脳卒中仲間は興味津々――『脳が壊れた』(4)

鈴木大介がもっとも苦しんだのは、自分の中の感情が、溢れんばかりに一杯になり、自分でコントロールできなくなったことだという。これは、僕にはわからないことだ。

「……最も僕を苛んだのは、心の中が常に表現の出来ない感情で一杯一杯になって、はち切れそうになってしまうという、これまた他者にむけて表現のしようがない苦しみだった。」
 
これは本当に、よく分からない。僕の感情失禁は、突然、どんなところでも出るので、困ったことは困ったが、でも、鈴木大介の大変さとは違う。

「妻の運転する車の助手席に乗っていても、喉元まで何かの気持ちがこみ上げてきて、叫びたいような、暴れ出したいような、猛烈な焦燥や不安が襲ってくる。」
 
これは、彼が活字で訴えたくとも、なかなかうまく訴えられないことだ。現に脳出血を患った僕が、どういうことなのか、よく分らない。

「僕は、肉体的な苦痛以外に、死んでこの苦しみから逃れられるのならいっそ死んでしまいたいというほどの苦しみがあることを、知らなかったのだ。心がバランスを崩すというのがこんなにも辛いことだなんて、僕は本当に解ったフリをしていただけだったのだ。」
 
このあたりは、続編の『脳は回復する』に、より詳しい記述がある。
 
この本には付録として、「鈴木妻から読者のみなさんへ」という、妻から見た鈴木大介が描かれている。これがなかなか面白い。
 
妻は発達障害で、長年苦しんできた。

「……子どものころから母だけではなくいろいろな人に、夫にも、何かをやる前に先にやられてしまう。うまくやれないという理由で自分でやろうとしていることを奪われてしまうということを繰り返してきているから、結局本当にやれることが少ない。」
 
けれども、妻がメンタルを病んでいたために、鈴木大介は、かろうじて助けられる部分もあった。

「心の痛みというものは、今日は本当につらくて死にたくて、明日もつらいかもしれない。でも明後日になったら一気に楽になっているかもしれないという部分があって、それの繰り返しです。なので、必要なのはただそばにいて、大丈夫だからと言い続けてあげることしかないように感じています。」
 
ほとんど妻の鏡だ。それにメンタルを病んでいるとはいえ、文章も立派なものだ。その妻の、鈴木大介評はこうだ。

「……確かに夫は融通が利かなくなりわがままで意固地になったし、言動や行動からみえる性格は変わってしまったけど、しばらくするうちに、根本の中身の人格そのものが変わったわけではないのだと気付きました。」
 
鈴木大介の、病気の後の自己反省には、「融通が利かなくなりわがままで意固地」、とは書いてなかった。月並みな話だが、これほどの苦難を一緒に経ても、夫婦というのは、なかなか解りあえない。難しいものだ。

(『脳が壊れた』鈴木大介、新潮新書、2016年6月20日初刷、8月6日第2刷)

脳卒中仲間は興味津々――『脳が壊れた』(3)

だから、困窮者に手を差しのべるときには、よく考えないといけない。

「……彼ら彼女らに必要なのは、いち早く生産の現場に戻そうとする就業支援ではなく、医療的ケアなのではないか。それも精神科領域ではなく、僕の受けているようなリハビリテーション医療なのではないか。」
 
これはまことに卓見である。子どもや若い人が、その方向へ、何とか進んでいけるようにしたいけど、これは実に困難な道である。
 
鈴木大介は、身体に障害が、ほとんど残らなかったぶん、かえって高次脳機能障害に集中して、悲惨な事態が起きた。
 
スムーズに作業がやれないことよりも、「『やれないことを他者に分かってもらえない』という経験が、何より辛かった。」
 
鈴木大介は、いろんな困難の中で、「話しづらい」ということが、最も長く尾を引くことになったという。
 
これは僕も、身体の不具合と並んで、不調が最も長く残った。そして、じつはまだ残っている。
 
鈴木の言うことを聞いてみよう。

「いわば口から喉全体に歯科医療で使う麻酔をかけられたような状態で、こうした障害は総じて『構音障害』と呼ばれる。
 僕の場合は、唇や舌だけではなく咽喉や鼻腔にも麻痺があったために、音の高低や発声のテンポも調節できなくなり、流ちょうに話すことが出来なくなってしまった。」
 
