我思う、ゆえに我なし――『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳―』(3)

著者はエピローグで、徹底的に「自己」を突き詰める。そしてついには、ひょっとすると、その自己は幻ではないか、というところまで追いつめる。その手際は鮮やかだ。

プロローグで紹介した、鬼に食われた男の話には、続きがあり、それが、エピローグで紹介される。身体の各部を、死体と交換された男は、仏教の僧たちに、自分は存在するのか、自分はもう人間かどうかも怪しい、と言う。

すると、僧たちは答える。

「それは『私』――自己――が実在しないという悟りの第一歩だと。ようやく自分の存在を疑いはじめたが、実は自己など初めからなかったのだ。……男はその意味を理解し、仏教でいうところの解脱を果たした――あらゆる煩悩から解きはなたれたという意味だ。」
 
これは仏教説話としては、よくできている。しかしこれは、自己が存在するかしないか、つまりあれかこれかの、二者択一の話ではない。私はそう思う。
 
また欧米の本では、いつも最後に、あの問いが現われる。なぜ、物質が精神を生みだすのか。なぜ、無限に広がる宇宙が、私という人間を生みだしたのか。
 
これも乱暴な言い方をすれば、物質と精神、宇宙と人間という、本来豁然として交わることのないものを、地続きでつなげていった、いわばカテゴリー・エラーだと思われる。
 
しかしもちろん、カテゴリー・エラーだろうと何だろうと、その結果、魅力的な問いが現れることに、変わりはない。
 
それとは別に、個人的な話をする。

私は三年半前に脳出血で倒れた。ICUを出て、一般病棟に移ってからは、眠れなくなった。というか、昼となく夜となく、いつもぼうっとしていた。自分の行く末を考えると、堂々巡りは果てしなく、いわば奈落に落ちていくようだった。

言葉は脳の中では、発することができるつもりなのだけれど、実際は、音声としては、出て行かないのだ。
言葉を発することができないということは、かくも苦しいことなのか。

そのとき、また別の自分が現れた。自分には考えるだけの力がない、だから今は、とにかく考えまいとする、もう一人の自己が顕われたのだ。

このとき顕われた自己は、たぶん、第二の自己である。

でも、このとき顕われた自己は、じつは私からは、遠いところにあった気がする。なぜかそう思ってしまう。
本書に顕われた自己は、奇怪な、おぞましい場合も含めて、その遠いところの自己と近いのではあるまいか。それを自己と呼んでいいものかどうか。

私は著者とは異なり、もう一つ別の次元に、自己でも他人でもない、得体の知れないものがいる、そんな気がしてならない。

(『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳―』
 アニル・アナンサスワーミー、藤井留美・訳、紀伊國屋書店、2018年2月26日初刷)

我思う、ゆえに我なし――『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳―』(2)

この本の著者はアニル・アナンサスワーミー。英米では、名の通ったサイエンス・ライターである。しかしサイエンスの分野に留まらず、哲学的な思考も、色濃く滲み出ている。

これはショッキングな本である。最初に出てくるのが、コタール症候群の話で、これがまず強烈だ。

患者は言う。「私はもう死んでいます。精神は生きているけど、脳は自殺未遂をしたときに、死んだのです。」

この種の患者は、自分が死んでいると言うだけでなく、さらに、自分は存在すらしていない、と言うこともある。

コタール症候群の患者は、極度のうつ状態に陥るが、自殺する者はほとんどいない。だってもう死んでいるのだから、もう一度死ぬ必要はないわけだ。これは、ブラックユーモア以外の何ものでもない。

コタール症候群には、特徴的な妄想がある。それは脳だけが死んでいる、という現代的な妄想で、これは医療現場で最近出てきた、脳死の概念に関係している。

つまり形のない精神が、形ある脳から独立して存在しうる、とする発想だ。脳は死んでも、精神は生きている、これは究極の二元論的妄想である。
 
デカルト哲学では、「我思う、ゆえに我あり」だったが、コタール症候群では、「我思う、ゆえに我なし」なのである。

この症状では、神経科学的には、脳の内部のどこを触れば、どの程度よくなるかが分かっている。しかし短絡的に、因果関係を決定するのは危険だ。脳内の物質的な作用から、どうやって精神が生まれるのかは、相変わらず謎だからだ。
 
