長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(2)

そうは言っても、たとえば河野多惠子に関わる、次のような箇所は、やはり迫力がある。

「多惠子が、夫として、選ぶ男は限られていた。彼女の性的傾向を受け入れる、あるいは調教され得る男性でなければならなかった。
 河野多惠子の小説は私小説ではないものの、書く題材のすべては、彼女の心の中をねっとりと、深く厚く、漉(こ)し通されなければならなかった。」
 
なかなか迫力のある一節である。もっとも、ではそれがどの程度、倒錯した行為かというと、それは書かれていない。
 
また大場みな子については、次のような記述がある。芥川賞を受賞した後、アメリカにわたり、子宮筋腫の手術で、子宮を失ったころである。

「それでもみな子さんは人一倍女性的なのか、あくまでその後も女性でありつづけたと、夫の利雄さんは告白している。……
 また、セックスの記憶は永遠だとも利雄さんの告白がある。
 子宮も片方の乳房も手術でなくしたみな子さんが死ぬまで、その体で利雄さんにセックスをせがんでいたという事実は凄まじい。」
 
こういう話しを、九十五歳の「老婆」が、あけすけにしようとするのである。これはこれで、ある迫力はある。
 
ただしこれは、河野多惠子や大場みな子に限って、文学として評価されることであろう。九十歳を超えた「老婆」2、3、4……が、これをやっても、うんざりするばかりだ(大場みな子は、九十歳を超えてはいないが、同じことだ)。
 
何が言いたいかというと、コンピューターで、大勢が文章を書く時代には、とくに年寄りが、いまわのきわまで思いのたけを書く時代には、こんな程度のことは、いくらでも出てくるだろう。
 
特に性の事柄については、匿名であるなしにかかわらず、情報があふれ、社会における深化が、いちだんと進んだような気がする。
 
そういう時代に、河野多惠子や大場みな子といったって、振り返る人は、ほとんどいない気がするが、どうだろう(それはそれで、ちょっと悲しい気もするが)。

(『いのち』瀬戸内寂聴
 講談社、2017年12月1日初刷、2018年1月25日第5刷)
posted by 中嶋 廣 at 18:48Comment(0)日記