我思う、ゆえに我なし――『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳―』(1)

プロローグの前に、トマス・ネーゲルという人の言葉が引いてある。そこで、こんなことを言う。

「時空が無限に広がる中心のない宇宙が、よりによって私という人間をつくりだしたことが不思議でたまらない……私はそれまでどこにも存在していなかったのに、この時間と場所で、生命が宿るこの肉体が形成されたとたん、私がいることになった。」
 
これはたぶん、問いの立て方が、違うのだ。だからこの疑問は、いつの時代も疑問のまま残るが、回答が得られることはない。
 
しかし一方、この問いの立て方は、本としては、未来永劫、魅力に富むものなのだ。たとえ出口が、分らないとしても。
 
さて、目次の前にプロローグが来る。そこに仏教説話の、鬼に食われた男の話が出てくる。

男の腕や脚、胴体や頭まで、食べられてしまい、そのかわりに、別の腕や脚、胴体や頭を、そこにあった死体と、入れ替えておく話だ。男は腕から頭まで、全部入れ替わってしまっても、それでももちろん生きている。

これは大乗仏教の、『中論』に出てくる。

「自分には身体があるのか、ないのか。あるのだとしたら、これは自分の身体なのか、それとも他人の身体なのか。いまここにある身体は何なのか。」
 
これがまさに、現代の神経科学者に、突きつけられている問なのだ、と著者は言う。
 
私は、この仏教説話は必ずしも、そういうことではないと思うが、今は始まりなので、その誘いに、ひとまず乗っておこう。
 
その前に、目次をずらっと挙げておく。

 第1章 生きているのに、死んでいる――コタール症候群
 第2章 私のストーリーが消えていく――認知症
 第3章 自分の足がいらない男――身体完全同一性障害(BIID)
 第4章 お願い、私はここにいると言って――統合失調症
 第5章 まるで夢のような私――離人症
 第6章 自己が踏みだす小さな一歩――自閉症スペクトラム障害
 第7章 自分に寄りそうとき――自己像幻視(体外離脱ほか)
 第8章 いまここにいる、誰でもない私――恍惚てんかん
 
書き写していて、めまいとゲップが出そうになる。自分がどこにいるか、絶えず確認しなければいけない、そんな気がする。
posted by 中嶋 廣 at 21:32Comment(0)日記