程度の差はあれ、僕も、音の高低やテンポが、第一声を発してみないと、上手く見当がつけられなくなった。
 
これは今も、話すときに、尾を引いて、残っている。妻はそんなことは、いちいち気にしない。たまに訪れる友人たちも、最初こそ気にするのかも知れないが、話しているうちに、たいして気にならなくなってくる(ようだ)。

何よりも、僕の話すテンポなり音程なりが、話しているうちに、安定してくる。

しかし、最初に話すときは、まだダメだ。三年半たって、ダメということは、もう一生、治らないのかも知れない。

そうすると、これは僕の、新しい「個性」といえるかもしれない。そうとでも思わなければ、やっていけない。
 
鈴木大介の場合は、まだ四十代初め。構音障害を、新しい個性だといって済ますわけにはいかない。しかしこれは、難物の障害だった。

「結果から言うと、僕の中の『話しづらさ』は、口周りの麻痺が改善しても、それどころか病後半年以上を経て、こうして闘病記の仕上げを書いている発症七ヶ月半の今も残り続ける、最も苦しい後遺症となった。」
 
これに、「感情失禁」と呼ばれるものがついてくる。これはいろんなケースがあるが、僕の場合は、突然可笑しくなることが多かった。人としゃべっていて、深刻な状況に来ると、突然爆発的に可笑しくなる。笑いが止まらなくなるのである。
 
これは、じつは今でも多少、その気味が残っている。鈴木大介の場合も、まったく同じことだった。
 
しかし鈴木の場合は、病院を退院して、自宅に帰ってからが、本当に辛い時期の始まりだった。

脳卒中仲間は興味津々――『脳が壊れた』(2)

高次脳機能障害とは、簡単に言えば、脳が疲れて、壊れてしまい、使い物にならなくなることだ。

僕の場合でいえば、まず言葉が出てこない。イヌやネコが、現物を見ても、その種類の名前が出てこない。妻や子どもの顔を見ても、何と呼んでいいかわからない。

本も読むことはできないのだが、それは内容が、脳の中に一瞬もとどまってはくれないからなのだ。

鈴木大介は、こんなふうに語っている。

「……僕は漫画すら読めなくなっていた。コマを追って台詞の文字を読んでいても、ストーリーが繫がらず、必死に集中していても『次にどこのコマ、どの吹き出しを読むのか』が分らず、やはり睡魔に襲われてほんの数ページで本を閉じざるを得ないのだ。」
 
僕の場合は、活字本を読んでいて、ページをめくると、文章の続きが分からなくなった。本当に信じられないことだが、ページをめくった一瞬の後、もう文章の続きを忘れている。そうして数ページ読むと、やたらに眠くなる。
 
そういう状態が、退院してからも、三カ月は続いた。
 
退院後、毎日一時間、朗読を、わが身に強制したが、最初は五分で、脳の中に響き渡る声が、ただ音として、意味なく流れていた。そして、とにかく眠くなった。
 
鈴木大介は、そのリハビリを、問題のある若者にも適応しろと、強く主張する。

「例えば、子ども集団の中でのイジメの原因には、イジメ被害者となる者の発達障害や発達のアンバランスが大きく関係していると僕は考えている。」
 
これは卓見である。でも、具体的にどうすればよいか。社会的なこととして考えると、たちまち費用その他が問題になる。

でもおそらく、今の段階で、これ以上の方策はない。それは費用の点でも結局、いちばん安くつくだろう。
 
また、貧困に直面する女性たちを、救済しようとしたことがあるという。そういう女性たちに、共通する行動があった。

「……役所に提出する所得証明などの書類の説明や、書き込みが必要な申請物などの説明を始めると、高確率で『気絶するような勢いで寝る』のだ。ファミレスのシートで横になってしまう者もいるし、仏像のような半眼状態でフラフラと寝てしまう者もいた。公的な書類などを用意しても、五行読めればいいほうで、音読してあげてもさっぱり頭に入っていかないようなのだ。」
 
こうして鈴木大介は、ある種の貧困者と、高次脳機能障害者が、ぴたりと重なることを探り当てる。

「貧困とは、多大な不安とストレスの中で神経的疲労を蓄積させ、脳梗塞の後遺症で高次脳機能障害となった者と同様なほどに、認知判断力や集中力などが極端に落ちた状態なのではないか?」
 