全体の章のうち、認知症、統合失調症、自閉症などは、日本でもよく知られているので、ここでは、コタール症候群に続いて、毛色の違うものを紹介しよう。

身体完全同一性障害(BIID=Body Integrity Identity Disorder)では、患者は身体の一部、腕とか足を切り落としたい、という強烈な欲求に取り憑かれている。

逆に言えば、手や足の一本ずつが、邪魔でしょうがないのである。子どものころから違和感があり、大人になって、その不満は、もはや爆発寸前なのである。

そんな患者が本当にいるのか――いるのである。しかし表立って、腕や足を切り落とすわけにはいかないから、すべては闇の医者に託される。

本書では、足を切り落とす手術の一部始終に、著者が付き添っている。やはりこの目で見るまでは、そんな患者がいることが、信じられないのである。

もちろん、身体完全同一性障害(BIID)の手術は非合法で、病院側もだまされている。つまり医師個人が、病院内でこっそりやっていることで、そうまでして患者は、とにかく手や足を、死ぬほど切り落としたいのだ。

これは身体の内部感覚と、現実の身体にズレが生じており、言い換えればアイデンティティ障害といえよう。この感覚はなかなか理解しづらい。著者はそこを率直に書く。

「翌日麻酔から覚めた彼は、下のほうを見てみた。『信じられない。足がなくなってる。うれしくて我を忘れそうだった』」

要するにペンフィールドのいう「身体の脳内地図」が、歪んでいるのだ。しかし脳内地図が歪んでいると、なぜ身体の切断欲求につながるのか? そこは謎のままだ。

我思う、ゆえに我なし――『私はすでに死んでいる―ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳―』(1)

プロローグの前に、トマス・ネーゲルという人の言葉が引いてある。そこで、こんなことを言う。

「時空が無限に広がる中心のない宇宙が、よりによって私という人間をつくりだしたことが不思議でたまらない……私はそれまでどこにも存在していなかったのに、この時間と場所で、生命が宿るこの肉体が形成されたとたん、私がいることになった。」
 
これはたぶん、問いの立て方が、違うのだ。だからこの疑問は、いつの時代も疑問のまま残るが、回答が得られることはない。
 
しかし一方、この問いの立て方は、本としては、未来永劫、魅力に富むものなのだ。たとえ出口が、分らないとしても。
 
さて、目次の前にプロローグが来る。そこに仏教説話の、鬼に食われた男の話が出てくる。

男の腕や脚、胴体や頭まで、食べられてしまい、そのかわりに、別の腕や脚、胴体や頭を、そこにあった死体と、入れ替えておく話だ。男は腕から頭まで、全部入れ替わってしまっても、それでももちろん生きている。

これは大乗仏教の、『中論』に出てくる。

「自分には身体があるのか、ないのか。あるのだとしたら、これは自分の身体なのか、それとも他人の身体なのか。いまここにある身体は何なのか。」
 
これがまさに、現代の神経科学者に、突きつけられている問なのだ、と著者は言う。
 
私は、この仏教説話は必ずしも、そういうことではないと思うが、今は始まりなので、その誘いに、ひとまず乗っておこう。
 
その前に、目次をずらっと挙げておく。

 第1章 生きているのに、死んでいる――コタール症候群
 第2章 私のストーリーが消えていく――認知症
 第3章 自分の足がいらない男――身体完全同一性障害(BIID)
 第4章 お願い、私はここにいると言って――統合失調症
 第5章 まるで夢のような私――離人症
 第6章 自己が踏みだす小さな一歩――自閉症スペクトラム障害
 第7章 自分に寄りそうとき――自己像幻視(体外離脱ほか)
 第8章 いまここにいる、誰でもない私――恍惚てんかん
 
