漱石は「虞美人草」執筆の直前あたりに、小宮豊隆に当てて、「今のうち修養して批評家になり玉へ」と手紙を書いている。
長谷川さんによれば、「近代文学の出発から二十年。成熟期に向う文藝の新時代にもとめられるものは何か、を漱石は知悉していたのである。」
これは、漱石は思わず唸るほどすごいことだが、それを手紙の断片から見抜く長谷川さんも、じつに慧眼だ。
「活字文化の変革期を迎えて、なによりそこに必要とされるのが批評の機能といえる。それをより明確に、編集のはたらきと言い換えてもよい。漱石は自身がなにをなすべきかを知っていた。」
漱石がここまで見通していたことを、おそらくはっきりとは、誰も知らなかった。
これは今もそう言える。ここ数年、小説は不振だ。テレビ芸人が小説を書いて、それがベストセラーになったりするが、全体的な不振は覆うべくもない。それで一生懸命、書き手を探してはいるが、もうどん詰まりで、編集者は疲れ果てている。
これは、小説家と対になる批評家を、探してこないからだ。小林秀雄がおり、中村光夫、平野謙がいた時代を思えば、どういうことが起こっていたかは、分かろうというものだ。大江健三郎が、東大新聞に小説を書いたのを読んで、平野謙が褒めなければ、後のノーベル賞作家は生まれていない。
漱石がいれば、急場のこととして、自分が批評家になっただろう。漱石は、こういってよければ、かなり変幻自在だ。
漱石は、弟子の森田草平が平塚明子(雷鳥)と、心中行未遂で彷徨ったのを見て、これを小説に書かせ、朝日に連載させる。これも考えれば、むちゃくちゃな話で、漱石だからこそできた話だ。
「そこに編集者としての勘がはたらいたことも否定できない。これまでの小説とはまったく異なる、新しい愛のかたちが表現されることが期待できるかもしれないのである。」
もちろん、そんなことはなかった。しかし、そこに賭ける漱石の勘は、明らかに小説家ではなく、編集者のそれである。
漱石は、「叩きつけるように草平へ具体的な忠告を記した手紙を送る。」それは実に細々とした注意だが、煎じ詰めれば、「読者の存在を鋭く意識せよ」ということに尽きている。これは、朝日新聞文芸欄の責任者としての、編集者・漱石の指示なのである。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(9)
この時代は、編集者がいて著者がいて、校正者、印刷所があって、というふうには、職種は確立してはいなかったのだろう。
『漱石という生き方』を書いた秋山豊さんは、岩波書店にいたころ、とにかく最初に、漱石の自筆原稿を探しまわったという。
普通は、原稿を新聞に連載して、次にその新聞を第二次原稿にして、単行本を作ればよいと考える。その方が、より洗練されたものができる、と考えられがちである。
ところが、漱石の時代には、原稿を朝日新聞大阪本社に送ると、そのゲラを取る余裕がない。あるいは漱石は、ゲラに興味を示さなかった。
しかも朝日に送った原稿は、返されてこない。するとどうなるか。漱石は、新聞を原稿として取っておくほかなくなる。ところがこの時代の新聞には、おびただしい誤植がある。
秋山さんは『漱石という生き方』の「あとがき」で、そういう例を一つだけ上げている。
『永日小品』の「泥棒」という、身辺雑記風のエッセイがある。これが新聞では、
「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
となっている。
漱石はこれでは舌足らずだと思い、新聞原稿を用いて単行本にする際に、一文を加えた。
「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。聞けばもよと云ふ下女の声である。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
秋山さんは、それでいいと思っていた。それまでの全集もそうなっている。
しかし偶然にも、ある古書展にその原稿が出品された。それを見た秋山さんは驚いた。原稿は次のようになっていた。
「すると忽然として、下女の泣声で目が覚めた。此下女は驚ろいて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
何のことはない、「女の泣声」は「下女の泣声」の誤植だったのだ。
こんなふうに漱石の原稿に帰らないと、最初に決定した原形はわからない。
「文学論」は朝日新聞に連載されたものではないから、ゲラを取ったはずだが、それを初校までしか取っていないんじゃないか、と思わざるを得ない。
再校、三校と、ゲラを取るようになったのは、いつ頃からだろうか。
あるいは、出版を引き受けた大倉書店は、どういう役割を負っていたのか。
漱石は、印刷所には憤然と怒りの声を上げているが、出版を引き受けた大倉書店には、怒りの矛先を向けていない。
これも考えてみると、ちょっと解せない話だ。出版を引き受けた書店に、いわゆる編集者はいなかった、と思わざるを得ない。あるいは編集者は、漱石が兼務したのか。
『漱石という生き方』を書いた秋山豊さんは、岩波書店にいたころ、とにかく最初に、漱石の自筆原稿を探しまわったという。
普通は、原稿を新聞に連載して、次にその新聞を第二次原稿にして、単行本を作ればよいと考える。その方が、より洗練されたものができる、と考えられがちである。
ところが、漱石の時代には、原稿を朝日新聞大阪本社に送ると、そのゲラを取る余裕がない。あるいは漱石は、ゲラに興味を示さなかった。
しかも朝日に送った原稿は、返されてこない。するとどうなるか。漱石は、新聞を原稿として取っておくほかなくなる。ところがこの時代の新聞には、おびただしい誤植がある。