鈴木はそれを、病院内の売店で、小銭をまったく処理できない自分を発見して、はじめて相手のことがわかったと言う。

脳卒中仲間は興味津々――『脳が壊れた』(1)

脳卒中つながりで、鈴木大介の『脳が壊れた』と、その続編、『脳は回復する―高次脳機能障害からの脱出』を読む。
 
山田太一は脳出血だったが、鈴木大介は脳梗塞である。これは出血に対して、逆に血管が詰まる病気である。
 
鈴木大介はルポライター。社会からこぼれ落ちた人々を取材対象とし、『再貧困女子』で名を揚げた。僕はこの本を読んでいないが、田中晶子は読んでいて、面白いと言っていた。
 
鈴木大介が、脳梗塞を発症したのは41歳。まさに今から旬を迎える書き手だった。
 
鈴木が脳梗塞を発症し、高次脳機能障害を患って、最初に感じたことは、「これは僥倖だ」、というものだった。

なぜなら、取材してきたのは、「発達障害を抱えるがゆえに社会や集団から離脱・排斥された人々や、精神障害と貧困のただなかに立ちすくみ混乱する人々」だったからだ。

これで初めて、当事者の気持ちに立てる。自分が、無数の底辺の人たちの、代弁者になれるのだ。

しかしもちろん、「その後の回復の過程がどれほど苦しいものになるのかなど、僕は考えもしていなかったのだった。」
 
こうしてリハビリが始まるが、リハビリの実際については、本当に千差万別、鈴木と僕とを比べたって全く違う。
 
僕は、右手足に麻痺が残った。鈴木は、身体の麻痺は残らず、発症直後から自立歩行ができた。僕からすれば、本当に羨ましい限りだ。
 
でも僕と同じく、高次脳機能障害は残った。残ったと言うべきか、新たに出たと言うべきか。
 
この高次脳機能障害は、他の体に残った麻痺と同じく、「発症直後に大きな回復率を見せ、そこから徐々に回復は緩やかになり、六ヶ月ほどで回復はほぼ停止。残った障害は『固定』されると言われているらしい。」
 
鈴木は、これは当事者の感覚とは、少し違うという。これは僕も、ぜんぜん違うと思う。勘繰れば、健康保険の適用期間が六カ月なので、リハビリもそれに合わせて、回復期が終わると、無理にしてあるのではないかな。
 
しかしこれは、鶏が先か卵が先か、みたいな話ではある。

脳出血の後の山田太一――『夕暮れの時間に』(2)

この本は、最後の第Ⅳ章が、書評集になっている。山崎洋子『沢村貞子という人』も、そのうちの一篇である。
 
そこに、平松洋子『なつかしいひと』の書評が出ている。これが素晴らしい。

「いい文章を要約するのは苦痛だが、これも出色のエッセイで、平松さんは現実を現実のまま現実の中にさらしておきたくないのだと思う。ひそやかな感情、幻想、思念を吹きこんで現実を現実から救い出したいのではないかと思う。」
 
これだけ読んでも、何だかよく分からないだろうが、しかし、平松洋子の文章を思い浮かべられる人は、分かるはずだ。そして、山田太一がここまで書く人は、どういう人なのだろうと、興味を抱くはずだ。
 
その文章の末尾はこうだ。

「現実などというものはすべて『こころの持ちよう、自分のこころが映しだした幻』なのだろう、どのようにだってしてみせる、という図太い構えが、何気ない季節の随想にもあり、乱れも艶もある思いがけない一冊だった。」
 
実際には何を言っているのか、わからない。でも、かぎりなく高揚していることは、わかる。そこで、平松洋子の『なつかしいひと』を、購入することになる。血の通った書評が、立派に役立ったのだ。
 
ほかにも、渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』、杉田成道『願わくは、鳩の如くに』、寺田寅彦『柿の種』など、書評を読むだけで面白かったものが、いっぱいある。そこでついつい、本を購入することになる。
 
そしていよいよ、「巻末特別インタビュー 夕暮れの時間の後に」である。
 
そこでは山田太一は、本が読めなくなった、文章が書けなくなった、というようなことを言う。しかし根本のところでは、山田太一は山田太一だなあと思う。本が読めなくなった、文章が書けなくなった、ということを考察する、その仕方が山田太一なのである。
 
