそれ以外にない、と思えてくる。

ロンドンでは、漱石は「人を通してではなしに、本を通して英国を、又英国の文学を知らうとして、本が買へることを英国まで来て得た唯一の便宜に考へてゐる」、という吉田健一の指摘があるが、これは僕には、妥当であるかどうかわからない。

ただ、長谷川さんの指摘で目を開かれたのは、漱石が滞在したロンドンでは、このときアール・ヌーヴォーという芸術運動の真っ盛りだったことだ。アール・ヌーヴォーは、植物をモティーフにした、曲線に特色のある装飾芸術である。

そしてなんと、日本では、『吾輩は猫である』が出版されるまでは、近代的な装幀という概念がなかった。文芸書には、背文字は印刷されていなかったのである。

「近代文学の開幕を告げたとされる坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』(ともに明治十八―九年)がいずれも和綴じの冊子であったところから類推して、文藝書の造本技術に関しては文明開化による技術革新の波及は遅く、慣習的に背表紙・背文字が意識されることがなかったのだ、と考えられる。」
 
そこへ漱石が、アール・ヌーヴォーの意匠を凝らした描き文字で、豪華な角背の本、いま僕らが見ているような本を出したのだ。
 
しかしその前に、漱石はまだロンドンにいて、日本では子規が亡くなる。俳句も短歌も散文も、改革しようとした子規は、三十五年の短い生涯を終える。本当に短い、と思わざるを得ない。

「漱石に言葉はない。子規は漱石のなかに眠った。……十一月三十日の夜、漱石はストーヴの傍で、あやすように子規を意識の深層に沈めたのだろう。」
 
このあたりはもう、長谷川さんの創作である。それにしても見事な文章創造である。
 
イギリスから帰国したとき、親戚や家族のほかに、漱石の弟子ではただ一人、寺田寅彦が迎えに来ていた。

『編集者 漱石』とは離れるが、物理学者・寺田寅彦は不思議な文章家である。たとえば岩波文庫の随筆集『柿の種』を読めば、その文章が、現代人が書いたものといって全く遜色ないことに驚かざるを得ない。
posted by 中嶋 廣 at 17:50Comment(0)日記