続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(4)

加藤は米長邦雄とも、さんざん闘っている。米長は「泥沼流」を自称するだけあって、負け将棋と分かっていても、なかなか投げない。負け戦でも、そういう粘り方をすれば、いつかはツキも巡ってくるというのだ。
 
加藤と米長は、まったく波長の違う天才同士である。あるとき、加藤と米長が対局していると、隣で対局していた関根茂八段が、「お二人さん、最近よく顔が合うね」と声をかけてきた。

「米長棋王はこう返した。
『顔は合うけど、気は合わない』
 米長棋王のユニークさが表れた発言だが、残念ながら、私はそんなことではおどろかない。」
 
加藤は、どこまでも冷静だ。ここから、自分に対する、米長のプレッシャーを読み取っている。考えてみれば、天才・加藤は、どんな時でも、自分のよい方に解釈する。米長はたんに、気が合わないことを、述べただけかも知れないのに。
 
けれども、米長邦雄は懐かしいし、また嬉しい思い出に溢れている。なぜかといえば、米長は加藤に対して、「よく考えて指して」きたからだ。

「相手がよく考えて指してくれることは、私にとって嬉しいことなのだ。」
 
二人の天才が盤上を挟んで、沈黙のうちに対話し、棋力を振り絞って、一緒に棋譜を作り上げている。そういうことが、細かな内容まではわからないにせよ、何となく分かる。
 
加藤は名人のタイトルを、一期で、二十一歳の谷川浩司に奪われている。このときの、加藤の谷川評が面白い。

「谷川さんが指す振り飛車は、年に似合わず老練である。……あの老練さは生まれつき備わったものではないかとさえ思う。努力して身につくものではない。」
 
谷川の老練さは、大山康晴や升田幸三にもなかったものだという。この「老練さ」が何を指しているかは、よくわからない。天才は天才を知る、というところか。
 
また谷川は、加藤と同じく、どこからかやってくる導きの声を、信じているようだ。「このあたりは何かに導かれていたのではないか」とか、「ここで何か私に送られたメッセージがあったのではないか」という言葉が、よく出てくる。

この谷川の人生観は、加藤のそれによく似ている。谷川の生家は寺だから、加藤はカトリックだけれども、同じ宗教ということでは、似ているのだろう。
 
またあるとき、渡辺明竜王と話していて、「加藤先生の将棋はよく研究するのですが、私にはわかりません」と言われたことがある。
 
これに対する加藤の返答は、以下の通り。

「私は精進し、神のご加護を求めながら、名局の数々を指してきたのだ。そう簡単に他の人にわかるはずはないとも思っている。」
 
まったく可笑しいですねえ。

続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(3)

加藤は、第七期十段戦の七番勝負で、挑戦者として、稀有な経験をする。相手は大山康晴である。
 
第四局で、加藤は七時間考え、会心の名手で、大山の玉を寄せ切った。つまり、「将棋は七時間考えて絶妙手を見つけることもある奥深い世界であることを知った。」
 
さらに第六局では、危険な手を、危険を承知で、勢いで指した。大山名人が、正しく指せば、加藤の玉は即積みであったのだが、大山名人も加藤も、簡単な積みの手順に気づかなかった。加藤の直感が、勝利を呼び込んだのである。
 
このとき加藤は、悟りを得た。

「善悪を超えた世界があることを知った時、私は心がうち震えるような感動を覚えた。
 将棋とは感動できるものなのだ。私はこのことをファンに伝えていこうと思った。懇切丁寧に説明すれば、私が感じたのと同じぐらいの感動を味わってもらえるはずだ。」
 