書き写していて、めまいとゲップが出そうになる。自分がどこにいるか、絶えず確認しなければいけない、そんな気がする。

続々・「天才」の謎に挑む――『頂へ―藤井聡太を生んだもの―』

またまたやっちまった、藤井聡太の七段昇段である。
 
竜王戦の挑戦者決定戦で、連続昇級した場合は、規定により昇段することになっている。藤井聡太はこれで、四段から七段までを、半年間で駆け抜けたことになる。
 
なんだ、将棋の段位なんて、実にちょろいものじゃないか。確かに、藤井を見ているとそう思う。
 
でもそれは、藤井聡太にしかできないことなのだ。こんなことは、大山康晴の生まれ変わりにしか、できないことなのだ(と思ってしまう)。
 
そこで再々度、天才の謎に迫ってみよう。
 
著者は中日新聞の記者・岡村淳司で、とにかく幅広く、取材の網を広げている。
 
まず藤井聡太が通った「ふみもと子供将棋教室」。ここに、そのすべての出発点があるはずだ。

教室を運営する文本力雄は、「定跡の学習、詰め将棋、対局」の三本を柱にしている。
 
そうか、言われてみれば、実にまともな三本の矢である。これが、藤井聡太の骨格を作っているのだ。
 
でも、その三本の矢で、プロ棋士になったのは、「ふみもと子供将棋教室」では、まだ藤井聡太しかいない。
 
文本力雄は生徒に、プロ棋士になるようにすすめたことはないと言う。

「地元で負け知らずの天才少年が、血反吐を吐き、気が狂うほどの努力をしてもなお、かなうかどうかわからない夢。」それがプロ棋士への道なのだ。
 
藤井聡太の、デビュー以来の30連勝を阻止した、佐々木勇気は語る。

「これだけ連勝できるのは、連勝記録よりもっと上の志があるから。中学生とは思えないすごい姿勢だ」
 
やはり、生まれ変わりを認めざるをえない様子だ。
 
佐藤天彦に、公式戦で勝った試合でも、時の名人に勝って、有頂天になったりはしない。

「今回は勝てたが、まだまだ実力的には名人に及ばない。これからも一層頑張らなければと思います」
 
この「名人」は、目の前にいる佐藤天彦と同時に、その背景にそびえる、大山康晴十五世名人をも入れている。だから実力的に、とにかく追いつこうとする。
 
本書は、新聞記者が広く取材した、どうということのない読み物だが、藤井聡太が何を目指しているかの、一つの傍証にはなる。

(『頂へ―藤井聡太を生んだもの―』
 岡村淳司、中日新聞社、2018年3月7日初刷、4月7日第2刷)

今どきの恍惚の人――『長いお別れ』(2)

『恍惚の人』や『そうかもしれない』と較べると、甘いところの目立つ小説だが、終わりに近づく頃、認知症の厳しい局面が展開される。

妻が夫の下(しも)の世話をするところである。妻と娘がしゃべっている。

「『うんこを、こっちによこすって、ど、どういう意味?』
『寝ててね、うんこをするじゃない? 紙パンツの中に、うんこがあるのが、気持ちが悪いらしくて、取り出して、わたしのベッドに並べるのよ。あの人、なんでも、きちんと並んでるのが好きなのよね。』」
 
下の世話は、本当に厄介なものだ。看護が一人前にできるかどうかは、下の世話にかかっている。
 
しかし認知症の対応には、それを超えて、はるかに厳しい条件がある。それは名前の失念である。
 
夫婦でも親子でも、名前が分からなくなれば、そこで認知症の患者からの、働きかけはなくなる。

『そうかもしれない』は、施設に入った妻に面会に行く、夫の話だ。「私が夫だよ」と、妻の手を取るのだが、久しぶりに会った妻は、看護婦にくりかえし促されて、胡乱な様子で言うのだ。「そうかもしれない」と。
 
