それほどでもない――『宝島』

東京新聞の「大波小波」で、絶賛してあったので、読んでみた。四六判で、五〇〇ページを超える大作である。
 
男二人と女一人が主人公で、沖縄の戦後史を、実在の人物を絡めながら、丹念に描いている。
 
文体も工夫してあって、これで全巻を通すのは、見事な才能である。一か所だけ引こう。主人公の男一人が独房に入っていて、いろいろなことを考える場面だ。

「思考とは呼べそうもないあやふやなものから、空想のなかの教師(ウシショー)たちと質疑応答するたぐいのものまで、意識の海を泳ぎまわる思念の魚を網にかけて、舌でうろこの一枚一枚をはがすように吟味した。」
 
思わずため息が出る、上手いものだ。
 
でも、全体を読み終わってみると、なんというか、感動の底が浅いのである。
 
これは僕の方の問題かもしれない。ひょっとして、二度目を読めば、感動は深くなるのかもしれない。でも、もう一度読む気はしない。

(『宝島』真藤順丈、講談社、2018年6月19日初刷)
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歴史解釈の落とし穴をどう見るか――『天皇と儒教思想―伝統はいかに創られたのか?―』(2)

他にも儒教によると、皇帝は、地上の統治者であるだけではなく、時間、つまり暦の管理者でもあった。このあたりは、小島先生の独壇場である。

「儒教では、暦法を音楽(音律)と結び付けること(たとえば、十二ヶ月に十二音階〈律〉を対応させるなど)によって、自然界の摂理を写し取っているとした。さらに、基準音の高さは、その音を出す管楽器(笛)の寸法によって度量衡(長さ、容積、重さの単位)の基準に使われた。
 ……
 こうして、律・暦・度量衡を統一的に制定することが王権の基幹をなしていた。」
 
具体的には何を言っているのか、わからないけれど、暦と音楽と度量衡を統一的に司るのが、皇帝であるということは、なんとなくわかる。こういうことは、小島毅先生以外からは、聞けない話である。
 
第一章の「お田植えと御ご養蚕」については、誰もが推察する通り、もともと明治以前の伝統行事ではない。

「第二章 山陵」は、現在は仁徳天皇稜とされている古墳が、本当は誰の墓だかわからない、ということをもって、歴代の皇陵の扱いがわかるだろう。
 
中世の天皇陵の扱いについては、後藤秀穂の『皇陵史稿』(一九一三年)という本の中に、「皇陵の荒廃」と題して、平安から鎌倉時代まで、天皇陵の衰微・放置の歴史を述べている。

第三章の「祭祀」は、八世紀の律令体制で、ひとたび受容された儒教教義が、いったん廃れ、十九世紀に形を変えて、復活した点に特徴がある。

小島先生いわく、だから煩雑で、非常にややこしい。でも「天皇が行う祭祀について学術的に語るには、これだけの予備知識が必要なのだ。単純に『日本古来の伝統』などと言ってすませるのは、知性の放棄である。」
 
小島先生が、できるだけ噛みくだいたのだが、煩雑で冗長になるのは、避けられなかったという。
 
それをここに、簡略化して載せるのは、「知性の放棄」と言われそうである。だからこれ以上、内容にはかかわらない。
 
ただ一点、小島先生が筆誅を下そうとしておられる、「古来、そうだったから、変えてはならない」という輩が、では態度を変えて、「儒教は非常にややこしい。だから、古来はそうであったとしても、簡略化して簡素にすればいい」というふうになったら、どうすればよいのか。
 
小島先生には申し訳ないけれど、天皇制に関わるところは、じつは伸縮自在である。今の天皇が、皇室典範では禁じられているが、生前退位したいといったならば、そういうふうにすればよい。市民にとっては、日常の暮らしに、直接の関わりがなければ、そんなものなのだ。
 
では、天皇制とは、その程度のものかといえば、必ずしもそうではない。そこが厄介である。〈オウム的なるもの〉は、日常の裂け目を破って、いつでも噴出する構えをしている。