秋山さんは『漱石という生き方』の「あとがき」で、そういう例を一つだけ上げている。
『永日小品』の「泥棒」という、身辺雑記風のエッセイがある。これが新聞では、
「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
となっている。
漱石はこれでは舌足らずだと思い、新聞原稿を用いて単行本にする際に、一文を加えた。
「すると忽然として、女の泣声で目が覚めた。聞けばもよと云ふ下女の声である。此の下女は驚いて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
秋山さんは、それでいいと思っていた。それまでの全集もそうなっている。
しかし偶然にも、ある古書展にその原稿が出品された。それを見た秋山さんは驚いた。原稿は次のようになっていた。
「すると忽然として、下女の泣声で目が覚めた。此下女は驚ろいて狼狽(うろたへ)ると何時でも泣声を出す。」
何のことはない、「女の泣声」は「下女の泣声」の誤植だったのだ。
こんなふうに漱石の原稿に帰らないと、最初に決定した原形はわからない。
「文学論」は朝日新聞に連載されたものではないから、ゲラを取ったはずだが、それを初校までしか取っていないんじゃないか、と思わざるを得ない。
再校、三校と、ゲラを取るようになったのは、いつ頃からだろうか。
あるいは、出版を引き受けた大倉書店は、どういう役割を負っていたのか。
漱石は、印刷所には憤然と怒りの声を上げているが、出版を引き受けた大倉書店には、怒りの矛先を向けていない。
これも考えてみると、ちょっと解せない話だ。出版を引き受けた書店に、いわゆる編集者はいなかった、と思わざるを得ない。あるいは編集者は、漱石が兼務したのか。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(8)
漱石をテーマにするとき、いつもあげられるのに文体の問題がある。一般に作家は文章修業をして、自己の文体を切磋琢磨し、一心に完成させることを目標にしている。
しかし漱石は、そうではなかった。
「発表舞台ごとに文体を変えたのを、漱石のゆとり、遊び、また読者へのサービス精神のあらわれ、などともいえるだろうが、それらはいずれ編集感覚の一語に帰結するもの、と私には考えられる。」
ここは、どういうふうに言えばいいだろうか。「吾輩は猫である」のときは、ああいう文体、「坊っちやん」のときはこういう文体、また「それから」のときは……、と上げても、どうしようもない。
漱石が朝日新聞に入るまでは、そもそも作家という意識は、それほどはっきりしていなかったと思われる。だから「猫」や「坊っちやん」は、ただ身体の中から自然に、溢れるままに書くことができた。
それを、漱石は初めのほうがいいとか悪いとか、いろんなことを言われるが、どんなものだろう。書いてしまったものは、書いてしまったもので、もうどうにもならないんじゃないか。
先に書いたものがどうの、後がどうのという限りは、それは結局、漱石の読者ではないと思われるけれど、どんなものだろう。
ところで朝日にはいってすぐに、大倉書店から「文学論」が出来上がる。これも立派な本で、菊判、天金、七百頁近い大冊である。
長谷川さんは、これについてもいくつか考察を述べているが、ここでは「誤植」について考えてみたい。
「文学論」の初版は誤植が非常に多く、再版では弟子による正誤表が八頁も付けられた。漱石は、この誤植の多さがたまらなかったらしい。菅虎雄宛てに、こんな手紙を書いている。
「文学論が出来たから約束により一部送る。校正者の不埒な為め誤字誤植雲の如く雨の如く癇癪が起つて仕様がない。出来れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい」。
いやもう憤激に満ちている。
また知人に、こうも書いている。
「古今独歩の誤植多き書物として珍本として後世に残る事受合なれば御秘蔵被下度候」
ここまでくると、漱石には悪いが、吹き出したくなる。
さらに漱石は、鈴木三重吉に、朝日新聞の読者のふりをして投書し、「文学論」には誤植が多いことをあげつらってほしいと、頼んでいる。
ここまでくると、まるで誤植が、印刷所(秀英社)の陰謀のようだが、実際はどういうふうになっていたのだろうか。
しかし漱石は、そうではなかった。
「発表舞台ごとに文体を変えたのを、漱石のゆとり、遊び、また読者へのサービス精神のあらわれ、などともいえるだろうが、それらはいずれ編集感覚の一語に帰結するもの、と私には考えられる。」
ここは、どういうふうに言えばいいだろうか。「吾輩は猫である」のときは、ああいう文体、「坊っちやん」のときはこういう文体、また「それから」のときは……、と上げても、どうしようもない。
漱石が朝日新聞に入るまでは、そもそも作家という意識は、それほどはっきりしていなかったと思われる。だから「猫」や「坊っちやん」は、ただ身体の中から自然に、溢れるままに書くことができた。
それを、漱石は初めのほうがいいとか悪いとか、いろんなことを言われるが、どんなものだろう。書いてしまったものは、書いてしまったもので、もうどうにもならないんじゃないか。
先に書いたものがどうの、後がどうのという限りは、それは結局、漱石の読者ではないと思われるけれど、どんなものだろう。
ところで朝日にはいってすぐに、大倉書店から「文学論」が出来上がる。これも立派な本で、菊判、天金、七百頁近い大冊である。
長谷川さんは、これについてもいくつか考察を述べているが、ここでは「誤植」について考えてみたい。
