今どきの恍惚の人――『長いお別れ』(2)

『恍惚の人』や『そうかもしれない』と較べると、甘いところの目立つ小説だが、終わりに近づく頃、認知症の厳しい局面が展開される。

妻が夫の下(しも)の世話をするところである。妻と娘がしゃべっている。

「『うんこを、こっちによこすって、ど、どういう意味?』
『寝ててね、うんこをするじゃない? 紙パンツの中に、うんこがあるのが、気持ちが悪いらしくて、取り出して、わたしのベッドに並べるのよ。あの人、なんでも、きちんと並んでるのが好きなのよね。』」
 
下の世話は、本当に厄介なものだ。看護が一人前にできるかどうかは、下の世話にかかっている。
 
しかし認知症の対応には、それを超えて、はるかに厳しい条件がある。それは名前の失念である。
 
夫婦でも親子でも、名前が分からなくなれば、そこで認知症の患者からの、働きかけはなくなる。

『そうかもしれない』は、施設に入った妻に面会に行く、夫の話だ。「私が夫だよ」と、妻の手を取るのだが、久しぶりに会った妻は、看護婦にくりかえし促されて、胡乱な様子で言うのだ。「そうかもしれない」と。
 
その衝撃のセリフは、哀切など一切こもらない、しかしそれゆえに、夫婦の悲哀の度合いは、よけいに深いものがある。
 
一週間に一度、僕が通っているデイケアに、Sさんという男性の職員がいる。たいへん優秀な、ギターと歌の上手い人だ。その人が言っていた。

「施設に預けていた、認知症の母親に会ったとき、じっと僕を見て、『あんた、誰や?』と言われたときの衝撃は、忘れられません」
 
中島京子の甘いところは、家族という人間の関係性が、ぎりぎりで壊れていないことだ。「うんこ」を並べるのは、妻を前にしたときに限られる。
 
娘や孫は、正確に把握できてはいないが、家族であることは、なんとなく分かっている。ここが曖昧であれば、小説としては、二流にならざるを得ない。
 
僕が認知症で参っているのは、母親のことである。僕は半身不随で、身動きが取れないので、その分、妻が駆けずりまわることになる。しかしそれは、また別の物語である。

(『長いお別れ』中島京子、文春文庫、2018年3月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 20:30Comment(0)日記