また一方で、「古来、そうだったから、変えてはならない」というのは、どういう心理に基づくのか、そちらも掘り下げて問題にすることが、大切だと思う。

(『天皇と儒教思想―伝統はいかに創られたのか?―』
 小島毅、光文社新書、2018年5月30日初刷)
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歴史解釈の落とし穴をどう見るか――『天皇と儒教思想―伝統はいかに創られたのか?―』(1)

著者の小島毅先生は、トランスビューで編集者をしている間、大変お世話になった。

『父が子に語る日本史』と『父が子に語る近現代史』の二冊を書き下ろしていただき、これは今も、版を重ねているはずだ。このページの、動くリンクを張ってあるところにも、書影が出てくる。
 
もっとも先生のご専門は、中国の思想史であり、日本史は専門外である。しかしこのころは、自民党の右派の政治家が、日本史について、あまりに無茶苦茶を言うので、やむにやまれず、その二冊を書き下ろしていただいたのである。
 
今回もどうやら、そういうことらしい。
 
天皇が「生前退位」を希望し、これについて賛否両論が現われ、事実上これを禁止している皇室典範の改定に関しても、いろいろな意見が出された。

「そのなかで一部論者によって伝統的な天皇のありかたという、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、『古来そうだったのだから変えてはならない』という自説の根拠に使われた。そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である。」
 
そもそも、天皇をめぐるさまざまな制度は、明治時代に改変されてできた。日本という国だって、十九世紀までは、北海道や沖縄には、日本とは別の政治体制をとるものが、並立していた。そういう当たり前のことが、いとも簡単に忘れられている。
 
そういうわけで、ここは一つ、言うべきことは言っておかなければ、ということなのである。
 
本書の構成は、「第一章 お田植えとご養蚕」、つまり天皇皇后の宮中行事。「第二章 山稜」、これは代々の天皇の墓について。「第三章 祭祀」、毎年恒例の祭祀。「第四章 皇統」、歴代天皇の系譜、これが南北朝のせいでややこしい。そして「第五章 暦」、「第六章 元号」と続いて行く。
 
しかしその前に、儒教の簡単な基礎知識として、〈巻頭コラム〉が載っている。これがなかなか面白くて、そしてたいへん厄介である。
 
まず孔子は、あくまでも伝統的価値の祖述者であるということ。つまり、はるか昔、聖人によって、儒教に基づく政治が行なわれており、孔子は、これを復活させようとした人物であるということ。
 
ただし「儒教教義が成立するのは、孔子の活躍から五百年後、前漢末から後漢はじめであった。つまり、史実として孔子が説いたことと、漢代に儒教として体系化された教義とは別のものである。」
 
すると小島先生は、どこを基準に「儒教」を説いておられるのか。ちょっと混乱しませんか。

そこでこういう注釈が入る。

「本書で言及されるのは後者であり、『論語』などからうかがえる孔子当人の思想ではない。ただし、本書に登場する十九世紀の儒学者たちは、儒教の教義は孔子が整理したものだと思い込んでいた。」
 
歴史解釈の落とし穴が、何重にも仕掛けられていることが、分るだろう。それにしても、ああややこしい。
posted by 中嶋 廣 at 18:45Comment(0)日記

極上の短篇エッセイ――『ジーノの家―イタリア10景―』(2)

「黒いミラノ」に続いては、「リグリアで北斎に会う」。これはイタリアで、葛飾北斎の生まれ変わりに出会う話だ。

もちろん北斎とはいっても、イタリア人に生まれ変わっている。そしてそこには、日本人の「キヨコさん」という、年老いた、謎の令嬢も現われる。

次の「僕とタンゴを踊ってくれたら」は、同性愛に目覚める神父の話。神父は教会に脱会届を出し、青年を伴侶にダンスを踊り、たちまち地域のスターになる。

この青年、ロナウドが実に妖艶で、女以上に女の本質をむき出しにし、読んでいてくらくらする。

以下、「黒猫クラブ」「ジーノの家」「犬の身代金」「サボテンに恋して」「初めてで、最後のコーヒー」「私がポッジに住んだ訳」「船との別れ」とあるが、どれも一ひねりも、二ひねりもしてあり、それぞれ奥が深い。