「文学論」の初版は誤植が非常に多く、再版では弟子による正誤表が八頁も付けられた。漱石は、この誤植の多さがたまらなかったらしい。菅虎雄宛てに、こんな手紙を書いている。
「文学論が出来たから約束により一部送る。校正者の不埒な為め誤字誤植雲の如く雨の如く癇癪が起つて仕様がない。出来れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい」。
いやもう憤激に満ちている。
また知人に、こうも書いている。
「古今独歩の誤植多き書物として珍本として後世に残る事受合なれば御秘蔵被下度候」
ここまでくると、漱石には悪いが、吹き出したくなる。
さらに漱石は、鈴木三重吉に、朝日新聞の読者のふりをして投書し、「文学論」には誤植が多いことをあげつらってほしいと、頼んでいる。
ここまでくると、まるで誤植が、印刷所(秀英社)の陰謀のようだが、実際はどういうふうになっていたのだろうか。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(7)
先にも書いたが、編集者はまず、褒め上手である。漱石は、挿絵画家としては全く無名の橋口五葉を、実に巧みに褒めている。
「ホトヽギスの挿画はうまいものに候御蔭で猫も面目を施こし候。……
僕の文もうまいが橋口君の画の方がうまい様だ。」
こうまで書かれれば、何をおいてもまず漱石の仕事、というふうになる。
また弟子への手紙に、こんな一節がある。
「僕は厳酷な様で却つて大概の作に同情する弱点がある。是は自分がよく出来んと云ふ事に心が引かれるからである」
ここは、長谷川さんは引用だけしておいて、とくに言及はない。これを、漱石の本音と取るかどうか。
たしかに編集者は、あれも良しこれも良しでいかなければ、やっていけない商売であるが、そうしてまた本気で、あれも良しこれも良しと思っているのだが、しかし例えば、「行人」を執筆しているとき、人の間にかける橋はないということを、漱石は本当にギリギリのところで、書いていたのではないのか。
しかし一方で、「大概の作に同情する弱点」がなければ、漱石山房といわれるほど、あんなに多くの門人が、出入りすることはなかっただろう。
ざっと数え上げても、小宮豊隆、寺田寅彦、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、鈴木三重吉、伊藤左千夫、長塚節、志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介、菊池寛……。
長谷川さんは、独特の視線で、漱石を見つめている。
「漱石という人物の性情は、教師になったら教師にとどまることに耐えられない。小説家として認められるようになっても、小説家であることにとどまらない。アイデンティティーは、いつも一歩先にある。」
長谷川さんはこれを、子規から受け継いだ精神の有り様ではないかと言っている。こういうところが、創作とも見まごうばかりの、鋭い冴えである。
ところで漱石は、英文科の卒業生に宛てた手紙で、こんなことも記している。
「……文学といふものは国務大臣のやつてゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げル頭を文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」
これは、力強い宣言ではあるが、「漱石の知られざる一面が顕わになったかのようにも感じられる」、と長谷川さんは書く。
たしかに「明治の人物」であれば、如何にもという気がする。漱石にしてこれか、とも思うが、しかし大学を辞めて「新聞屋」になるには、このくらいのことがなければ、清水の舞台からは飛び降りられなかっただろう、とも思うのだ。
「ホトヽギスの挿画はうまいものに候御蔭で猫も面目を施こし候。……
僕の文もうまいが橋口君の画の方がうまい様だ。」
こうまで書かれれば、何をおいてもまず漱石の仕事、というふうになる。
また弟子への手紙に、こんな一節がある。
「僕は厳酷な様で却つて大概の作に同情する弱点がある。是は自分がよく出来んと云ふ事に心が引かれるからである」
ここは、長谷川さんは引用だけしておいて、とくに言及はない。これを、漱石の本音と取るかどうか。
たしかに編集者は、あれも良しこれも良しでいかなければ、やっていけない商売であるが、そうしてまた本気で、あれも良しこれも良しと思っているのだが、しかし例えば、「行人」を執筆しているとき、人の間にかける橋はないということを、漱石は本当にギリギリのところで、書いていたのではないのか。
しかし一方で、「大概の作に同情する弱点」がなければ、漱石山房といわれるほど、あんなに多くの門人が、出入りすることはなかっただろう。
ざっと数え上げても、小宮豊隆、寺田寅彦、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、鈴木三重吉、伊藤左千夫、長塚節、志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介、菊池寛……。
長谷川さんは、独特の視線で、漱石を見つめている。
「漱石という人物の性情は、教師になったら教師にとどまることに耐えられない。小説家として認められるようになっても、小説家であることにとどまらない。アイデンティティーは、いつも一歩先にある。」
長谷川さんはこれを、子規から受け継いだ精神の有り様ではないかと言っている。こういうところが、創作とも見まごうばかりの、鋭い冴えである。
ところで漱石は、英文科の卒業生に宛てた手紙で、こんなことも記している。
