次は、外国旅行中のもの。「ネパール・ムスタン」の小見出しがある。
三千の標高に咲く駱駝草よりそうようにコスモス揺れる
岨谷(そばだに)に荷を負うラバとすれちがうただ静かなりラバ(カッチャル)の群れ
こういう、内に抒情を秘めた叙景の歌がいい。しかしそれでも、著者は鋭敏に、世界を見ることを止めない。
突き出すように鉄砲百合が咲きましたもう引き返せないイラク派遣は
そうかと思えば、やっぱり夫婦。次のような歌は、鷲尾賢也さんのものだといっても、そのまま通るんじゃないか。なんだか鷲尾賢也さんの声で、詠みたくなる。
わが贔屓長谷川、魁傑、栃東ねばりが足りぬ そうかもしれぬ
「ねばりが足りぬ そうかもしれぬ」の辺りの呼吸が、なんとも言えません。
けれども、次のような歌は、この人独特の空間把握力を示している。
百円ショップビルごと消えると聞いた夜の夢にあふれて咲くゼラニウム
みどりごのあくびにゆるぶ秋の日の電車が高架の橋にかかれり
自分は一見したところ、何も変わらない。けれども胸の奥底で、はっきりある景色が見えている。それをとらえて短歌に詠む。この奥底に秘めた、微細だが豊かな景色は、この人に独特なものだ。
それをちょっと変形させると、同じ微細な空間でも、圧倒的な情感が生まれる。
樋のなかにも咲きこぼれたる百日紅ははと見上げし家ももうなし
母の家もうない、ないよ 通いたる小路のあかい椿おちたり
「うちのめされてあなたをおもう」――『歌集 褐色のライチ』(1)
鷲尾賢也氏は講談社で、おもに人文書の編集者として腕を振るい、重役にまでなったが、早期に退職された。そののちは、出版を中心に、評論家として健筆を揮い、大立者の地位を占めた。
けれども2014年2月、69歳のとき脳出血で、まったく突然に、世を去ってしまわれた。
鷲尾さんは、編集者として、また評論家として、多大な功績をあげられたが、しかしまた、別の顔をもっていた。
小高賢という名で、いくつもの歌集を出し、また短歌評論もするという歌人だった。
そして夫人も、鷲尾三枝子という本名で、同じく歌集を出されている。
いつか鷲尾さんに、夫婦で歌人とは、河野裕子と永田和宏みたいですね、と言ったら、うちは、夫婦の中心に短歌があるという家ではないよ、と言われた。
『褐色のライチ』は、鷲尾三枝子さんの三冊目の歌集である。
そしてこれには、最後に鷲尾さんへの挽歌が載っている。それは、よほど覚悟を決めて読まなくては、ならないものだ。
初めから、読んでいこう。そうしなければ、終わりまで来たときに、絶句して、なにも書けなくなってしまう。
ちなみに僕は、鷲尾三枝子さんの歌集の読むのは、初めてである。
「NO WAR」ウヲーウヲに聞こえればNOにおおきくアクセントおく
二十分の修理待つ間の話題なり憲法九条沖自転車店
やっぱり、鷲尾賢也さんと同じく、三枝子さんも、どちらかと言えば左寄り、進歩派の人だ。考えてみれば、鷲尾賢也さんは、丸山眞男の弟子だから、そういう人と夫婦になるのは、いってみれば、同士というようなところがあるのだろう。「ウヲーウヲに聞こえれば」、というところが、明るさがあって面白い。
転ばぬようにおみな三人(みたり)が腕を組み雪道くだる靴キューと泣く
これは、「新潟県浦佐では三月三日に雪の夜祭がある。」の詞書きを付したもの。どうしても三枝子夫人の向こうに、鷲尾賢也さんが見え隠れし、ついついちょっとキュートなものを、取り上げたくなる。三枝子さんには迷惑なことであろうが。
けれども2014年2月、69歳のとき脳出血で、まったく突然に、世を去ってしまわれた。
鷲尾さんは、編集者として、また評論家として、多大な功績をあげられたが、しかしまた、別の顔をもっていた。
小高賢という名で、いくつもの歌集を出し、また短歌評論もするという歌人だった。
そして夫人も、鷲尾三枝子という本名で、同じく歌集を出されている。
