川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』は、短篇三つと中篇一つの、四篇を収録する。
最初の二本、「彼女と彼女の記憶について」、「シャンデリア」は、面白くなりそうなところもある。でも腰砕けで、面白くなるところまでは行かない。
もちろん文章は鋭利だ。
「幸せとか愛とか自己実現とか? いい匂いのするもの、温かく自分を受け入れてくれるかもしれないそれらはいつだって信用がならず、刻一刻と失われるものばかりだけが正直で、見つめるに値すると思ってしまう。」(「シャンデリア」)
なるほど。でもこれは、小説の文体ではない。私はそう思う。
あるいは次のようなところ。
「あと一歩でコスプレメイクになりそうなくらい濃く顔を作った店員たちが、てかてかしたひっつめ頭に澄ました顔でこちらを向いて並んでいる。馬みたいだな、となんとなくおもう。」(「シャンデリア」)
こういう一文は、間に挟まっていてもいいが、それは肯定を、より強く見せるためであってほしい。このまま、負の方向へ傾斜して行くのなら、この文章は、全く輝きを示さない。と言うか、ほとんどやけくそであるように見受けられる。
三本目の「マリーの愛の証明」は、こういう雰囲気の「小説」を書いてみましたというだけ。こういうのはよくないと、僕は思う。川上未映子と読者との、お互いに何となく解り合った関係である。でも、その内実は何もない。
「ウィステリアと三人の女たち」は、さすがに読み応えのあるものが、何にもないと、困るというので、最後に入れたもの。
お向かいの老女が死に、屋敷が取り壊されようとする。ある夜、そこに忍び込んだ「わたし」は、老女の半生を追体験する。それは不思議な、しかし事実の下に隠された、真実の体験であった。
もはや「わたし」は、夫との、うわべだけの日常に戻ることはできない。
文章は見事で、圧倒される。これが正真正銘の、川上未映子だ。
でもこれは、小説なのだろうか。
『ヘヴン』は、散文詩と見まごうばかりの、しかし見事な小説だった。
「ウィステリアと三人の女たち」は、それに比べれば、わずかに後退しているように見える。
川上未映子は、ちょっと疲れている。そう思わざるを得ない。
(『ウィステリアと三人の女たち』川上未映子、新潮社、2018年3月30日初刷)