「……文学といふものは国務大臣のやつてゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げル頭を文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」
これは、力強い宣言ではあるが、「漱石の知られざる一面が顕わになったかのようにも感じられる」、と長谷川さんは書く。
たしかに「明治の人物」であれば、如何にもという気がする。漱石にしてこれか、とも思うが、しかし大学を辞めて「新聞屋」になるには、このくらいのことがなければ、清水の舞台からは飛び降りられなかっただろう、とも思うのだ。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(6)
明治三十七年、高浜虚子の依頼で、『吾輩は猫である』が書かれる。このへんも、長谷川さんは実にうまく描写している。
「猫の気儘な動きが描く柔軟な抛物線が、『吾輩は猫である』の俳味溢れる着想をもたらした……」。
「猫の気儘な動きが描く柔軟な抛物線」と「俳味溢れる着想」という、意想外の組み合わせが、ここでは抜群の効果を上げている。
このときの高浜虚子と漱石の会見は、一国の文学史を書き換えるような、と思わず書いてしまいそうになる場面である。
「この場合は、虚子が編集者の役割を見事にこなして、漱石は発見されたのである。漱石の精神状態を読んでタイミングを図った、虚子の勘を褒めるべきだろう。『今迄山会で見た多くの文章とは全く趣きを異にしたものであつたので少し見当がつき兼ねた』とあったところに、編集者としての喜びと同時に、不安と緊張が表現されている。」
さすがは元編集者、それも名うての編集者であれば、虚子の不安と緊張は、手に取るようにわかろうというものだ。
しかし一方、長谷川さんは今では著者、それも超一流の著者でもあるのだ。すると、どういうふうになるか。
「漱石の方でも、身は緊張につつまれて、眼差しだけが自作の原稿を捲る虚子の指先を注視していたことと想像される。」
ここは漱石が、どんな思いで原稿を渡していたかが、もっともよく分かろうというものだ。長谷川さんが言ってみれば、漱石に乗り慿る。「眼差しだけが自作の原稿を捲る虚子の指先を中止していた」、その漱石の視線が、長谷川さんの視線に、ぴたりと重なり合う。
漱石はまた、このころ「倫敦塔」を書いている。友人に送った葉書に、褒めて下さいと書いたり、その数日あとの手紙では、読み返してみると全然面白くない、前言は取り消す、と書いたりしている。
長谷川さんは、ここに着目する。
「表現者に特有の主観と客観、昂揚と落ち込みがめまぐるしく入れ替る心理の動きが観察できるようで、面白い。そこに意識の充実があったと見るべきだろう。」
長谷川さんは著者だから、漱石の心理が、手に取るように分かる。しかし問題は、編集者としての漱石である。
「猫の気儘な動きが描く柔軟な抛物線が、『吾輩は猫である』の俳味溢れる着想をもたらした……」。
「猫の気儘な動きが描く柔軟な抛物線」と「俳味溢れる着想」という、意想外の組み合わせが、ここでは抜群の効果を上げている。
このときの高浜虚子と漱石の会見は、一国の文学史を書き換えるような、と思わず書いてしまいそうになる場面である。
「この場合は、虚子が編集者の役割を見事にこなして、漱石は発見されたのである。漱石の精神状態を読んでタイミングを図った、虚子の勘を褒めるべきだろう。『今迄山会で見た多くの文章とは全く趣きを異にしたものであつたので少し見当がつき兼ねた』とあったところに、編集者としての喜びと同時に、不安と緊張が表現されている。」
さすがは元編集者、それも名うての編集者であれば、虚子の不安と緊張は、手に取るようにわかろうというものだ。
しかし一方、長谷川さんは今では著者、それも超一流の著者でもあるのだ。すると、どういうふうになるか。
「漱石の方でも、身は緊張につつまれて、眼差しだけが自作の原稿を捲る虚子の指先を注視していたことと想像される。」
ここは漱石が、どんな思いで原稿を渡していたかが、もっともよく分かろうというものだ。長谷川さんが言ってみれば、漱石に乗り慿る。「眼差しだけが自作の原稿を捲る虚子の指先を中止していた」、その漱石の視線が、長谷川さんの視線に、ぴたりと重なり合う。
漱石はまた、このころ「倫敦塔」を書いている。友人に送った葉書に、褒めて下さいと書いたり、その数日あとの手紙では、読み返してみると全然面白くない、前言は取り消す、と書いたりしている。
長谷川さんは、ここに着目する。
「表現者に特有の主観と客観、昂揚と落ち込みがめまぐるしく入れ替る心理の動きが観察できるようで、面白い。そこに意識の充実があったと見るべきだろう。」
長谷川さんは著者だから、漱石の心理が、手に取るように分かる。しかし問題は、編集者としての漱石である。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(5)
漱石は、明治三十三年八月二十六日、寺田寅彦とともに子規庵を訪れた。
これが英国留学直前の、子規との最後の別れになる。漱石も子規も(そして寺田寅彦も)、これが今生の別れであることを覚悟していた。
「この日、どんな言葉が交されようとも、無意識の触手が静かに絡み合っていたことだろう。『半死』の子規の『霊魂』が漱石の無意識にしっかり摑まれた様子が、私には想像されるのである。子規が黙ったまま頷いて、その表情が緩む一瞬までが確認される気がする。……子規の魂は漱石の意識の深層に宿る。」
もちろん実際に、何がどうであったかは、わからない。ただ「無意識の触手が静かに絡み合っていた」というのだ。それはもちろん、長谷川さんの想像の世界だ。
けれども、長谷川さんにこう書かれると、子規と漱石が、子規庵のそこに座っているのが見えるようだ。もうそれ以外にない、と思えてくる。