いつか鷲尾さんに、夫婦で歌人とは、河野裕子と永田和宏みたいですね、と言ったら、うちは、夫婦の中心に短歌があるという家ではないよ、と言われた。
『褐色のライチ』は、鷲尾三枝子さんの三冊目の歌集である。
そしてこれには、最後に鷲尾さんへの挽歌が載っている。それは、よほど覚悟を決めて読まなくては、ならないものだ。
初めから、読んでいこう。そうしなければ、終わりまで来たときに、絶句して、なにも書けなくなってしまう。
ちなみに僕は、鷲尾三枝子さんの歌集の読むのは、初めてである。
「NO WAR」ウヲーウヲに聞こえればNOにおおきくアクセントおく
二十分の修理待つ間の話題なり憲法九条沖自転車店
やっぱり、鷲尾賢也さんと同じく、三枝子さんも、どちらかと言えば左寄り、進歩派の人だ。考えてみれば、鷲尾賢也さんは、丸山眞男の弟子だから、そういう人と夫婦になるのは、いってみれば、同士というようなところがあるのだろう。「ウヲーウヲに聞こえれば」、というところが、明るさがあって面白い。
転ばぬようにおみな三人(みたり)が腕を組み雪道くだる靴キューと泣く
これは、「新潟県浦佐では三月三日に雪の夜祭がある。」の詞書きを付したもの。どうしても三枝子夫人の向こうに、鷲尾賢也さんが見え隠れし、ついついちょっとキュートなものを、取り上げたくなる。三枝子さんには迷惑なことであろうが。
冷静に、ひたすら冷静に読む――『Black Box ブラックボックス』(4)
「政府サイドが各メディアに対し、あれは筋の悪いネタだから触れないほうが良いなどと、報道自粛を勧めている」というのは、この本の中で、最も重要な一節だ。
密室における、きわめて個人的な犯罪行為を、政府の誰かが、わざわざそういうふうに、曲解して流している。普通なら、とても考えられないことだ。
このことが、個人的犯罪行為を、政治的事件に、一変させることになる。犯罪に加担する側は、もうすでにつまずき、転んでいるのだ。
著者の伊藤詩織さんは、この出どころを、徹底的に探るべきだった。誰が流しているのか、特定すべきだった。
しかしもちろん、外野が著者に、こういうふうにすべきである、と言うのは簡単である。実際にそんなふうに進めば、たちまち著者は、たとえば不可解な交通事故に、巻き込まれたりするだろう。
ほかにも滑稽というか、不可思議なことは、起こっている。一つは、なぜ逮捕を取りやめたのかを、中村格氏に会って、確かめようとしたときである。
今回、この本を出すに際して、著者は中村氏への取材を、二度試みた。
「出勤途中の中村氏に対し、『お話をさせて下さい』と声をかけようとしたところ、彼はすごい勢いで逃げた。人生で警察を追いかけることがあるとは思わなかった。」
こりゃ、おかしいや、ですむ問題ではない。仕方がないので、中村氏には、文書による質問状を出した。しかし回答は、まだ来ていないという。
あるいは、山口氏の逮捕が取りやめになり、検事が交替したとき。二度目に面会したとき、この検事は最後にこう語った。
「この事件は、山口氏が本当に悪いと思います。こんなことをやって、しかも既婚で、社会的にそれなりの組織にいながら、それを逆手にとってあなたの夢につけこんだのですから。それだけでも十分に被害に値するし、絶対に許せない男だと思う。
・・・・・・検察側としては、有罪にできるよう考えたけれど、証拠関係は難しいというのが率直なところです。ある意味とんでもない男です。こういうことに手馴れている。他にもやっているのではないかとおもいます」。
これ、本当にこう言ったのかね。この本が差し止めになってない以上、この検事はこう言ったのだろう。
でも本当に、手馴れた「レイプ魔」だとすると、野放しにしておいては、いけないのではないか。
アメリカでは女優が、少し前からセクシャル・ハラスメントの被害を、公けにすることが盛んになってきた。大物プロデューサーや国会議員が、それによって失脚している。