そしてなんといっても、文体が魅力的である。たとえば、「リグリアで北斎に会う」の、「キヨコさん」という令嬢の描写。

「その独特な散文調の語り口もあって、ただでさえ不可思議な内容にさらに輪がかかり、ビーノと私は魂を抜かれたようになってしまい、雑談を交わすための言葉も気力もない。」
 
あるいは、「僕とタンゴを踊ってくれたら」の、神父が突然、霊感に打たれるところ。

「あの晩、最後のワルツで二人は、自分でも意識していなかった秘密の願望があることに気がついた。運命の引き合わせで出会って、二人は同時に目覚めたのである。いったん気がついたらもう、世間体も将来の心配も二人には関係のないことだった。即刻ルイジは聖衣を脱ぎ捨て、ロナウドはそのまま自分の気持ちに従ったのである。」
 
著者は「あとがき」で、イタリアで、隣り合った人をじっと見ていれば、それは「秀逸な短編映画の数々を鑑賞するよう」なものだという。

「名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。」
 
それを、文学作品として取り出してくるのは、著者の腕によるだろう。それが年月を経て、ますます磨きをかけられ、究極の名品として現われたのが、『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』なのだ。
 
(『ジーノの家―イタリア10景―』
 内田洋子、文春文庫、2013年3月10日初刷)
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極上の短篇エッセイ――『ジーノの家―イタリア10景―』(1)

『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』に感心したので、同じ著者の本を読んでみる。
 
これは元本が、単行本で2011年に出ているので、およそ十年ほど前の本だ。

日本エッセイスト・クラブ賞と、講談社エッセイ賞を、同時に受賞している。この二つを同時に受賞したのは、初めてのことだ。でも、そういうところでは、あまり過度な期待はしないでおく。
 
サブタイトルに、「イタリア10景」とあるように、十の短篇エッセイが並んでいる。
 
第一章は「黒いミラノ」である。ミラノは他の都市と比べて、事件が起こりやすいという。最初の一篇で、著者の姿勢が露わになる。

「……人が集まれば、また同時に犯罪組織も寄ってくる。ミラノの闇の部分であるその怪しげな地区を、人づてに聞いてあれこれ空想するだけではなく、自分で実際に歩いてみたくなった。売れる記事になるかもしれない。」
 
こういう好奇心丸出しの姿勢で、端正な文章で書き進めて行くのだから、面白いことこの上ない。いや、本当に面白い。

「マフィア関連の事件担当の検事が、ある日、捜査していた組織のボスから食事の招待を受ける。一対一。二人だけの食事。食べて、飲んで、話して、沈黙。で、そろそろ手を打とうではないか。
 そういう卓上には、どういう料理が並ぶのか。
『真夏でもないのに、次々と、冷たい肉料理だったそうです。』
 暗黒ミラノの話に入る前の前菜としては、なかなかにおいしいエピソードではないか。」
 
ほんとにそうですね。
 
この人は、イタリアを称賛する書き方はしていない。というか、イタリアと日本を比べるという、無責任な書き方はしていない。

「地区内には、多様な民族の子供たちが過半数を占める公立学校も増えている。イタリアの厳しい格差社会で、底なし沼のような社会の最下層を生み出す学校でもある。いったん底へ落ちたら、再び這い上がるのは難しい。アリジゴクの穴のようなところなのである。」
 
イタリアのそんな話は、聞いたことがない。もっとも僕は、イタリアについて書かれた本を、そんなに読んだことはないけれど。しかし本当に、イタリアが徹底した格差社会であると、聞いたことはない。
 
