漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(1)

著者の長谷川郁夫さんとは、もう四十年近い付き合いになる。今度、『編集者 漱石』を送っていただいて、中を数頁読んだとき、思わず横っ面を張られる思いがした、頭がくらくらした。
 
そうか、漱石に向き合うのに、九十度ずらしてみれば、まったく違う漱石が見えてくるのか。
 
僕はトランスビューにいるころ、元岩波書店の秋山豊さんの『漱石という生き方』を出した。秋山さんはそのとき、岩波で一番新しい『漱石全集』を編集した方だった。
 
詳しく言うと、秋山さんは最も多くの自筆原稿に触れ、1993年から画期的な『漱石全集』を編纂した。
 
そのとき漱石は、「文豪」としてではなく、不安を抱えた一個の魂として、そこにあった。秋山さんは、「現在」を生きる漱石に徹底的につきあい、そこで漏らす心の中の呟きまでを、聞き取ろうとしたのだ。
 
だからたとえば、夫人の夏目鏡子の『漱石の思ひ出』は、徹底的に外側だけを描いているので、資料としては採用されなかった。
 
また漱石神社の神主と揶揄された小宮豊隆は、最初から漱石を祀り上げているので、これも資料としては却下された。
 
確かにこれで、新しい漱石像を描くことができたのだ。秋山さんの『漱石という生き方』は、書評にもずいぶん取り上げられ、柄谷行人、養老孟司、出久根達郎といった人たちからは、なんて新鮮な漱石像だと、文字通り絶賛を博した。
 
でも長谷川さんの『編集者 漱石』を読むと、それはまったくの一面的な漱石にすぎなかったと分かる。
 
ともかく読んでいこう。
 
長谷川さんは、冒頭の一行目にこう記す。

「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている。」
 
これは実は、誰でも言いそうなことなのだが、しかしこれを徹底して分かっているのは、長谷川さんしかいない。
 
長谷川さんは、およそ十年前に、自ら編集者学会を立ち上げ、その初代会長に就いた。その長谷川さんのマニュフエストに曰く。

「……作品は書かれたままの状態では作品ではない。編集という作用を得てはじめてテキストとなるのだ。……作品も、〈本〉も、編集者のヴィジョンのなかに誕生するのである。」
 
これが徹底して分かっているのは、長谷川さんだけだった。少なくとも僕は分かっていなかった。
posted by 中嶋 廣 at 17:26Comment(0)日記