日本のこれは、しかしセクハラどころの騒ぎではない。日本のマスコミが沈黙したとしても、海外のマスコミは、黙っていないのではないか。そうなる前に、日本のマスコミは、真相を暴かなければいけない。
(『Black Box ブラックボックス』
伊藤詩織、文藝春秋、2017年10月20日初刷)
密室における、きわめて個人的な犯罪行為を、政府の誰かが、わざわざそういうふうに、曲解して流している。普通なら、とても考えられないことだ。
このことが、個人的犯罪行為を、政治的事件に、一変させることになる。犯罪に加担する側は、もうすでにつまずき、転んでいるのだ。
著者の伊藤詩織さんは、この出どころを、徹底的に探るべきだった。誰が流しているのか、特定すべきだった。
しかしもちろん、外野が著者に、こういうふうにすべきである、と言うのは簡単である。実際にそんなふうに進めば、たちまち著者は、たとえば不可解な交通事故に、巻き込まれたりするだろう。
ほかにも滑稽というか、不可思議なことは、起こっている。一つは、なぜ逮捕を取りやめたのかを、中村格氏に会って、確かめようとしたときである。
今回、この本を出すに際して、著者は中村氏への取材を、二度試みた。
「出勤途中の中村氏に対し、『お話をさせて下さい』と声をかけようとしたところ、彼はすごい勢いで逃げた。人生で警察を追いかけることがあるとは思わなかった。」
こりゃ、おかしいや、ですむ問題ではない。仕方がないので、中村氏には、文書による質問状を出した。しかし回答は、まだ来ていないという。
あるいは、山口氏の逮捕が取りやめになり、検事が交替したとき。二度目に面会したとき、この検事は最後にこう語った。
「この事件は、山口氏が本当に悪いと思います。こんなことをやって、しかも既婚で、社会的にそれなりの組織にいながら、それを逆手にとってあなたの夢につけこんだのですから。それだけでも十分に被害に値するし、絶対に許せない男だと思う。
・・・・・・検察側としては、有罪にできるよう考えたけれど、証拠関係は難しいというのが率直なところです。ある意味とんでもない男です。こういうことに手馴れている。他にもやっているのではないかとおもいます」。
これ、本当にこう言ったのかね。この本が差し止めになってない以上、この検事はこう言ったのだろう。
でも本当に、手馴れた「レイプ魔」だとすると、野放しにしておいては、いけないのではないか。
アメリカでは女優が、少し前からセクシャル・ハラスメントの被害を、公けにすることが盛んになってきた。大物プロデューサーや国会議員が、それによって失脚している。
日本のこれは、しかしセクハラどころの騒ぎではない。日本のマスコミが沈黙したとしても、海外のマスコミは、黙っていないのではないか。そうなる前に、日本のマスコミは、真相を暴かなければいけない。
(『Black Box ブラックボックス』
伊藤詩織、文藝春秋、2017年10月20日初刷)
冷静に、ひたすら冷静に読む――『Black Box ブラックボックス』(3)
その後、著者と山口敬之氏との間で、緊迫したメールのやり取りがあり、また原宿署の担当刑事の努力もあって、山口氏は、アメリカを発って日本に入国してきたところを、逮捕されることになった。
しかしその直前、逮捕は取り止めになる。著者が頼りにしていた刑事は、担当を外され、この事件を管轄していた検事も、担当を外された。これは、まったく異例のことだという。
この事件は、警視庁が扱うことになったのだ。
著者の弁護士は、この話を聞いて、「こんなテレビドラマみたいな話が本当にあるのか」と驚いたという。逮捕状を取って、逮捕される直前に、取りやめになるというのは、あまりに不自然だからだ。
逮捕状は、なぜ執行されなかったのか。
「上層部の一言で裁判所の決定が覆され、逮捕が行われず、捜査が闇に葬られてしまったのだとしたら、それは徹底的に問うべき問題であった。」
ここではじめて、山口敬之氏と、安倍晋三首相の話が出てくる。