マルチェロ・マストロヤンニや、ソフィア・ローレンの映画で、そういうのがあったかなあ。なかったんじゃないか。
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メルヘンか、エッセイかーー『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』(5)

この本の作りについて述べておく。二見開きに一つ、一ページ大のカラー写真が載っている。しかしネームはない。

本文と対応させて、実に細やかな写真ばかりだが、解説は見事に何もない。こういう写真の使い方は、まったく初めてだ。

そうか、こういうふうに使うと、写真の解説を読むことによって、本文が中断されることがないわけか。すると著者の叙述は、流れるように進んでゆき、ほかに夾雑物は入らないことになる。

とはいえ全ページをネームなしでやろうとすると、けっこう度胸がいる。

そういえば、本文中の出典も、見事にない。巻末に定期刊行物・書籍として、原書が羅列してあるだけだ。これも実に、きっぱり、さっぱりしている。

こうして、出版をめぐる多彩な物語が、いってみれば幸福に終わろうとするとき、最後の章で突然、現実のイタリアの話に引き戻される。

二〇一六年の一年間で、六歳以上のイタリア人で一冊も、本を読まなかったのは、国民全体の五七・六%、三三〇〇万人に達する。

著者は呟く。「暗澹とする。/窓から外を見る。ここから見える人たちの過半数が、昨年に一冊も本を読まなかったのか。/どうりで町から書店が姿を消していくわけだ。」

イタリアの出版事情は、日本とそっくりである。

「減収の連鎖から抜け出すために、出版社は新刊を出版する。出して配れば、小切手が入る。繰り返すうちにヒット作が出て負の流れを止め損益をご破算にしてくれないか、と待つのである。」
 
これ、そっくりでしょう、日本に。最後の一章は、イタリアの出版事情と見せて、日本を憂うるものだ(もっとも日本では、もうこの一発逆転は、望めなくなったけれど)。

最後まで読んだとき、著者が最も気にかけているのは、モンテレッジォで本が生まれた、その魂が、日本の出版人に、なお宿っているかどうか。そのことが、気にかかっているのだ。

(『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』
 内田洋子、方丈社、2018年4月17日初刷)
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メルヘンか、エッセイかーー『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』(4)

五十年ほど前の、モンテレッジォの村人からの聞き書きにより、行商の様子が残されている。

それを読むと、この村の人たちは、露店を広げながら、中央から北イタリアの町を、行商して歩いたということがわかる。

「行商人たちはいつでも本を山と積み上げた台の側に立ち、客が来れば丁寧に相手をした。客の質問や感想はひと言も漏らすまい、と熱心に聞いた。」
 
だから一般書店は、行商人たちを敵視した。しかし出版社は、そうではなかった。

「……出版社は規模や有名無名に関わらず、モンテレッジォの行商人たちを大変に重宝した。既成の書店からはけっして知ることができなかった新興読者たちの関心や意見を、行商人たちのおかげで詳細に把握できたからである。……行商人たちは、自らの足で回って漏らさず拾い上げて伝えた。」
 
さあ、これは本当だろうか。現代の出版社なら、全国の主要書店と手を結び、読者カードを完備して、それでも読者の動向は、正確には摑めない。つぎに企画として、やって来るものは、とうてい予測できないのだ。だから出版は、早い話が、中毒する。
 
でも、本でつながれた世界は、たとえそれが空想であったとしても、それはそれで、ジーンとくる話、心温まる話ではある。

他にもいろいろな物語がある。イタリアからスペイン、そしてアルゼンチンまでを股にかけた出版人の話。あるいは五つの家族が協力して、何代もかけてイタリアからフランス、スイスをくまなく回って、本を売ってきた話。

それらは、モンテレッジォや、その近辺に始まる話であり、いわば歴史史料の一ページではなく、まるで著者が、本売りの行商について回ったかのように、生き生きと蘇えらせる。

