末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(3)

「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」は、仏教研究そのものを問題にする。ここは大いに読ませる。仏教の本で、仏教研究そのものを問題にした本は、実は非常に珍しい。

それはふつう「仏教学」と呼ばれ、公認された研究分野だと思われているが、じつは、はっきりそうも言えない。

「仏教系の私立大学においては仏教学という分野があるが、それ以外の大学にはほとんどそのような学科や専門はなく、わずかに東京大学にインド哲学仏教学専修過程、京都大学に仏教学専修がある程度である。」
 
宗門大学を除けば、わずかに二校のみ。しかしそれが、東京大学と京都大学であるところがミソである。
 
その仏教学は、ブッダの精神を明らかにしようとするものであったが、そこには一つの、暗黙の前提があった。

「そのブッダの精神がまさしく大乗において顕現し、さらにそれが日本の親鸞や道元にもっともよく発揮されているというのが、日本の多くの仏教学者の常識であり、それが疑われることはほとんどなかった。その点で、歴史的には大乗非仏説でありながら、教理においては大乗仏説という村上〔専精〕の説は、その妥当性が議論されないままに継承されてきたということができる。」
 
これは暗黙の前提であって、ここを問題にすれば、足元が崩れ落ちるようなことになる。けれども、「暗黙の前提」を顕然化させた以上、この方向に向かって、突き進む以外にない。
 
鎌倉新仏教が中心でなくなれば、鎌倉時代が仏教史の上で、特権的な重要性を持つという見方も、崩れ去ることになる。

「古代・中世・近世それぞれに固有の発想があり、それを解明することが要請される。」
 
これは本当に大変なことだ。「仏教史」という、ある程度わかっているものの解明を、目指すのではなく、もう一度すべてを投げ打って、ゼロからやらなくてはならない。
 
しかし「近代仏教」に関わるさまざまな問題は、仏教の枠だけにとどまるのではなく、ひろく日本の近代を問い直し、そしてそこから、日本全体への問い直しをするものになる。
 
そのことはまた、翻って仏教とは何かを、本質的に問い直すことにもなろう。

(『思想としての近代仏教』末木文美士、中公選書、2017年11月10日初刷)
posted by 中嶋 廣 at 17:43Comment(0)日記