このときの十段戦は、四勝三敗で、加藤に凱歌が上がっている。
 
でもなあ、七時間も考えたのは、凄いことだけども、それこそたとえば、藤井聡太六段であれば、もっと早くに、妙手を思いついただろうに。

また対局者が二人とも、簡単な積みを見逃すことは、めったにないことだけれども、でも、たまにはあることだ。
 
なぜここで、加藤が悟りを得たかは、正直言ってよく分からない。そういう時機が来ていたとしか、言いようがない。
 
加藤は中原誠に対しても、一時期、圧倒的に分が悪くて、最初に一勝一敗になった後は、十九連敗した。
 
それが一九七六年、第十五期十段戦で、一勝を返すことができた。二日制の対局とあって、これでようやく、対中原戦も互角になったと思われた。
 
このときの、加藤の述懐がおかしい。

「もはや、石橋を叩いても渡れない時の私ではない。石橋を叩いて渡れるようになったのだ。この違いは大きい。」
 
思わず吹き出したくなるが、「この違いは大きい」のは、加藤にしてみれば、じつに切実である。
 
一九八〇年には、聖地エルサレムとバチカンを旅した。妻から、タイトル戦が続いているから、気分転換に旅でも、と進められたのである。
 
加藤も、集中力だけでは危険であることを知っていた。集中するだけでは、視野が狭くなり、その結果、将棋の戦い方が偏狭になる。
 
そこでイスラエルの聖地を巡礼し、バチカンでは当時のローマ法王、聖ヨハネ・パウロ二世に、離れたところから、直接声をかけた。

「すると、ヨハネ・パウロ二世は私だけに向かって手を振ってくれた。私の後ろにいた日本人の神父は、その瞬間『あっ』と叫んだ。それだけ意外だったのだろう。
 私はその時、将棋用語で言うところの『香車一本強くなった』気がした。以前と比べて実力が一段階上がったという確信が体の中に湧いてきたのである。」
 
こうして加藤は、この旅行から七カ月めに、十段のタイトルを取るのである。
 
ちょっと待ってください。ローマ法王が加藤に手を振り、その結果、香車一本強くなり、それで十段のタイトルが取れた、ということで、いいのかね?
 
だいたいローマ法王が、香車一本強くなるような励まし方を、知っているのか?
 
天才・加藤は、これすべて摂理のうちだ、と考えているようだが、本当にこれでいいんだろうか。うーむ。

続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(2)

加藤が大山に、親しみを感じていたように、大山もまた加藤に、気安さを感じていたようだ。
 
あるとき、秒読みに追われる加藤の前で、大山が、「ラジオ体操いち、にっ、さん」とささやき始めたのだ。「いち、にっ、さん」というのは、もちろん加藤の名前を指している。よほどの気安さがなければ、こんな冗談は言えない。

こういうことは、そばにいる人が、ぜひ書き留めておいて下さい。とはいっても、プロしかいなくて、真剣勝負をしているときには、人の冗談を受けている暇はないか。

加藤の升田・大山論は、このあと、最大の山場を迎える。

升田九段は、将棋は突き詰めれば、答えが出ると思っていた。それに対し大山は、将棋に答えはないと思っていた。

大山が恐ろしいのは、ここから先で、「大山名人は結論が出なくても、勝つのは何だかんだといっても自分だと信じていた。」

このへんが、同じ天才でも、よくわからないところだ。

またもう一つ、加藤には、次のように分かりにくいところもある。

「(両巨匠に)何度も完敗するうちに、私もはたと気づいた。
 ……大山名人、升田九段の両巨匠は、形勢がかすかにでも指しやすくなれば、最後までそれを維持し続けて勝っている。つまり将棋にはその局面、曲面で一番いい手があるのだということに思い至った。」
 
いまごろ、そんなことに思い至るなよ、と言いたい。だってそうでしょう。一局の将棋が終われば、感想戦で、こっちの方がよかった、いや、こっちの方が、と侃々諤々やっているではないか。あれは、いったい何なのだ。

しかもこれに続けて、加藤の驚くべき告白がある。

「もし将棋に確かな手、一番いい手があるなら、人生にもきっとあるはずだ。
 ……私はちょっと行き詰っている。このまま行っても先は見えているなと感じていた。
 行き詰っているものは突破できるはずだ。それには方法があるだろうと思った。
 そう思ってカトリック教会の門をたたいた。」
 
どこをどうすれば、将棋の指し手から、カトリック教会の門が出てくるのか。天才の発想は、思いもよらない。

続・「天才」の謎に挑む――『鬼才伝説―私の将棋風雲録―』(1)

やはり藤井聡太六段が、気にかかる。

だいたい藤井聡太四段が、あっという間に、六段である。この間、五段でいたのは、半月ほどもなかったという。そんな馬鹿な!