その衝撃のセリフは、哀切など一切こもらない、しかしそれゆえに、夫婦の悲哀の度合いは、よけいに深いものがある。
 
一週間に一度、僕が通っているデイケアに、Sさんという男性の職員がいる。たいへん優秀な、ギターと歌の上手い人だ。その人が言っていた。

「施設に預けていた、認知症の母親に会ったとき、じっと僕を見て、『あんた、誰や?』と言われたときの衝撃は、忘れられません」
 
中島京子の甘いところは、家族という人間の関係性が、ぎりぎりで壊れていないことだ。「うんこ」を並べるのは、妻を前にしたときに限られる。
 
娘や孫は、正確に把握できてはいないが、家族であることは、なんとなく分かっている。ここが曖昧であれば、小説としては、二流にならざるを得ない。
 
僕が認知症で参っているのは、母親のことである。僕は半身不随で、身動きが取れないので、その分、妻が駆けずりまわることになる。しかしそれは、また別の物語である。

(『長いお別れ』中島京子、文春文庫、2018年3月10日初刷)

今どきの恍惚の人――『長いお別れ』(1)

老人の認知症を、テーマにした本である。新聞広告で「映画化決定!」とあったので、ついつい衝動買いしてしまった。
 
と書けば、おわかりの通り、たいした小説ではない。
 
それでも、身内に認知症初期の者がいて、しかも離れているために、僕は会いに行けないとなれば、こういう小説には、つい手が伸びる。
 
老夫婦二人のうち、夫が認知症で、最初は妻が介護するが、そのうち手に負えなくなり、娘三人が、フラフラになりながら、なんとか介護する。
 
有吉佐和子の『恍惚の人』は一九七二年だから、もうおおかた五〇年前である。それから、耕治人の『そうかもしれない』もあった。
 
そういう本と較べると、いかにもご都合主義で、ほんとうにどうにもならない、身を切られるような矛盾は、避けて通っている。その意味では、ほとんどメルヘンである(もっとも、介護保険が適応になって、実際によくなった部分もある)。
 
小説としては二流だけど、面白いところもある。

認知症の祖父が、孫と喋っている。祖父は認知症であるにもかかわらず、むかし習った難しい漢字が読めてしまう。老人には、往々にして起こりがちなことだ。でも孫には、ただただ驚異だ。

「『なんでできるの! じゃ、僕は誰?』
『え? あんた、自分の名前もわかんなくなっちゃったのか?』
『わかんないのは、僕じゃないよ。おじいちゃんだよ。僕が誰だかわかる?』
『落ち着いて考えてみろよ』
『何言ってんだよ。考えるのはおじいちゃんだよ。うわあ』
『どうした、だいじょうぶか!』」
 
こういうところは本当に可笑しい。

文体に冴えはあるか――『ヒキコモリ漂流記』(2)

山田は結局、芸人の養成所もやめることになる。

「人間、ずっと落下していると、はたして自分が本当に落ちているのかさえ分からなくなってくる。もう何もない。ここでも人生の落下を食い止められなかった。また『社会』に入って行けなかった。」
 
社会に入って行くことができないのが、引きこもりの、直接の動機である。でもそれが、なぜ自分に起こるのかは、当事者たる自分には、よくわからない。
 
これは本全体を読めば、父親との関係に、躓きがあったことは確かだ。でもそういう方向へは、話は進んでいかない。
 
途中、今どきの若者の考察があるが、これが面白い。

「よく、『社会の歯車になんかなりたくない』とバカな若者が言ったり、歌ったりするが、歯車になるのも難しいのである。……
 歯車万歳だ。歯車になって親の敷いたレールを走りたいもんだ。」
 
これはもちろん、弱音の極限を吐いたために、矛盾をきたしたもので、親の敷いたレールは金輪際いやだから、こうなっているのだ。
 
でも山田は、暗黙の内に親の敷いた道を、自分が自主的に選んだと思っているのだ。確かに一見すると、自分で敷いた道のようだが、でもそれは、あらかじめ父親が敷いた道なのだ。
 
もちろん父親も、そんなことは一切ない、子どもに過剰な期待はしていない、と言うであろう。でもそれは違う。目端の利く子どもは、親の期待を先回りして、実現しようとするものだ。
 
山田は、そんな父親に、直接歯向かっていくことはしない。実際その衝突は、不毛だと思う。テレビの家庭劇などでは、親子の派手な喧嘩が、山場としてこしらえられているが、現実には、ただただ不毛なだけだ。
 
