前作とはちょっと違う――『本屋な日々 青春篇』(2)

次の「フォーエバー・ヤング」は、石橋毅史さんが若かりし頃、出版社の営業部で、奮闘した話。それを焼肉屋で、かつての先輩社員と、ほろ苦い気分で懐かしむ。
 
でも、ただ懐かしむだけではない。ここに出てくる「Y社」の社長というのが、曲者というか、食わせ物というか、とにかくワンマン極まりない人物で、昔、出版社にはときどきいましたねえ。
 
ついでに言うと「Y社」というのは、悠飛社のことだが、そして「Y社」の、たとえば『私も虐待ママだった』というのが挙げられているので、インターネットで調べればすぐにわかるけれど、ここは「Y社」のことよりも、石橋さんの回想に意味があるので、「Y社」のままとしたい。この辺りは、石橋さんの芸の細かいところだ。
 
でこの「Y社」だが、これがなんというか、「とんでも出版社」だったのである。とにかく、石橋さんのいた二年余りの間に、三十人ほどが入っては辞めていった。
 
これは経営状態が不安定で、給料が安く、しかもその額も、社長の一存で決まるためだ。

営業部は、とにかく書目を、書店に押し込みさえすればよい。あとで全部、返品になろうが、気にしない。いや、気にはするけど、社長の手前、仕方がない。

「――僕がいた頃は、土曜日は注文を百冊とれた人から帰っていい、という競争もやらされてました。
『たまに社長も「手本を見せてやる」って一緒にやるんだけど、「今度の新刊が!」「こういう既刊も売れてまして!」とか一方的にまくしたてて一店だけで合計百冊くらいとったりしてたもんなあ。ほんとムチャクチャだった。』」
 
いやあ、懐かしいなあ。これとおんなじことを、僕らは、やっていたことがある。法蔵館の東京事務所にいたころだ。
 
書目はいろいろあったけど、基本的に売れていないものを、押し込むことはしなかった。今でもよく憶えているのは、養老孟司先生の『カミとヒトの解剖学』と、布施英利さんの『死体を探せ!』『図説・死体論』である。北海道から沖縄まで、とにかく一生懸命、注文を取った。その点では、「Y社」の社長と、まったく同じことをやっていた。
 
でも石橋さんは、苦い思いを込めて、往時を反省する。

「――やっぱりY社は、つくっていた本が市場に出る資格がない出来だったということになるのかな。」
 
これではどうしようもない。
 
しかしよく売れた本でも、返品は多かった。嫌なことだが、本はそういうふうに、売れていくものだと思っていた。ものすごい無駄を出しながら、そういうふうに、回っていくものだと思っていた。
 
もちろん、それで良しとは思っていなかったけれど、その時は、どうしようもなかった。
posted by 中嶋 廣 at 18:53Comment(0)日記