しかし、規定はクリアしている。しかも今年のうちに、七段に上がりそうだという話だ。師匠の杉本昌隆と同じ、「七段」だよ。

弟子が師匠を追い抜いてゆくのは、よくあることだから、それは別にどうということじゃない。しかし、そのスピードが速すぎやしませんか、というのである。

そこで今度は、天才が自ら語ったものを、読んでみることにした。

そうは言っても、藤井六段は、高校生になって、まだ一月もたっていない。そこで、元祖天才・加藤一二三のものを、読むことにする。

『鬼才伝説』というが、サブタイトルの『私の将棋風雲録』の方が、メインのタイトルにふさわしい。でもまあこれは、しょうがない。げんに僕も、このタイトルに惹かれて、買ってしまった。
 
まず最初は、大山康晴十五世名人。加藤一二三の、この人に対する見方は、独特だ。

「大山流の将棋は一言でいえば気合いだ。あの人は理論派ではない。私はその手で自分が負けたとは思わなかったが、相手に響くような戦い方ができる人だった。
 その手を見ると相手はある意味、感動する。升田九段の将棋にそういったところはない。」
 
大山名人の勝負哲学は、「人間はまちがえる動物である」というものだが、これを見ると、「まちがえろ、まちがえろ」と念じて、勝負していたような気がする。
 
ここでは、大山と升田の対比が、人の言わないことを語って、見事である。天才の見方からすれば、こういうふうになるのか。
 
加藤は大山名人に対して、親しみを感じている。

「大山名人とは、会話をしたり食事をしたりと将棋以外でも交流があった。私に対してある種の気安さを感じていたのかもしれない。」
 
世間では、指し手のうえでは、大山は加藤を、なぶり殺しに近い目に遭わせ、その結果、神武以来の天才が、迷って指せなくなった。すぐに一分将棋になるのは、そのせいである、という説が、まことしやかに信じられていた。
 
かつて五味康介などは、なかなか止めを刺さない大山の素町人根性が、加藤の天才をダメにした、というようなことをいっていたが、当事者は、少なくとも加藤は、ぜんぜん違うことを考えていたのだ。
 
この章の最後に、大山と升田を比較した、端的な話が出てくる。
「升田語録には凡庸ではない言葉遣いに魅力がある。大山語録は地味ながらどこを取っても面白い。」
 
大山や升田を相手に、天才・加藤はどうどうと対峙している。

長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(2)

そうは言っても、たとえば河野多惠子に関わる、次のような箇所は、やはり迫力がある。

「多惠子が、夫として、選ぶ男は限られていた。彼女の性的傾向を受け入れる、あるいは調教され得る男性でなければならなかった。
 河野多惠子の小説は私小説ではないものの、書く題材のすべては、彼女の心の中をねっとりと、深く厚く、漉(こ)し通されなければならなかった。」
 
なかなか迫力のある一節である。もっとも、ではそれがどの程度、倒錯した行為かというと、それは書かれていない。
 
また大場みな子については、次のような記述がある。芥川賞を受賞した後、アメリカにわたり、子宮筋腫の手術で、子宮を失ったころである。

「それでもみな子さんは人一倍女性的なのか、あくまでその後も女性でありつづけたと、夫の利雄さんは告白している。……
 また、セックスの記憶は永遠だとも利雄さんの告白がある。
 子宮も片方の乳房も手術でなくしたみな子さんが死ぬまで、その体で利雄さんにセックスをせがんでいたという事実は凄まじい。」
 
こういう話しを、九十五歳の「老婆」が、あけすけにしようとするのである。これはこれで、ある迫力はある。
 
ただしこれは、河野多惠子や大場みな子に限って、文学として評価されることであろう。九十歳を超えた「老婆」2、3、4……が、これをやっても、うんざりするばかりだ(大場みな子は、九十歳を超えてはいないが、同じことだ)。
 