「山口氏は、検事による聴取から四ヶ月ほど経った二〇一六年五月三十日、TBSを退社した。ひと月後、安倍首相について書いた『総理』(幻冬舎)という本を上梓し、コメンテーターとして、さかんにテレビに登場するようになった。」
つまり、こういうことのために、逮捕は見送られたのではないか、というのが、著者の推測するところである。
しかし、一国の最相、またはその周辺が、いくら提灯記事を書いてくれたからといって、その記者が犯したレイプ事件を、握り潰すだろうか。
でも著者と一部マスコミは、はっきりそういう道筋を示している。
「『山口逮捕』の情報を耳にした本部の広報課長が、『TBSの記者を逮捕するのはオオゴトだ』と捉え、刑事部長や警視総監に話が届いた。
なかでも、菅(義偉)官房長官の秘書官として絶大な信頼を得てきた中村格刑事部長(当時)が隠蔽を指示した可能性が、これまでに取り沙汰されてきた。」(「週刊新潮」2017年五5月18日号、著者による抜粋)
これは相当、踏み込んだ書き方だ。森友学園や加計学園の場合は、いかにも程度の低いごたごたが起きているけれど、しかし、その程度の低さ加減も含めて、これはいかにもという気がする。
それにこれらは、法に定めたことに違反しているかどうかの、法定犯罪にかかわる事件だ。
けれども、こちらは「レイプ事件」である。森友や加計とは、まったく水準が違う。
著者はあるとき、知人のジャーナリストから、こんな連絡をもらった。
「政府サイドが各メディアに対し、あれは筋の悪いネタだから触れないほうが良いなどと、報道自粛を勧めている。
・・・・・・なぜ政府サイドがここまで本件に介入する必要があるのか、不可解。」
「政府サイド」が、マスコミに圧力をかける。よしゃあいいのになあ。こういうのを、馬脚を露わすという。
しかしその直前、逮捕は取り止めになる。著者が頼りにしていた刑事は、担当を外され、この事件を管轄していた検事も、担当を外された。これは、まったく異例のことだという。
この事件は、警視庁が扱うことになったのだ。
著者の弁護士は、この話を聞いて、「こんなテレビドラマみたいな話が本当にあるのか」と驚いたという。逮捕状を取って、逮捕される直前に、取りやめになるというのは、あまりに不自然だからだ。
逮捕状は、なぜ執行されなかったのか。
「上層部の一言で裁判所の決定が覆され、逮捕が行われず、捜査が闇に葬られてしまったのだとしたら、それは徹底的に問うべき問題であった。」
ここではじめて、山口敬之氏と、安倍晋三首相の話が出てくる。
「山口氏は、検事による聴取から四ヶ月ほど経った二〇一六年五月三十日、TBSを退社した。ひと月後、安倍首相について書いた『総理』(幻冬舎)という本を上梓し、コメンテーターとして、さかんにテレビに登場するようになった。」
つまり、こういうことのために、逮捕は見送られたのではないか、というのが、著者の推測するところである。
しかし、一国の最相、またはその周辺が、いくら提灯記事を書いてくれたからといって、その記者が犯したレイプ事件を、握り潰すだろうか。
でも著者と一部マスコミは、はっきりそういう道筋を示している。
「『山口逮捕』の情報を耳にした本部の広報課長が、『TBSの記者を逮捕するのはオオゴトだ』と捉え、刑事部長や警視総監に話が届いた。
なかでも、菅(義偉)官房長官の秘書官として絶大な信頼を得てきた中村格刑事部長(当時)が隠蔽を指示した可能性が、これまでに取り沙汰されてきた。」(「週刊新潮」2017年五5月18日号、著者による抜粋)
これは相当、踏み込んだ書き方だ。森友学園や加計学園の場合は、いかにも程度の低いごたごたが起きているけれど、しかし、その程度の低さ加減も含めて、これはいかにもという気がする。
それにこれらは、法に定めたことに違反しているかどうかの、法定犯罪にかかわる事件だ。
けれども、こちらは「レイプ事件」である。森友や加計とは、まったく水準が違う。