あるいは手に取っただけで、本の行く末をぴたりと言い当てる行商人の話。

「売れる本というのは、ページに触れるときの指先の感触や文字組み、インクの色、表紙の装丁の趣味といった要素が安定しているものです。〈あの出版社の本なら〉と、ひと目でお客に品格をわかってもらうことが肝心ではないでしょうか。」

行商人は、確かにそう言ったかもしれないが、でも昔の人を借りて喋っているのは、著者その人だ。

そして、著者の言葉を借りて、本の行く末を語る行商人の言葉に、僕もまた打ち震えるのだ。
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メルヘンか、エッセイかーー『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』(3)

著者は、本の行商の手がかりを摑みたい。それには、モンテレッジォを再訪するしかない。

「モンテレッジォは小さく平穏な村だったが、また同時に頑なで慎重な気配に包まれている。古い歴史の上に載った石の蓋は、異邦人が一度や二度、訪問するくらいではびくともしないだろう。」
 
そう覚悟を決めて、何度も訪れるしかない。

そうして中世の地誌を紐解くうちに、分かってきたことがある。それは、いってみれば、「地の利」である。

「海がなく、平地もなく、大理石の採石もできない。つまり、海産物も農作物も畜産品も天然資源も採れない村だったが、それらが豊富な土地へ行くための〈通過地点〉という重要な役割があった。
『特産品は、〈通す権利〉でした』」
 
その後、グーテンベルクの活版印刷革命があり、それはあっという間にヨーロッパ中に広まった。交易で栄華の頂点を極めたヴェネツィア共和国は、「異国から未知の商材や情報が次々と上陸して」、投資家たちは商機を見つけようとし、その結果、やがてはヨーロッパの出版の中心となった。

「十五世紀の時点では約五百万冊の本が作られていたとされるが、活版印刷が導入された十六世紀には一気に二億冊まで増えたとされている。」
 
一八一六年は、異常気象の年だった。世界的に火山が次々に噴火し、大量の火山灰によって太陽が遮られたために、「夏のない年」になった。
 
北イタリアのモンテレッジォでは、農産物は全滅した。

「『でもモンテレッジォの人々は、もともと糊口を凌ぐのには慣れていましたからね』
〈何かを売りに行かなければ〉
 まず村人たちが籠に入れて担いだのは、聖人の祈禱入りの絵札と生活暦だった。」
 
この時代、まだ本を読む人は多くはない。イタリアで義務教育制度ができるのは、一八七七年からである。
 
その前に、ナポレオンの時代がある。荘園領主から解放された小作農、商店主などの小市民が社会の基盤になる。そして祖国統一の時代。イタリアも例外ではなかった。

こうして知識欲の旺盛な、本の購買層が生まれる。モンテレッジォの行商人たちの、活躍が始まる。

「村人たちは底辺の行商人だった。……町中の書店で売る本とは違っていた。価格も、格も、読者も。……行商人たちは庶民の好奇心と懐事情に精通した。客一人ひとりに合った本を見繕って届けるようになっていく。客たちにとって、行商人が持ってくる本は未来の友人だった。」
 
最後の一文に注目してほしい。あるいはまた、こういう文章もある。

「(モンテレッジォの)村人たちは、そういう本を売ったのである。読むことが、次第にその人の血肉となっていくような本を。」
 
こういう文章を読むとき、私たちは、歴史を紐解いているのではないことを知る。これはひょっとすると、著者による一篇のメルヘン、せいぜいがメルヘンと歴史のあわいに位置する物語ではないのかと。
posted by 中嶋 廣 at 19:10Comment(0)日記

メルヘンか、エッセイかーー『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』(2)