医療の進歩に対しても、かなり懐疑的である。

「これ以上長生きしたからって何があるんだろうと思ってしまいます。そりゃ喜んでいる人もいると思いますよ。だけど全員がそれで喜んでいるかというと、今はそうじゃないと思う。もうちょっと前に死ぬはずだった人が、今は生き残ってしまう。それが今の時代のマイナスな部分だというような不安感があります。僕は今年のはじめに脳出血になったことで、このまま死んでいくのが自然だと思ったんです。だけどすぐっていうわけにはいかないんですよね。」
 
山田太一は、いまこの時代の、もっとも中心的なテーマを、摑んだのではないか。

(『夕暮れの時間に』山田太一、河出書房新社、2018年4月20日初刷)

脳出血の後の山田太一――『夕暮れの時間に』(1)

山田太一の身辺雑記。元の単行本は2015年に出た。
 
今回、文庫になったのを買ったのには、理由がある。
 
山田太一は2017年1月に、脳出血を起こした。それから半年が過ぎて、インタビュアーが、後遺症も含めて、自宅で近況を聞いている。文庫にはそれが、特別付録として付いていて、それを読みたかったのだ。
 
とはいえ、もとの単行本は読んでいないから、順番に読むことにする。
 
冒頭は「脱・幸福論」。のっけから、「もともと幸福は感じるもので論ずるものではない」とある。これは、あまり気のすすまない原稿を、いやいや書いているなと思い、ページの終わりの出典を見ると、「文藝春秋 臨時増刊」とある。きっと、「今ふうの幸福論」というようなタイトルで、書きたくもない原稿を、書かされたに違いない。
 
冒頭がこれでは、山田太一とはいえ、あまり期待できないな。
 
ということではあるけれど、それでもやっぱり、山田太一らしいところはある。
 
むかしシカゴで出会った、二十歳くらいの女性の、邪気のない笑顔が忘れられない、という話の結末。

「……私の中に四十数年、数秒の笑顔が消えずにいるところを見ると、小さなことに見えて、笑顔のあるなしは、相当大きなことなのかもしれない、と、いいつのりはしないが、今でも思い続けている。」
 
この文章中、「と、いいつのりはしないが、」というところが、なんとも言えず山田太一である。
 
あるいは『沢村貞子という人』を書いた、山崎洋子という人。この人は、三十数年にわたって、沢村貞子のマネージャーを務めた。
 
山田太一は、そのマネージャーの人となりを、こういうふうに記す。

「『三月に一足』靴を履きつぶすくらい映画会社やテレビ局を歩き回り、俳優さんの側にあってはしんとして影のように静かというのは、格好いいといえば格好いいが、長きにわたれば自我の始末に困ることはないのだろうかとつい思ってしまう。しかし、この本にはそういう揺らぎが少しもない。」
 
なるほど、「自我の始末に困ることはないのだろうか」というのは、こんな場合に使うんだな。使うことはないような気もするが、でも、心の中に書き留めておこう。

じつに伸びやかな文体――『街と山のあいだ』(2)

「今日の夕陽」は、古本屋との淡い交わりを記す。閉店するというので、慌ててその古書店を訪れ、何冊か購入した中に、串田孫一の一冊があった。
 
串田先生は、若菜晃子の敬愛する執筆者であり、また古書店主とも長年、親交があった。
 
その本の中に、「今日の夕陽」と題する詩がある。この詩は、ずっと昔に、著者が作者を忘れて、そらんじていたものだ。

そこから、著者の連想は、自在に伸びてゆく。

「夕陽ははじめ、地上を照らし、やがて空を染めていく。空をゆく雲が、自らもゆっくりとかたちを変えながら、薄いサーモンピンクから、濃い紅褐色へと徐々に色を変えていく。」
 
これはもちろん、山の景色だ。著者は、そこから徐々に変化する自然を、豊かに、的確にとらえる。

「やがて遠くの山並みの稜線だけが赤みを残し、山々は青く沈み始める。黒いシルエットになったカラマツの梢が少しの風に揺れている。空にはいつの間にか白銀の月が昇っている。足もとの草からは夕闇の匂いがする。今日という日が終わるんだなと思う。」
 