何が言いたいかというと、コンピューターで、大勢が文章を書く時代には、とくに年寄りが、いまわのきわまで思いのたけを書く時代には、こんな程度のことは、いくらでも出てくるだろう。
 
特に性の事柄については、匿名であるなしにかかわらず、情報があふれ、社会における深化が、いちだんと進んだような気がする。
 
そういう時代に、河野多惠子や大場みな子といったって、振り返る人は、ほとんどいない気がするが、どうだろう(それはそれで、ちょっと悲しい気もするが)。

(『いのち』瀬戸内寂聴
 講談社、2017年12月1日初刷、2018年1月25日第5刷)

長編「小説」ではなく、長編「エッセイ」――『いのち』(1)

これは僕が脳出血で倒れる前に、講談社の部長のМさんが、なんとか瀬戸内さんには命を繫いで、書き継いでほしい、とにかく素晴らしいのよ、と言っていたものだ。
 
九十五歳だから当然、最後の長編小説になる(なるんだろうねえ、たぶん)。
 
そういうわけで、瀬戸内寂聴の本を、初めて読んだ。
 
最初に断っておくと、これは長編小説ではなくて、長編エッセイである。だから帯の「大病を乗り越え、命の火を燃やして書き上げた/95歳、最後の長小説。」は、ちょっと嘘である。

話の大きな筋は、河野多惠子や、大場みな子との、長年にわたる付き合いである。これが結構、スキャンダルであるらしい。
 
河野多惠子のセックスが、かなり歪んだものであったり、大場みな子が、夫がいるにもかかわらず、夫公認で男とセックスをしたりするというのが、あけすけに書かれているのが、大きな話題を呼んだらしい。

あるいはそのために、「長編小説」と謳ったのかも知れない。

瀬戸内寂聴と、河野多惠子・大場みな子との距離は、たとえばこういうものである。

「ある時、講談社へ用があって出かけた時、何階かの廊下に返本の大場みな子全集が山と積まれているのを目撃した。新潮社の編集者の話では河野多惠子の全集もその例に漏れないと言うことだった。」
 
二人との、こういう距離の取り方が、いかにも信頼できる、という感をもたらすのだろう。しかもこれは、二人が生きていれば、無理なのである。
 
一方、瀬戸内寂聴の事情は、切羽詰まったものだ。

「一番情けないのは、腰が弱りきり、物に腰かける姿勢が、五分と保てないことだった。横たわって本を読むことはできるが、ベッドから起きあがって、机に向かうなど、全く不可能であった。」
 
一時はこういうところに追いこまれてしまうが、そこからかろうじて文章を書くまでに復活する。
 
そういうわけだから、内輪の女流の話も、有り難がって聞くべし、ということになる。

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(3)

「Ⅳ アカデミズム仏教研究の形成」は、仏教研究そのものを問題にする。ここは大いに読ませる。仏教の本で、仏教研究そのものを問題にした本は、実は非常に珍しい。

それはふつう「仏教学」と呼ばれ、公認された研究分野だと思われているが、じつは、はっきりそうも言えない。

「仏教系の私立大学においては仏教学という分野があるが、それ以外の大学にはほとんどそのような学科や専門はなく、わずかに東京大学にインド哲学仏教学専修過程、京都大学に仏教学専修がある程度である。」
 
宗門大学を除けば、わずかに二校のみ。しかしそれが、東京大学と京都大学であるところがミソである。
 
その仏教学は、ブッダの精神を明らかにしようとするものであったが、そこには一つの、暗黙の前提があった。

「そのブッダの精神がまさしく大乗において顕現し、さらにそれが日本の親鸞や道元にもっともよく発揮されているというのが、日本の多くの仏教学者の常識であり、それが疑われることはほとんどなかった。その点で、歴史的には大乗非仏説でありながら、教理においては大乗仏説という村上〔専精〕の説は、その妥当性が議論されないままに継承されてきたということができる。」
 
これは暗黙の前提であって、ここを問題にすれば、足元が崩れ落ちるようなことになる。けれども、「暗黙の前提」を顕然化させた以上、この方向に向かって、突き進む以外にない。
 