けれども、子どもの方は、親に関して決着をつけないといけない。というか、親との距離を取らないといけない。そうでないと、子どもはいつまでも、独立した「生活」というものができない。

「まとめると、毎月、最低、五万円~八万円もあれば、僕はとりあえず生活できたのである。食べたいものも食べず、電車にも乗らず、風呂にも入らず、服も買わず、ただ暮らす。はたして、それを『生活』と呼べるのかはわからないが。」
 
山田ルイ53世が、ここまで生き延びたのは、奇跡としか言いようがない。

(『ヒキコモリ漂流記』山田ルイ53世、マガジンハウス、2015年8月31日初刷)

文体に冴えはあるか――『ヒキコモリ漂流記』(1)

「週刊新潮」を読んでいたら、〈髭男爵〉の片割れ、山田ルイ53世が「新潮45」に連載中の、「一発屋芸人列伝」が面白い、という記事が出ていた。
 
これはもちろん、そろそろ本になるのを見越した、新潮社のやらせであろう。
 
でも、どういう芸人が出ているのか、ためしにアマゾンで見てみると、『一発屋芸人列伝』は、まだ本になっておらず、その前にこの本が出ていた。
 
それでも普通なら、テレビ芸人の苦労話は、避けて通るところだが、神戸の六甲学院というのに引っかかった。
 
僕は、姫路の淳心学院を出たが、神戸の六甲学院は、そのころすでに有名であった。淳心学院よりも、有名大学への進学率では、六甲学院の方が上ではなかったか。まあ今となっては、進学率という言葉も含めて、前世のおぼろげな記憶に等しいが。

「週刊新潮」の「一発屋芸人列伝」のうたい文句は、何よりも文体が素晴らしい、というもの。それなら、『ヒキコモリ漂流記』でも、文体はそんなに変わるはずはないから、まずこちらから読んでみよう、となったわけだ。
 
山田ルイ53世は中学二年のとき、学校でお漏らしをしてしまい、それも大の方で、それがきっかけで、ヒキコモリに入る。勉強が大変で、いっぱいいっぱいになっていたのだ。
 
結局、六甲学院を中途退学、その後ずっと引きこもりを続ける。しかし成人式が迫ってくると、一念発起し大検に合格、それで愛媛大学法文学部の夜間コースに入学した。
 
ところがその大学も中退し、上京して、今度は芸人になるべく養成所に入る。
 
その間、精神的引きこもりを背負っていたので、もうひとつ仕事に身が入らず、食うや食わずの生活をしてきた。
 
じつは、この本の半ばまでは、あまり面白くはない。読者におもねった文体で、半分強までは、いささか居心地が悪い。
 
ところが、一念発起して、大検に合格するあたりからは、文章が直截で、まだけれんみはあるものの、率直に読み手の胸に響いてくる。
 
その旋回するところが、たとえば次の文章である。

「引きこもり始めて、いろいろあったが、もう完全に俺の人生は終わった……そう思っていた。少なくとも、最初望んでいたような人生はもう無理だ。人生に復帰できない。絶望を噛みしめながら毎日を過ごしていた。」

びんびん胸に届いてくるでしょう。続けて以下のようにある。

「加えてこの島の期間、振り返り、見つめ直し過ぎたせいで自分の人生がゲシュタルト崩壊を起こしたような感覚に陥り、すべてがよく分からない、手応えのないものになっていた。」
 
ここから先は、おもねった文章ではない。

小説の面白さとは?――『それまでの明日』

これは原尞が、小説の面白さを突き詰めて考え、その結果、「切れのいい文章と機知にとんだ会話」こそはその核心だ、と見極めた作品である。
 
でも、結論から言ってしまえば、それは小説の、非常に重要な味付けであって、小説の本当の面白さではない。
 
四百ページを超える長編で、私立探偵・沢崎の周りでは、事件は大小取り交ぜて、三つばかり起こる。
 
一番大きな事件は、金融ローン会社に二人組が白昼、強盗に入り、もちろん沢崎は、その場に遭遇する。ほかに、探偵を依頼してくる、謎の紳士がいる。また、幻の父を求める、若い男も出てくる。
 