ロンドンでは、漱石は「人を通してではなしに、本を通して英国を、又英国の文学を知らうとして、本が買へることを英国まで来て得た唯一の便宜に考へてゐる」、という吉田健一の指摘があるが、これは僕には、妥当であるかどうかわからない。
ただ、長谷川さんの指摘で目を開かれたのは、漱石が滞在したロンドンでは、このときアール・ヌーヴォーという芸術運動の真っ盛りだったことだ。アール・ヌーヴォーは、植物をモティーフにした、曲線に特色のある装飾芸術である。
そしてなんと、日本では、『吾輩は猫である』が出版されるまでは、近代的な装幀という概念がなかった。文芸書には、背文字は印刷されていなかったのである。
「近代文学の開幕を告げたとされる坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』(ともに明治十八―九年)がいずれも和綴じの冊子であったところから類推して、文藝書の造本技術に関しては文明開化による技術革新の波及は遅く、慣習的に背表紙・背文字が意識されることがなかったのだ、と考えられる。」
そこへ漱石が、アール・ヌーヴォーの意匠を凝らした描き文字で、豪華な角背の本、いま僕らが見ているような本を出したのだ。
しかしその前に、漱石はまだロンドンにいて、日本では子規が亡くなる。俳句も短歌も散文も、改革しようとした子規は、三十五年の短い生涯を終える。本当に短い、と思わざるを得ない。
「漱石に言葉はない。子規は漱石のなかに眠った。……十一月三十日の夜、漱石はストーヴの傍で、あやすように子規を意識の深層に沈めたのだろう。」
このあたりはもう、長谷川さんの創作である。それにしても見事な文章創造である。
イギリスから帰国したとき、親戚や家族のほかに、漱石の弟子ではただ一人、寺田寅彦が迎えに来ていた。
『編集者 漱石』とは離れるが、物理学者・寺田寅彦は不思議な文章家である。たとえば岩波文庫の随筆集『柿の種』を読めば、その文章が、現代人が書いたものといって全く遜色ないことに驚かざるを得ない。
これが英国留学直前の、子規との最後の別れになる。漱石も子規も(そして寺田寅彦も)、これが今生の別れであることを覚悟していた。
「この日、どんな言葉が交されようとも、無意識の触手が静かに絡み合っていたことだろう。『半死』の子規の『霊魂』が漱石の無意識にしっかり摑まれた様子が、私には想像されるのである。子規が黙ったまま頷いて、その表情が緩む一瞬までが確認される気がする。……子規の魂は漱石の意識の深層に宿る。」
もちろん実際に、何がどうであったかは、わからない。ただ「無意識の触手が静かに絡み合っていた」というのだ。それはもちろん、長谷川さんの想像の世界だ。
けれども、長谷川さんにこう書かれると、子規と漱石が、子規庵のそこに座っているのが見えるようだ。もうそれ以外にない、と思えてくる。
ロンドンでは、漱石は「人を通してではなしに、本を通して英国を、又英国の文学を知らうとして、本が買へることを英国まで来て得た唯一の便宜に考へてゐる」、という吉田健一の指摘があるが、これは僕には、妥当であるかどうかわからない。
ただ、長谷川さんの指摘で目を開かれたのは、漱石が滞在したロンドンでは、このときアール・ヌーヴォーという芸術運動の真っ盛りだったことだ。アール・ヌーヴォーは、植物をモティーフにした、曲線に特色のある装飾芸術である。
そしてなんと、日本では、『吾輩は猫である』が出版されるまでは、近代的な装幀という概念がなかった。文芸書には、背文字は印刷されていなかったのである。
「近代文学の開幕を告げたとされる坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』(ともに明治十八―九年)がいずれも和綴じの冊子であったところから類推して、文藝書の造本技術に関しては文明開化による技術革新の波及は遅く、慣習的に背表紙・背文字が意識されることがなかったのだ、と考えられる。」
そこへ漱石が、アール・ヌーヴォーの意匠を凝らした描き文字で、豪華な角背の本、いま僕らが見ているような本を出したのだ。
しかしその前に、漱石はまだロンドンにいて、日本では子規が亡くなる。俳句も短歌も散文も、改革しようとした子規は、三十五年の短い生涯を終える。本当に短い、と思わざるを得ない。
「漱石に言葉はない。子規は漱石のなかに眠った。……十一月三十日の夜、漱石はストーヴの傍で、あやすように子規を意識の深層に沈めたのだろう。」
このあたりはもう、長谷川さんの創作である。それにしても見事な文章創造である。
イギリスから帰国したとき、親戚や家族のほかに、漱石の弟子ではただ一人、寺田寅彦が迎えに来ていた。
『編集者 漱石』とは離れるが、物理学者・寺田寅彦は不思議な文章家である。たとえば岩波文庫の随筆集『柿の種』を読めば、その文章が、現代人が書いたものといって全く遜色ないことに驚かざるを得ない。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(4)
長谷川さんは、叙述を進めていくうえで、荒正人の「増補改訂漱石研究年表」(小田切秀雄・監修)と、漱石の妻、鏡子の「漱石の思ひ出」の二冊を、基礎資料として用いている。
これは最初に述べた通り、言ってみれば外側から漱石を見ているとして、秋山豊さんは使わなかったものだ。ここではそれが、主として使われているということは、秋山さんの漱石像とは、全く別の漱石像が描かれているということだ。
鏡子の「漱石の思ひ出」には、漱石の内面に分け入って、理解しようという側面は全くない。そもそもそんなことは、考えてもいない。