こうして著者は、本を売ることを稼業にしたモンテレッジォ村の歴史に、のめり込んでいく。

親しくなったマッシミリアーノは言う。

「行き先やそのうち定住することになる場所が異なっても、先祖代々から村人たちが変わることなく売り続けたのは、本でした」。

周りは鬱蒼とした山、そこに本を売る人びと。でも、いったい、なぜ。
 
著者はさっそく現地を訪れる。途中までは鉄道でも行ける。しかし山に入ると、車でなければ無理だ。
 
やっとのことで行き着いた場所には、〈MONTEREGGIO〉の道路標識があり、その横に第一回「露店商賞」のヘミングウェイの看板がある。
 
これは何だろう。この賞はイタリアで、もっとも由緒ある賞の一つである。しかし「露店商賞」というのも、考えてみれば、その由来がよくわからない。

第一回のヘミングウェイが、どうして山奥に、ポツンと看板になって立っているのだろう。
 
仲良くなったジャコモが、飄々として言う。

「『〈露店商賞〉の発祥地が、ここなもので』
 ……
『ここは、本とその露店商人の故郷ですので』」
 
こうして、ますます謎は謎を呼び、ではないけれど、深みにはまっていく。ミステリー仕立ての濃厚な香り。この辺り、もう、たまりませんなあ。

村の広場に、大きな大理石の石碑がある。彫られているのは、肩に籠を担いだ男で、籠には溢れんばかりの本が、積み上げてある。その大理石の碑文はこうだ。

〈この山に生まれ育ち、その意気を運び伝えた、倹(つま)しくも雄々しかった本の行商人たちに捧ぐ〉

読み書きのできなかった村人が、本を行商して国境までも超えてゆく。それがイタリアの文化を、広める結果へと繫がってゆく。

でも、なぜ。著者には、それ以外の言葉は出てこない。
posted by 中嶋 廣 at 11:24Comment(0)日記

メルヘンか、エッセイかーー『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』(1)

「はじめに」と題して、最初に見開き二ページの、前口上がある。そのテンションの高さが、異常である。

「籠いっぱいの本を担いで、イタリアじゅうを旅した行商人たちがいただなんて。そのおかげで各地に書店が生まれ、〈読むということ〉が広まったのだと知った。
 なぜ山の住人が食材や日用品ではなく、本を売り歩くようになったのだろう。
矢も盾もたまらず、村に向かった。」
 
こうして、わずかな生存者を探して、聞き書きを進めるようになる。文字通り「何かに憑かれたように」、その断片を掘り下げ、一生懸命に書いた。そしてそれは、イタリアの出版史をさかのぼる旅になった。
 
それにしても、「何かに憑かれたように、一生懸命に書いた」と、著者が最初に、書き記すのは珍しい。その意気ごみや良し、である。

著者・内田洋子は、時事報道の仕事をして、そのころは仕事と生活の拠点を、ミラノに置いていた。あるときヴェネツィアを訪れると、細い路地の奥にある、ひっそりとした古書店が目に入った。

「とても居心地の良い店である。寡黙で穏やかな店主はまだ若いのに、客たちの小難しい注文を疎まずに聞き、頼まれた本は必ず見つけ出してくる。」
 
著者はヴェネツィアに行くと、必ずここへ立ち寄るようになった。ヴェネツィアをめぐるエッセイを頼まれると、まずこの書店に寄るようになった。

「本を買う必要がないときもつい店に立ち寄るのは、単に本が好きというだけではなく、客たちが自分の胸の内を彼に読み解いてもらいたいからではないか。
 読んで、読まれて。」

すべては、ここからはじまる。

ベルト―ニ書店の店主、アルベルトは、この店の歴史は自分を入れても、四代をさかのぼるに過ぎない、すべては山の中の村、モンテレッジォに始まると、「晴れ晴れと誇らしげな顔で」言ったのだ。
 
著者には未知の場所だったが、モンテレッジォという村は、何かが違っていた。「地図と少々の情報しか知らないというのに、心の奥を摑まれたような気持になっている。」
 
それにしても、山岳地帯の、恐ろしく辺鄙なところではないか。
posted by 中嶋 廣 at 14:43Comment(0)日記