事件は大きくは、この三つだが、この三件が、まるでバラバラで関係がない。しかも、どの事件も、じつに竜頭蛇尾、不発である。

押し込み強盗なんて、まったく茶番だと、沢崎自身に言わせている。

探偵仕事を依頼してくる紳士など、最後まで謎のままだ。
 
では一体、どこが面白いのか。

〈16〉の書き出しの部分。

「依頼人に会うことさえできない探偵が事務所に持ち帰ってきたのは、消費期限の切れた炭酸飲料のあぶくのような徒労感だけだった。」
 
本筋が面白いと、こういう脇の文章が、光ってくるものだが。
 
あるいは、〈22〉の冒頭。

「翌日の午後、戦力外通告を受けたスポーツ選手のように覇気のない薄曇りの陽射しの中を、私は新宿署へ出かけた。」

〈27〉の冒頭のところ。

「自分では気づかないうちに、疲労感が食べたこともない南洋の果物の果汁を絞った滓のように溜まっていた。」
 
それにしても、こうして見てくると、疲れていることの比喩が多い。原尞は、本当にもう、疲れているのかも知れない。
 
でもそれなら、僕は、最後を見届けるまで、この作者を追いかけるだろう。

(『それまでの明日』原尞、早川書房、2018年3月15日初刷)

治療法はあるか――『イップス―魔病を乗り越えたアスリートたち―』(2)

イップスは心理的な要因だけでなく、技術的な要因でも発症する。だからインタビューしていても、問題が多岐にわたりすぎていて、もうひとつ求心的に話がまとまっていかない。

五人分で五章を割いても、章ごとに拡散して、読んでいてあまり面白くない。
 
ところが、最終章の「イップスのメカニズム」だけは、なかなか面白いのである。
 
スポーツや音楽では、その道の専門家になるには、一万時間かかるといわれている。これを「一万時間の法則」といい、一日三時間の練習で、おおよそ十年間になる。

「練習量が1万時間を超えると、調整の段階に入るという。1万時間に到達するまでは、練習をやればやるほど上手くなるが、そこを超えてしまうと、練習している意味はあまりなく、練習量を取る必要はあまりないのだという。」
 
そうして1万時間を超えるとき、イップスを発症するのだという。
 
1万時間は、個人によって誤差はあるだろう。しかし調整の段階に入ると、イップスが現れるというのは、なんとなく、そういうものかと思ってしまう。
 
そして、なんと日本古来の弓道にも、イップスはある。稲垣源四郎の『弓道入門』には、次のようにある。

「はやけ 矢を引いて法のごとく納まらず、自分の意に反して離してしまう病。これには精神的に起こるものと射術の不備からくるものとがあり、難治とされている」
 
まさに、イップスそのものではないか。
 
イップスは、同じ練習を重ねていくと、それがピークに達して、発症する。これは医学的には、あまり聞いたことはないが、ジストニアと呼ばれるものである。
 
ジストニアとは、大脳に障害が起こり、筋肉に意思を伝えようとする中枢神経が、異常をきたす。これは過度に筋肉が作動して、目的通りに運動ができない、という障害である。
 
具体的に、どういう症状が見られるかといえば、NPО法人ジストニア友の会のホームページに、次のようなものがある。

「自分の意思通りに筋肉が動かなくなるわけだから、首が上下左右に傾く。足がねじれる。瞼が勝手に閉じようとする。声が出ない。鉛筆や箸が持てない。口が開いたままで閉じられない。口を閉じたまま開けられない。特定の楽器がひけない。そんな事例が見られる。」
 
こうなると、キャッチボールの比ではない。
 
最後に神経内科の准教授が、イップスに関して、面白いことを言っている。

「筋肉じゃなくて脳なんですよ。コンピューターのCドライブがいっぱいになると動かなくなるからDドライブに移すしかなくなる。あるいはいらないファイルを捨てるか。そうしないと動かないのと一緒です。」
 
一切の情報を遮断することが必要というのは、いかにもこの時代ならではの、逆説的な処方箋といえる。

(『イップス―魔病を乗り越えたアスリートたち―』
 澤宮優、角川書店、2018年1月26日初刷)