漱石と鏡子の夫婦関係は、次のようなものだった。
「新婚生活も度重なる引っ越しで落ち着く暇がなかった。『ドメスチツク ハツピネス』の基盤が築かれることがなかったのである。生い立ちにまつわる家族との距離感から、夏目金之助には夫婦のあり方そのものが理解の外にあった、とも考えられる。」
この、意思疎通の十全ではない夫婦にして初めて、外側からの漱石像が、逆によけいに描けているということなのだ。
同時に、漱石の編集者としての世話好きも、夫婦のディスコミュニケーションが、かえってもう一方の、言ってみれば編集者魂を、加速させているのではないだろうか。
漱石はロンドンに留学する前に、「ホトトギス」に「英国の文人と新聞雑誌」という文章を載せている。
そこでは「おもに十八世紀からディケンズに至る英国の詩人・作家とジャーナリズムとの密接な関係を粗述したものである。『スペクテイター』から『デイリー・ニュース』までのさまざまな新聞・雑誌に言及した。」
こんなことをするのは、丸善のPR誌、「學燈」を編集した内田魯庵くらいしかいない、と長谷川さんは言う。
漱石は、ジャーナリズムと出版が密接に絡んで発展していくことを、このころからはっきり見抜いていたのだ。
じっさい僕など、出版の世界から遠ざかってしまうと、新聞や雑誌が頼みの綱なのに、昨今の本に対する情報のヘタレぶりは、まったくどうしようもない。やはり、緩やかなブッククラブを組織して、自分でやるしかないか、と思わざるを得ない。
また漱石は、「ホトトギス」を編集する高浜虚子に、編集のことで、厳しい叱責の手紙を送っている。
それは、毎月きちんと発行日を守り遅れるな、から始まって、著者たちの内輪話を書くな、というところまで、いずれ競争誌が現れるのを見越していたかのようだ。
明治三十三年の英国留学に至る以前に、漱石はすでにこれだけの、編集者の片鱗を見せている。
これは最初に述べた通り、言ってみれば外側から漱石を見ているとして、秋山豊さんは使わなかったものだ。ここではそれが、主として使われているということは、秋山さんの漱石像とは、全く別の漱石像が描かれているということだ。
鏡子の「漱石の思ひ出」には、漱石の内面に分け入って、理解しようという側面は全くない。そもそもそんなことは、考えてもいない。
漱石と鏡子の夫婦関係は、次のようなものだった。
「新婚生活も度重なる引っ越しで落ち着く暇がなかった。『ドメスチツク ハツピネス』の基盤が築かれることがなかったのである。生い立ちにまつわる家族との距離感から、夏目金之助には夫婦のあり方そのものが理解の外にあった、とも考えられる。」
この、意思疎通の十全ではない夫婦にして初めて、外側からの漱石像が、逆によけいに描けているということなのだ。
同時に、漱石の編集者としての世話好きも、夫婦のディスコミュニケーションが、かえってもう一方の、言ってみれば編集者魂を、加速させているのではないだろうか。
漱石はロンドンに留学する前に、「ホトトギス」に「英国の文人と新聞雑誌」という文章を載せている。
そこでは「おもに十八世紀からディケンズに至る英国の詩人・作家とジャーナリズムとの密接な関係を粗述したものである。『スペクテイター』から『デイリー・ニュース』までのさまざまな新聞・雑誌に言及した。」
こんなことをするのは、丸善のPR誌、「學燈」を編集した内田魯庵くらいしかいない、と長谷川さんは言う。
漱石は、ジャーナリズムと出版が密接に絡んで発展していくことを、このころからはっきり見抜いていたのだ。
じっさい僕など、出版の世界から遠ざかってしまうと、新聞や雑誌が頼みの綱なのに、昨今の本に対する情報のヘタレぶりは、まったくどうしようもない。やはり、緩やかなブッククラブを組織して、自分でやるしかないか、と思わざるを得ない。
また漱石は、「ホトトギス」を編集する高浜虚子に、編集のことで、厳しい叱責の手紙を送っている。
それは、毎月きちんと発行日を守り遅れるな、から始まって、著者たちの内輪話を書くな、というところまで、いずれ競争誌が現れるのを見越していたかのようだ。
明治三十三年の英国留学に至る以前に、漱石はすでにこれだけの、編集者の片鱗を見せている。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(3)
正岡子規は「回覧雑誌の制作に熱中する、早熟な〝編集少年〟だった。/最初の制作は『櫻亭雑誌』。明治十二年の四月二十四日(推定)に第一号が、以後毎週木曜日に発行された。」
子規はこのとき勝山学校の最終学年、十二歳ころであった。この歳で、毎週木曜日に雑誌を発行する――確かに早熟の天才とは、いるものなのだ。
「編集とは、一つには見せる技術である。子規は少年時から見せる技術を体得し、習熟していたのだった。」
子規について書かれた編集者としてのプロフィールは、そのまま長谷川さんの編集者論にもなっている。
長谷川さんによれば、そこにはもう一つ、優れた編集者として絶対に欠くべからざる資質がある。
「すぐれた編集者には、組織者としての能力がもとめられる。人と人、事物と事物との間に、目に見えない有機的なつながりを発見して、集約する。新しい結合体を想像するのである。人であれば、資質を見出して、かつ育てる。」
編集者とはどんなものか、それを外側から見れば、ほとんどこの数行に尽きている。
けれども子規は、志なかばで結核に倒れてしまう。このとき、長谷川さんの言う「無意識の触手の結合」が、子規と漱石の間に起こった。
先を急ぎ過ぎた。「無意識の触手の結合」なのだから、漱石にもまだ、何も分かっていなかったのだ。
漱石が、都落ちして松山に行く前――。
「かれの理想の梯子は、自身の目にも見えないほどの茫漠たる高所を目指して懸けられている。いまはアイデンティティ―の影すら摑めない。」