こんな日が、しかも取り立てて、特別な一日というわけではない日が、あるんだ。そういう、何でもない一日の描写を、的確に読むところがすごい。人はこういうふうに、年月を重ねたいものだ。

「兄に似た人」は、登山口まで行くバスで、兄と似た人に出会ったという話。筋はそういうことなのだが、途中の景色が見事である。

「マユミの実が赤く色づいているのが見える。薄紫色のユウガギクも咲いている。ダケカンバの白い幹も見える。光るススキの原のなかにぽつねんと人が立っている。牛が草をはんでいる。なにもかもが秋めいている。」
 
このあと、昔の兄との、ごく淡いやり取りが回想される。そして、結びの一文が来る。

「山には時々、兄に似た人がいる。」
 
ただただ見事である。
 
最後の「木村さん」と「誕生日の山」が、掉尾を飾って素晴らしい。

「木村さん」は、最初に会社に入ったときの上司だが、今はもう病床にあって、一刻を争う時だ。著者は、会いにゆこうかゆくまいか、迷う。その機微が、じつに繊細に描かれる。

「誕生日の山」は、これこそ最後に来るにふさわしい。

「……私の内に昔からある、自然のなかで美しいものを見たときに決まって心中から湧き上がる、言葉にはしがたい懐かしみを伴った、喜びの感情であった。
 それは生きてきた長い年月の間に蓄積された感覚のようでもあり、生まれたときからもっている感情でもあるようで、あるいは期せずして現れるこれが、たましいのふるえなのかもしれない。」
 
すでに何冊も著書のある人で、しかもこんな名分を書く人を、知らなかったなんて、ただただ不覚というほかない。

(『街と山のあいだ』若菜晃子、アノニマ・スタジオ、発行・KTC中央出版、
 2017年9月6日初刷、12月4日第2刷)

じつに伸びやかな文体――『街と山のあいだ』(1)

若菜晃子という名前は、全然知らなかった。1968年生まれだから、今年ちょうど50歳になる。大学を出て、山と渓谷社に入社し、『山と渓谷』副編集長を経て、独立している。

これまで、結構いろんなところから、本を出している。『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』(新潮社)、『東京甘味食堂』(本の雑誌社)などなど。版元を見れば、手が伸びそうだが、本そのものは、ちょっとパンチに欠けるような気がする。
 
で、この『街と山のあいだ』だが、端的に言って素晴らしい。文体はどこまでも細やかに伸びており、山と自然を中心に、元いた会社、そこにいた人など、自然や人事のすべてを、温かく、包み込むように、哀惜を込めて語る。
 
冒頭、「美しい一日」は、これ一篇だけが詩である。一部、抜粋する。

「一年に数度、たとえようもなく美しい日がある。/朝から光がさんさんと降り注いで、/あたり一面明るく輝いていて、/吹く風は澄んで心地よく、/ことのほか静かで、/足もとにはやわらかな影ができる。/そうした日に、街を歩きながら、今日は山はいいだろうなあと思う。」
 
最初から素晴らしい。これはやはり、朗読しなければと思い、最初から終わりまで朗読して、それからもう一度、最初に返って、二度、声に出して読んだ。
 
どこを読んでも素晴らしいが、たとえば、北八ヶ岳なら、こうなる。

「夜になればオレンジ色の灯がぽつりとつき、心づくしの食事が終わって灯が消えれば、窓の外から月明かりが入ってくる。
 もちろん、テントを張って、湿った地面の固さを背に感じ、梢を渡る風の音を耳に聴きながら、森に眠るのもわるくない。」
 
僕は、山には縁がない。海は一日、ぼうっと眺めていても、飽きることがない。しかし山はだめだ。鬱蒼とした森に入ると、全身が痒くなってきて、もうだめだ。
 
その僕ですら、山はいいなあ、と思わされる。とくに「……湿った地面の固さを背に感じ、梢を渡る風の音を耳に聴きながら、森に眠るのもわるくない」というところ、たまりません。
 
河原に掘られた野天風呂の赤湯温泉では、月の光が「見たことのないくらい大きく、地上に向かって煌々と明るい光を放つていた」。
 
それは、実に神秘的だった。

「私は、かぐや姫と同じように、自分も白い月の光の道に頭から吸い込まれていく心地がした。それは、たましいが吸いとられていくような感覚であった。気がつくと私は地面に足をつけておらず、中空から地上を見下ろしている。」
 