鎌倉新仏教が中心でなくなれば、鎌倉時代が仏教史の上で、特権的な重要性を持つという見方も、崩れ去ることになる。

「古代・中世・近世それぞれに固有の発想があり、それを解明することが要請される。」
 
これは本当に大変なことだ。「仏教史」という、ある程度わかっているものの解明を、目指すのではなく、もう一度すべてを投げ打って、ゼロからやらなくてはならない。
 
しかし「近代仏教」に関わるさまざまな問題は、仏教の枠だけにとどまるのではなく、ひろく日本の近代を問い直し、そしてそこから、日本全体への問い直しをするものになる。
 
そのことはまた、翻って仏教とは何かを、本質的に問い直すことにもなろう。

(『思想としての近代仏教』末木文美士、中公選書、2017年11月10日初刷)

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(2)

全体は序章+五部+終章に分けられ、序章の「伝統と近代」で、問題を大づかみにする。

仏教における「近代」とは、簡単に言えば、階層よりも平等を重んじ、地域性よりも普遍性を強調し、教団よりも個人を高く評価しようとするものだ。そしてこれは、進化の過程に到達したものではなく、むしろ、ブッダそれ自身の仏教への回帰だ。

五つの部は、以下のとおり。

「Ⅰ 浄土思想の近代」は清沢満之、曽我量深の「日蓮論」、親鸞と倉田百三が並ぶ。「Ⅱ 日蓮思想の展開」は田中智学と国体論、日蓮と「凡夫本仏論」が並び、「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」は、大拙の「日本的霊性」と中国禅思想の理解をめぐって、批判を加える。

ここでは、曽我量深の「日蓮論」をめぐって、「宗派の壁はこえられるか」というのが、非常に面白い。

「混迷する今日の日本で、仏教がその本来の役割を取り戻し、社会に道標を示すことができるためには、宗派の壁を取り払い、仏教界全体として、もう一度その本来のあるべき姿を探求しなければならないのではないか。」
 
これはさらっと書いてあるが、ほとんど革命であろう。そんなことが、本当にできるのか。

「Ⅲ 鈴木大拙と霊性論」では、「大拙批判再考」の中に、非常に大事な一節がある。佐々木閑氏による、大拙批判を引いているところである。

「佐々木は、大拙が『正しい大乗仏教の概念の提示には失敗している』として、『正しい大乗仏教』があるという前提に立っているが、はたして『正しい大乗仏教』などというものがあるのであろうか。」
 
ここは、大拙の批判そのものはおくとして、仏教を論じる場合に、二つの立場が想定されている。
末木先生の立場は、佐々木閑氏とは、相容れない。

「仏教は地域によってさまざまな展開を示すのであり、仏教はその多様性において理解されなければならない。それ故、インドの仏教を『本来』とか『正しい』というのがはたして適切かどうか、疑問である。」
 
これがやがて、「Ⅴ 大乗という問題圏」につながっていく。
 
それにしても、「仏教はその多様性において理解されなければならない」というのは、キリスト教やイスラム教に比べても、かなり難しい問題である。いや、キリスト教やイスラム教の場合も、同じことなのだろうか。

末木教授の果敢な冒険――『思想としての近代仏教』(1)

トランスビューにいるとき、末木文美士(すえき・ふみひこ)先生の『明治思想家論』と『近代日本と仏教』を出版した。共通のサブタイトルを「近代日本の思想・再考」と名付けて、Ⅰ・Ⅱとして、2004年に出したのだ。
 
このとき頭にあったのは、丸山眞男の『日本の思想』で、簡単に言ってしまえば、そこでは政治と文学だけで、「日本の思想」を代表させているというのが、物足りないというか、不満だった。
 
それで「近代日本の思想・再考」としたわけだが、こういう大きな括り方は、著者にはできにくい。著者はもっと真面目に、真摯に、微細な目で研究対象と向き合っている。
 
そこで目を変えて、編集者の努力が、まあ滅多にないことだが、実を結ぶことがある。

もちろん末木先生の、この二冊が、とび抜けて素晴らしいことが前提である。そうでなければこちらも、二冊の本で内容見本を作るような、いわば「博奕」を打つようなことはしない。