それが子規との交わりによって、徐々に才能が開花していくのだ。漱石は子規に、実にたびたび俳句の添削を依頼している。そこに、こんな手紙をめぐる一節がある。
「追伸に、『善悪を問はず出来た丈け送るなり左様心得給へわるいのは遠慮なく評し給へ其代りいゝのは少しほめた給へ』とあるのは、制作者の心理を率直に表明する言葉として印象的である。同時に、編集者への教訓となるものといえるだろう。」
この辺り、編集者の要諦を絶対に逃がさないところが、長谷川さんの名手たる所以だ。
それにしても、「いゝのは少しほめた給へ」とはにくいことを言う。編集者は何をおいても、ほめ上手であることをもって、必要の第一条件とする。
そしてもう一つ。漱石の並外れた世話好きは、どこから来るのか。長谷川さんは次のように記す。
「孤独という空白が米山保三郎や菅虎雄から敏感に学んだ友情の一表現、それとも運座という一種のコミュニケーションの場によって育まれた生きる技術なのだろうか、……」。
これはしかし、もって生まれた性質という以外に言いようがない、と僕は思う。
子規はこのとき勝山学校の最終学年、十二歳ころであった。この歳で、毎週木曜日に雑誌を発行する――確かに早熟の天才とは、いるものなのだ。
「編集とは、一つには見せる技術である。子規は少年時から見せる技術を体得し、習熟していたのだった。」
子規について書かれた編集者としてのプロフィールは、そのまま長谷川さんの編集者論にもなっている。
長谷川さんによれば、そこにはもう一つ、優れた編集者として絶対に欠くべからざる資質がある。
「すぐれた編集者には、組織者としての能力がもとめられる。人と人、事物と事物との間に、目に見えない有機的なつながりを発見して、集約する。新しい結合体を想像するのである。人であれば、資質を見出して、かつ育てる。」
編集者とはどんなものか、それを外側から見れば、ほとんどこの数行に尽きている。
けれども子規は、志なかばで結核に倒れてしまう。このとき、長谷川さんの言う「無意識の触手の結合」が、子規と漱石の間に起こった。
先を急ぎ過ぎた。「無意識の触手の結合」なのだから、漱石にもまだ、何も分かっていなかったのだ。
漱石が、都落ちして松山に行く前――。
「かれの理想の梯子は、自身の目にも見えないほどの茫漠たる高所を目指して懸けられている。いまはアイデンティティ―の影すら摑めない。」
それが子規との交わりによって、徐々に才能が開花していくのだ。漱石は子規に、実にたびたび俳句の添削を依頼している。そこに、こんな手紙をめぐる一節がある。
「追伸に、『善悪を問はず出来た丈け送るなり左様心得給へわるいのは遠慮なく評し給へ其代りいゝのは少しほめた給へ』とあるのは、制作者の心理を率直に表明する言葉として印象的である。同時に、編集者への教訓となるものといえるだろう。」
この辺り、編集者の要諦を絶対に逃がさないところが、長谷川さんの名手たる所以だ。
それにしても、「いゝのは少しほめた給へ」とはにくいことを言う。編集者は何をおいても、ほめ上手であることをもって、必要の第一条件とする。
そしてもう一つ。漱石の並外れた世話好きは、どこから来るのか。長谷川さんは次のように記す。
「孤独という空白が米山保三郎や菅虎雄から敏感に学んだ友情の一表現、それとも運座という一種のコミュニケーションの場によって育まれた生きる技術なのだろうか、……」。
これはしかし、もって生まれた性質という以外に言いようがない、と僕は思う。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(2)
最初に〈編集〉ということを、理解した人――。
「私が見るところ、日本の近代文学において最初の、そして最高の文学者=編集者は夏目漱石である。」
そうか、そうだったのか。でも、にわかには理解しづらい。本当にそうか?
「例えば、出版文化史の観点に立てば、漱石以前と以後では、『本』そのものの形態までが歴然と変化する。」
そういえば書物は、漱石以前は、寝かせてあったような気がする。縦に置いておくのは、漱石以後なのか。
でも縦に置いておくと、本は立体的に見られるようになる。そうすると、本の束(つか)やカバー、表紙も問題にせざるを得ない。
そこで「わが国における最初の装幀家といえる橋口五葉を見つけ、育てたのが漱石だった。」
そうか、あの斬新な、というかケッタイな『吾輩は猫である』の装幀をやった橋口五葉は、日本で最初の装丁家であり、それは漱石が見つけて育てたのか。
ほかにも、「朝日新聞」に初めて文藝欄が設けられたが、その編集は一手に、漱石に任された。これはさらっと書いてあるけれども、まったく容易なことではない。
また文学史的には、芥川龍之介をはじめ鈴木三重吉、長塚節、中勘助、志賀直哉など、漱石が才能を認めて世に出した作家は多い。
しかし果たして編集者の才能と、著者のそれは、一人の人物の中に同居できるものであろうか。
「理想の編集者には、無私であることが求められる。……編集者は作家の蔭となり、作品に編集というはたらきの痕跡を残さないのが理想とされる。」
編集者と著者の才能は、いってみればプラスとマイナス、まったく正反対なのである。
その矛盾を漱石は、一つの人格の中に、納めていたというのか。これは最後に解く問題としよう。
ともかく漱石にとっては、正岡子規との出会いが、最初にして最大の出来事であった。正岡子規は実に編集の権化であり、それが漱石をして共振させたのだ。
「私が見るところ、日本の近代文学において最初の、そして最高の文学者=編集者は夏目漱石である。」
そうか、そうだったのか。でも、にわかには理解しづらい。本当にそうか?