著者はあるとき、知人のジャーナリストから、こんな連絡をもらった。
「政府サイドが各メディアに対し、あれは筋の悪いネタだから触れないほうが良いなどと、報道自粛を勧めている。
・・・・・・なぜ政府サイドがここまで本件に介入する必要があるのか、不可解。」
「政府サイド」が、マスコミに圧力をかける。よしゃあいいのになあ。こういうのを、馬脚を露わすという。
冷静に、ひたすら冷静に読む――『Black Box ブラックボックス』(2)
その前に、タイトルについて述べておこう。『ブラックボックス』は、密室の中で起こったことは、第三者には分からないということ、つまりこれは「藪の中」を指す言葉だ。
これは著者の言葉ではなく、検事がこの事件のことを指して、呼んでいたのだという。
事件が起こったとき、どこにも相談することができない、というのが、この本を書いた最初の動機だ。心身に最大のダメージを受けているとき、自力で適切な病院を、探さなければいけないのは、じつに困難なことだ。
ネットで、性暴力の被害者を支援するNPOを見つけて、電話したけれど、とにかく一度出かけてこなければ、相談に応じないと言われて、そのときの著者には、気力が残っていなかった。
「そうしている間にも、証拠保全に必要な血液検査やDNA採取を行える大事な時間は、どんどん過ぎ去っていた。当時の私には、想像もできなかった。この事実をどこかで知っていたら、と後悔している。」
だから、他の女性のために、いや女性のためとは限らないわけで、この本を書いている。
「電話での問い合わせに対し、簡単な対処法さえ教えないのは、今考えても納得できない。公的な機関による啓蒙サイトを作り、検索の上位に上るようにするだけでも、救われる人はいるのではないか。」
これが著者の、最も訴えたいことなのだ。
と同時に、顔見知りにレイプされても、それを認めたくないという、独特の心理の陥穽も経験している。
「この時点では、強制的に性行為が行われていたことはわかっていても、それがレイプだったと認識することができなかった。普通に考えればそうだったのだが、この時の私はどこかで、レイプとは見知らぬ人に突然襲われるものだと思っていたのだろう。そしてどこかで、レイプという被害を受けたことを、認めたくなかったのだと思う。」
これは一般に言われることだが、教育によって、変えていくしかないのだろう。
「デートレイプドラッグ」については、著者と山口氏とで、もっとも主張が割れるところだ。そして著者は、デートレイプドラッグが用いられたということを、確信している。
「インターネットでアメリカのサイトを検索してみると、デートレイプドラッグを入れられた場合に起きる記憶障害や吐き気の症状は、自分の身に起きたことと、驚くほど一致していた。」
もしかりに、デートレイプドラッグを疑ったとしても、それは一回の使用で、すぐに体内から出てしまう。そうすると、本当はどうすればよかったのか。
「私は『とにかく、早くその場から離れたくて飛び出してしまったけれど、ホテルから110番すべきだった』と後悔した。」
それはそうかもしれない。しかし、「レイプ慣れ」した人ならともかく、そんなふうに、冷静に処理するのが無理なことは、言うまでもないと思うが、どうか。
これは著者の言葉ではなく、検事がこの事件のことを指して、呼んでいたのだという。
事件が起こったとき、どこにも相談することができない、というのが、この本を書いた最初の動機だ。心身に最大のダメージを受けているとき、自力で適切な病院を、探さなければいけないのは、じつに困難なことだ。
ネットで、性暴力の被害者を支援するNPOを見つけて、電話したけれど、とにかく一度出かけてこなければ、相談に応じないと言われて、そのときの著者には、気力が残っていなかった。