その後、「近代日本の思想・再考 Ⅲ」として、『他者・死者たちの近代』を出した。2010年のことだ。

『思想としての近代仏教』は、それ以後に、同じテーマで書かれたものを集めている。読んでみると、研究対象としては、いわゆる仏教論をはみ出して、「近代仏教」という一つの大きな独立した一ジャンルを、構成しているように見える。

だからタイトルも、『思想としての近代仏教』ではなく、『思想としての「近代仏教」』の方が、たぶんよかったと思われるが、どうか。

根柢にあるのは、鎌倉新仏教を中心とした歴史叙述が、否定されたことにある。これは法然、親鸞、道元、日蓮らが、日本の宗教史上、最高のものであり、その後、時代が下るにしたがって、仏教は堕落の一途をたどった(これを「近世仏教堕落史観」という)、といわれる見方が、否定されたことである。

だから早急に、新しい歴史叙述が必要になるのだが、これがなかなか難しい。そこでたとえば、高校の日本史あたりでは、相も変わらぬ鎌倉新仏教中心論を教えている。どうしてこういうことになるのか。

「過去の仏教的伝統をどのように見るかは、研究者自身の位置ときわめて密接に関係していることが明らかである。それとともに、逆に過去の仏教に関する研究の成果が、現代の仏教観を大きく規定していく面も見落としてはならない。伝統と近代・現代は常に相互に緊張関係に立ちながら、相互に規定しあっているのである。」
 
何となく、自分の脳そのものを対象とする、「唯脳論」の世界と、似ているような気がする。

文体だけではしょうがない――『銀河鉄道の父』

これは、僕にはつまらない小説だった。宮沢賢治の父親の立場から、一家の消長を描いているのだが、これがなんとも物足りない。
 
賢治の内面まで抉って書いてあって、そこに父の立場から、深いところまで絡んでゆくことを期待するも、大いなる空振りである。
 
べつにこれなら、宮沢賢治でなくてもかまわない。しかし早逝した賢治だと、あらかじめ知っている者が多い。あるいは賢治というだけで、ある読者数が見込める。その数を当て込んだだけとも言える。
 
ただ、文体だけはいい。そして、ほとんどそれだけの勝負になる。

「この生き馬の目をぬく世の中にあって商家がつぶれず生きのこるには、家族みんなが意識たかく、いわば人工的な日々をすごさなければならぬ。家そのものを組織としなければならぬ。生活というのは、するものではない。
 ――つくるものだ。
 というのが政次郎の信条だった。封建思想ではなく合理的結論。」
 
これが、父・政次郎の考えだったのだが、冒頭近くでこんな叙述を読めば、いやが上にも期待は高まる。ついつい前のめりになって読み進めたが、これがどうも、スカを喰らった。
 
宮沢賢治が赤痢で入院し、それを政次郎が、何日も夜通し看病し、治してやる。そのようすを、政次郎の父の喜助が、こういうふうに言う。

「『お前は、父でありすぎる』
 それが赤痢よりも遥かに深刻な病であるかのような、憂いにみちた口調だった。」
 
うまい。それでついつい調子に乗って読み進む。
 
また政次郎が、子供のことで、夜更けて内省する場面がある。
「子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る。そんなことを思ったりした。」

「心の燃料」という言い回しが、心憎いばかりにうまい。それでまた続けて読んでしまう。
 
こういう場面もある。
「ひょっとしたら質屋などという商売よりもはるかに業ふかい、利己的でしかも利他的な仕事、それが父親なのかもしれなかった。」

「利己的でしかも利他的な仕事、それが父親」なんて、言われてみればその通りだと思うけど、でもなかなか言えないセリフだ。
 
ただこれは、宮沢賢治の父親である必要は、全くない。
 
まだまだ文章で光るところは、いくらでもあるのだが、賢治や、その妹・トシが描けていないために、一族の絡み、父と子の葛藤という、一番のダイナミックな点に至っていない。
 
門井慶喜は、何よりも文章が大事で、文章をいじっていれば、それで満足しているのだろう。

(『銀河鉄道の父』門井慶喜、
 講談社、2017年9月12日初刷、2018年1月9日第二刷)