三つの時を自在に描く――『グッバイ、レニングラード―ソ連邦崩壊から25年後の再訪―』(3)

この本の書評を、駒井稔氏は最後に、「理想」をもってくることで、締めくくっている。

「この本の本当の主役は『理想』である。そう、ロシア人が決して忘れないもの、それが理想であることを著者はよく知っている」。
 
これは実に見事な締め方だ。ひょっとすると著者だって、虚を突かれたかもしれない。
 
2016年の現在のロシア、10歳の時のソ連、1940年代のナチスに包囲されたレニングラード、著者の通奏低音となっている両親との葛藤、それらすべてを貫いているものが、隠れた「理想」なのだ。著者の軽快な文章は、そこをめがけているからこそ、芯があって、しかも溌剌としている。
 
でも僕は、ここでは断片的な両親の話を、次の本では、突っ込んで読んでみたい。
 
著者が大学を出て、出版界で働き出すと、「父」はそれに反比例するように、働かなくなったという。

「私は布団の端に膝をついて、『ねぇ、働かないの?』と声を掛けた。
 すると、父は身を起こして、意外にはっきりした口調でこういった。
『誰がやったかなんて関係ないだろ。家族なんだから。』
 ……
 これは家庭内社会主義とでも呼ぶべきものか。」
 
こういう会話を、ここから始めて本にするのは、なかなか難しいだろうが、でも読みたい。

「家族とは、気付かないうちにだんだんと重くなる石のようなものだ。膝に抱えているうちはわからないが、立ち上がろうとすると、もう立ち上がれないのである。
 私はその年のうちに家を出て、二度と帰らなかった。」
 
父母と私の葛藤、父と母を結びつけることになる学生運動、その痕は、私に色濃く残っている。次に書くのはそれだろう。そういう話が読みたい。
 
このロシア紀行は、2016年11月9日に始まり、15日に終わる。題名の『グッバイ、レニングラード』は、ドイツ映画の『グッバイ、レーニン!』を掛けている。元ネタの映画も、すごく面白い。
 
レニングラードという名前は、ソ連崩壊の後、市民投票により、ふたたびピヨートル大帝の都を意味する、サンクトペテルブルクに変わった。

(『グッバイ、レニングラード―ソ連邦崩壊から25年後の再訪―』
 小林文乃、文藝春秋、2018年3月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:38Comment(0)日記