「そうしている間にも、証拠保全に必要な血液検査やDNA採取を行える大事な時間は、どんどん過ぎ去っていた。当時の私には、想像もできなかった。この事実をどこかで知っていたら、と後悔している。」
だから、他の女性のために、いや女性のためとは限らないわけで、この本を書いている。
「電話での問い合わせに対し、簡単な対処法さえ教えないのは、今考えても納得できない。公的な機関による啓蒙サイトを作り、検索の上位に上るようにするだけでも、救われる人はいるのではないか。」
これが著者の、最も訴えたいことなのだ。
と同時に、顔見知りにレイプされても、それを認めたくないという、独特の心理の陥穽も経験している。
「この時点では、強制的に性行為が行われていたことはわかっていても、それがレイプだったと認識することができなかった。普通に考えればそうだったのだが、この時の私はどこかで、レイプとは見知らぬ人に突然襲われるものだと思っていたのだろう。そしてどこかで、レイプという被害を受けたことを、認めたくなかったのだと思う。」
これは一般に言われることだが、教育によって、変えていくしかないのだろう。
「デートレイプドラッグ」については、著者と山口氏とで、もっとも主張が割れるところだ。そして著者は、デートレイプドラッグが用いられたということを、確信している。
「インターネットでアメリカのサイトを検索してみると、デートレイプドラッグを入れられた場合に起きる記憶障害や吐き気の症状は、自分の身に起きたことと、驚くほど一致していた。」
もしかりに、デートレイプドラッグを疑ったとしても、それは一回の使用で、すぐに体内から出てしまう。そうすると、本当はどうすればよかったのか。
「私は『とにかく、早くその場から離れたくて飛び出してしまったけれど、ホテルから110番すべきだった』と後悔した。」
それはそうかもしれない。しかし、「レイプ慣れ」した人ならともかく、そんなふうに、冷静に処理するのが無理なことは、言うまでもないと思うが、どうか。
冷静に、ひたすら冷静に読む――『Black Box ブラックボックス』(1)
これは、よく本にしたと思う。著者の伊藤詩織さんも、苦しいところをよく書き上げたと思うし、文藝春秋も、話題を呼ぶことは必至とはいえ、時の首相の側にいる人間たちを向こうに回し、正面から喧嘩を売ったのだから、やっぱりよくやると思う。
問題は、大まかに三点ある。
一つは、当時TBSのワシントン支局長の山口敬之氏が、著者をレイプしたのかどうか。
二つめは、著者は少なくともレイプされたと信じたのだが、その場合、すぐにどこに駆け込めばよかったのか。
三つめは、山口氏に逮捕状が出ていたにもかかわらず、なぜ直前になって、逮捕は取りやめになったのか。
伊藤詩織さんが、この本を書いた直接の動機は、二つめの点にある。
「繰り返すが、私が本当に話したいのは、『起こったこと』そのものではない。
『どう起こらないようにするか』
『起こってしまった場合、どうしたら助けを得ることができるのか』
という未来の話である。それを話すために、あえて『過去に起こったこと』を話しているだけなのだ。」
後の二つのことは、じつはこの本では、どうにもならない。というか、最終決着はつけられない。
本の帯に、「真実は、/ここに/ある。」とあるが、レイプ事件そのものに関しては、著者からみた真実であって、山口敬之氏は当然、正反対の主張をするだろう。
山口氏も、言論を武器として戦っているのだから、当然反論をすべきだ。レイプ事件の場合、女性がレイプされたと言い、男は和姦だったと言う。
つまり裁判所の中では、みずかけ論で終わりやすいのだが、この場合は、男女二人とも、言論を武器として戦っているわけだから、裁判所とは別の、公けの舞台を、設えることができる。
そして伊藤さんは、その舞台に勇躍、身を投じたのだ。こんどは山口氏の番だ。ここで出ていかなければ、まさに男がすたる。ここで逃げ隠れすれば、これから一生涯にわたって、「レイプ魔」と呼ばれることになるだろう。それは堪えられないはずだ。