これは集中、ただ一篇だけ、幻想の風景を描いている。それは、エッセイの枠をはみだしている。それがまた、たまらなくいい。

ものたりない――『ウィステリアと三人の女たち』

川上未映子の『ウィステリアと三人の女たち』は、短篇三つと中篇一つの、四篇を収録する。

最初の二本、「彼女と彼女の記憶について」、「シャンデリア」は、面白くなりそうなところもある。でも腰砕けで、面白くなるところまでは行かない。
 
もちろん文章は鋭利だ。

「幸せとか愛とか自己実現とか? いい匂いのするもの、温かく自分を受け入れてくれるかもしれないそれらはいつだって信用がならず、刻一刻と失われるものばかりだけが正直で、見つめるに値すると思ってしまう。」(「シャンデリア」)
 
なるほど。でもこれは、小説の文体ではない。私はそう思う。
 
あるいは次のようなところ。

「あと一歩でコスプレメイクになりそうなくらい濃く顔を作った店員たちが、てかてかしたひっつめ頭に澄ました顔でこちらを向いて並んでいる。馬みたいだな、となんとなくおもう。」(「シャンデリア」)
 
こういう一文は、間に挟まっていてもいいが、それは肯定を、より強く見せるためであってほしい。このまま、負の方向へ傾斜して行くのなら、この文章は、全く輝きを示さない。と言うか、ほとんどやけくそであるように見受けられる。
 
三本目の「マリーの愛の証明」は、こういう雰囲気の「小説」を書いてみましたというだけ。こういうのはよくないと、僕は思う。川上未映子と読者との、お互いに何となく解り合った関係である。でも、その内実は何もない。

「ウィステリアと三人の女たち」は、さすがに読み応えのあるものが、何にもないと、困るというので、最後に入れたもの。
 
お向かいの老女が死に、屋敷が取り壊されようとする。ある夜、そこに忍び込んだ「わたし」は、老女の半生を追体験する。それは不思議な、しかし事実の下に隠された、真実の体験であった。
 
もはや「わたし」は、夫との、うわべだけの日常に戻ることはできない。
 
文章は見事で、圧倒される。これが正真正銘の、川上未映子だ。
 
でもこれは、小説なのだろうか。

『ヘヴン』は、散文詩と見まごうばかりの、しかし見事な小説だった。

「ウィステリアと三人の女たち」は、それに比べれば、わずかに後退しているように見える。
 
川上未映子は、ちょっと疲れている。そう思わざるを得ない。

(『ウィステリアと三人の女たち』川上未映子、新潮社、2018年3月30日初刷)

簡潔に、曝け出す――『安部公房とわたし』(3)

1987年、安部公房は聖路加病院に、検査入院する。前立腺癌の四期だった。

睾丸摘出手術を受けるように言われ、そのことについて、二人で率直に話し合った。

「初めて安部公房の口から別れたほうが良いかもしれないという言葉も出た。『宦官』について、ふたりで調べたのもこのころだった。関係を続けることでお互い納得しあった。」
 
ここはさらっと書いてあるけれど、女と男の関係を、ぎりぎりまで煮詰めて、別れないとなったもので、その言葉の奥は深い。
 
女優と作家の関係から、男と女の関係になり、そして離れることのできない、人間と人間の関係になったのだ。
 
そのことを、如実に示す逸話がある。

「紫綬褒章の打診が箱根にあった時、私は『ノーベル賞以外は、安部公房に似合わない』と強く主張した。安部公房は年金が付くものなら貰いたいような雰囲気だったが、たぶんこの褒章に年金は付かないはずだ。」
 
安部公房と山口果林ではなくて、一人の人間が自問自答しているようだ。そして結論は、うまく収まるところへ収まる。
 
安部公房が68歳で逝ったとき、山口果林は四十代半ば、それから立ち直るまで、十年以上かかっている。

「安倍公房が亡くなって以来、遺族から一切、連絡は入らなかった。蚊帳の外に置かれ、まるで私が存在していなかったかのような世間の空気だった。この間、安部公房の人生から消された『山口果林』は、ひとり生き続けた。」
 
そうしてついに、山口果林はこの本を書いたのだ。

(『安部公房とわたし』山口果林、講談社、2013年8月1日初刷、8月16日第2刷)