末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(1)

トランスビューにいるとき、末木文美士(すえき・ふみひこ)先生の『明治思想家論』と『近代日本と仏教』を出版した。共通のサブタイトルを「近代日本の思想・再考」と名付けて、Ⅰ・Ⅱとして、2004年に出したのだ。
 
このとき頭にあったのは、丸山眞男の『日本の思想』で、簡単に言ってしまえば、そこでは政治と文学だけで、「日本の思想」を代表させているというのが、物足りないというか、不満だった。
 
それで「近代日本の思想・再考」としたわけだが、こういう大きな括り方は、著者にはできにくい。著者はもっと真面目に、真摯に、微細な目で研究対象と向き合っている。
 
そこで目を変えて、編集者の努力が、まあ滅多にないことだが、実を結ぶことがある。

もちろん末木先生の、この二冊が、とび抜けて素晴らしいことが前提である。そうでなければこちらも、二冊の本で内容見本を作るような、いわば「博奕」を打つようなことはしない。

その後、「近代日本の思想・再考 Ⅲ」として、『他者・死者たちの近代』を出した。2010年のことだ。

『思想としての近代仏教』は、それ以後に、同じテーマで書かれたものを集めている。読んでみると、研究対象としては、いわゆる仏教論をはみ出して、「近代仏教」という一つの大きな独立した一ジャンルを、構成しているように見える。

だからタイトルも、『思想としての近代仏教』ではなく、『思想としての「近代仏教」』の方が、たぶんよかったと思われるが、どうか。

根柢にあるのは、鎌倉新仏教を中心とした歴史叙述が、否定されたことにある。これは法然、親鸞、道元、日蓮らが、日本の宗教史上、最高のものであり、その後、時代が下るにしたがって、仏教は堕落の一途をたどった(これを「近世仏教堕落史観」という)、といわれる見方が、否定されたことである。

だから早急に、新しい歴史叙述が必要になるのだが、これがなかなか難しい。そこでたとえば、高校の日本史あたりでは、相も変わらぬ鎌倉新仏教中心論を教えている。どうしてこういうことになるのか。

「過去の仏教的伝統をどのように見るかは、研究者自身の位置ときわめて密接に関係していることが明らかである。それとともに、逆に過去の仏教に関する研究の成果が、現代の仏教観を大きく規定していく面も見落としてはならない。伝統と近代・現代は常に相互に緊張関係に立ちながら、相互に規定しあっているのである。」
 
何となく、自分の脳そのものを対象とする、「唯脳論」の世界と、似ているような気がする。
posted by 中嶋 廣 at 16:17Comment(0)日記