「例えば、出版文化史の観点に立てば、漱石以前と以後では、『本』そのものの形態までが歴然と変化する。」
そういえば書物は、漱石以前は、寝かせてあったような気がする。縦に置いておくのは、漱石以後なのか。
でも縦に置いておくと、本は立体的に見られるようになる。そうすると、本の束(つか)やカバー、表紙も問題にせざるを得ない。
そこで「わが国における最初の装幀家といえる橋口五葉を見つけ、育てたのが漱石だった。」
そうか、あの斬新な、というかケッタイな『吾輩は猫である』の装幀をやった橋口五葉は、日本で最初の装丁家であり、それは漱石が見つけて育てたのか。
ほかにも、「朝日新聞」に初めて文藝欄が設けられたが、その編集は一手に、漱石に任された。これはさらっと書いてあるけれども、まったく容易なことではない。
また文学史的には、芥川龍之介をはじめ鈴木三重吉、長塚節、中勘助、志賀直哉など、漱石が才能を認めて世に出した作家は多い。
しかし果たして編集者の才能と、著者のそれは、一人の人物の中に同居できるものであろうか。
「理想の編集者には、無私であることが求められる。……編集者は作家の蔭となり、作品に編集というはたらきの痕跡を残さないのが理想とされる。」
編集者と著者の才能は、いってみればプラスとマイナス、まったく正反対なのである。
その矛盾を漱石は、一つの人格の中に、納めていたというのか。これは最後に解く問題としよう。
ともかく漱石にとっては、正岡子規との出会いが、最初にして最大の出来事であった。正岡子規は実に編集の権化であり、それが漱石をして共振させたのだ。
漱石の全体像とは――『編集者 漱石』(1)
著者の長谷川郁夫さんとは、もう四十年近い付き合いになる。今度、『編集者 漱石』を送っていただいて、中を数頁読んだとき、思わず横っ面を張られる思いがした、頭がくらくらした。
そうか、漱石に向き合うのに、九十度ずらしてみれば、まったく違う漱石が見えてくるのか。
僕はトランスビューにいるころ、元岩波書店の秋山豊さんの『漱石という生き方』を出した。秋山さんはそのとき、岩波で一番新しい『漱石全集』を編集した方だった。
詳しく言うと、秋山さんは最も多くの自筆原稿に触れ、1993年から画期的な『漱石全集』を編纂した。
そのとき漱石は、「文豪」としてではなく、不安を抱えた一個の魂として、そこにあった。秋山さんは、「現在」を生きる漱石に徹底的につきあい、そこで漏らす心の中の呟きまでを、聞き取ろうとしたのだ。
だからたとえば、夫人の夏目鏡子の『漱石の思ひ出』は、徹底的に外側だけを描いているので、資料としては採用されなかった。
また漱石神社の神主と揶揄された小宮豊隆は、最初から漱石を祀り上げているので、これも資料としては却下された。
確かにこれで、新しい漱石像を描くことができたのだ。秋山さんの『漱石という生き方』は、書評にもずいぶん取り上げられ、柄谷行人、養老孟司、出久根達郎といった人たちからは、なんて新鮮な漱石像だと、文字通り絶賛を博した。
でも長谷川さんの『編集者 漱石』を読むと、それはまったくの一面的な漱石にすぎなかったと分かる。
ともかく読んでいこう。
長谷川さんは、冒頭の一行目にこう記す。
「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている。」
これは実は、誰でも言いそうなことなのだが、しかしこれを徹底して分かっているのは、長谷川さんしかいない。
長谷川さんは、およそ十年前に、自ら編集者学会を立ち上げ、その初代会長に就いた。その長谷川さんのマニュフエストに曰く。
「……作品は書かれたままの状態では作品ではない。編集という作用を得てはじめてテキストとなるのだ。……作品も、〈本〉も、編集者のヴィジョンのなかに誕生するのである。」
これが徹底して分かっているのは、長谷川さんだけだった。少なくとも僕は分かっていなかった。
そうか、漱石に向き合うのに、九十度ずらしてみれば、まったく違う漱石が見えてくるのか。
僕はトランスビューにいるころ、元岩波書店の秋山豊さんの『漱石という生き方』を出した。秋山さんはそのとき、岩波で一番新しい『漱石全集』を編集した方だった。
詳しく言うと、秋山さんは最も多くの自筆原稿に触れ、1993年から画期的な『漱石全集』を編纂した。
そのとき漱石は、「文豪」としてではなく、不安を抱えた一個の魂として、そこにあった。秋山さんは、「現在」を生きる漱石に徹底的につきあい、そこで漏らす心の中の呟きまでを、聞き取ろうとしたのだ。
だからたとえば、夫人の夏目鏡子の『漱石の思ひ出』は、徹底的に外側だけを描いているので、資料としては採用されなかった。
また漱石神社の神主と揶揄された小宮豊隆は、最初から漱石を祀り上げているので、これも資料としては却下された。
確かにこれで、新しい漱石像を描くことができたのだ。秋山さんの『漱石という生き方』は、書評にもずいぶん取り上げられ、柄谷行人、養老孟司、出久根達郎といった人たちからは、なんて新鮮な漱石像だと、文字通り絶賛を博した。
でも長谷川さんの『編集者 漱石』を読むと、それはまったくの一面的な漱石にすぎなかったと分かる。
ともかく読んでいこう。
長谷川さんは、冒頭の一行目にこう記す。
「すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている。」
これは実は、誰でも言いそうなことなのだが、しかしこれを徹底して分かっているのは、長谷川さんしかいない。
長谷川さんは、およそ十年前に、自ら編集者学会を立ち上げ、その初代会長に就いた。その長谷川さんのマニュフエストに曰く。
「……作品は書かれたままの状態では作品ではない。編集という作用を得てはじめてテキストとなるのだ。……作品も、〈本〉も、編集者のヴィジョンのなかに誕生するのである。」
これが徹底して分かっているのは、長谷川さんだけだった。少なくとも僕は分かっていなかった。