その意味で、まだ幕は切って落とされたばかりなのだ。
三つめの、逮捕状が出ていたにもかかわらず、なぜ直前になって、逮捕は取りやめになったのかについては、これはややこしい。
その前に、まず本書を順番に見ていこう。
問題は、大まかに三点ある。
一つは、当時TBSのワシントン支局長の山口敬之氏が、著者をレイプしたのかどうか。
二つめは、著者は少なくともレイプされたと信じたのだが、その場合、すぐにどこに駆け込めばよかったのか。
三つめは、山口氏に逮捕状が出ていたにもかかわらず、なぜ直前になって、逮捕は取りやめになったのか。
伊藤詩織さんが、この本を書いた直接の動機は、二つめの点にある。
「繰り返すが、私が本当に話したいのは、『起こったこと』そのものではない。
『どう起こらないようにするか』
『起こってしまった場合、どうしたら助けを得ることができるのか』
という未来の話である。それを話すために、あえて『過去に起こったこと』を話しているだけなのだ。」
後の二つのことは、じつはこの本では、どうにもならない。というか、最終決着はつけられない。
本の帯に、「真実は、/ここに/ある。」とあるが、レイプ事件そのものに関しては、著者からみた真実であって、山口敬之氏は当然、正反対の主張をするだろう。
山口氏も、言論を武器として戦っているのだから、当然反論をすべきだ。レイプ事件の場合、女性がレイプされたと言い、男は和姦だったと言う。
つまり裁判所の中では、みずかけ論で終わりやすいのだが、この場合は、男女二人とも、言論を武器として戦っているわけだから、裁判所とは別の、公けの舞台を、設えることができる。
そして伊藤さんは、その舞台に勇躍、身を投じたのだ。こんどは山口氏の番だ。ここで出ていかなければ、まさに男がすたる。ここで逃げ隠れすれば、これから一生涯にわたって、「レイプ魔」と呼ばれることになるだろう。それは堪えられないはずだ。
その意味で、まだ幕は切って落とされたばかりなのだ。
三つめの、逮捕状が出ていたにもかかわらず、なぜ直前になって、逮捕は取りやめになったのかについては、これはややこしい。
その前に、まず本書を順番に見ていこう。
内側から見れば――『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』(3)
しかし結局は、血筋なのだろう。長澤さんの祖父も、新しいものに関心が強かったという。
父は、旧制浦和中学の十代半ばのころ、謄写版刷りの同人誌を出したりしていた。それらはやがて、「体系もヒエラルキーもない雑多な体験や知識、位相やジャンルの異なるさまざまな人々やことがらが共存」したまま、それが形を変え、歌になっていったのだ。
しかし加藤克巳の歌が、一瞬変わったときがある。それは妻を見送った、長澤さんからすれば、母を看取ったときだ。
「難解な歌人」とは裏腹に、このときは、直接的でナマな歌に溢れている。これはどういうことなのか。
「おそらくなるべく具体的に、なるべく直截にいわばベタな表現で歌にすることは、新たに独り者としての生活を立ち上げ、整えるために、父が自ら考えたグリーフケアの処方箋であったのではないだろうか。」
この時期の歌を、ぜひ読みたい。長澤さんは、「この一時期の歌が良い歌かどうかは私にはまったくわからない。何しろあまり読んでいないのだから」といわれるけれど、ここは是非とも数首、挙げてほしかったと思う。肉親であることを超えて、加藤克巳の心理の底に、肉薄してほしかったと思う。
いや、大層にいう必要はない。数首挙げておけば、あとは読者が判断するだろう。
終わり近く、加藤克巳が亡くなる前の病室で、長澤さんは、俳句雑誌を見ていて、山口誓子の句を、声に出して読んだ。
「蛍獲て少年の指みどりなり」
すると、それまでまどろんでいた父が、やにわに反応した。それは「獲て」ではなくて、「飛び」のほうがいいという。つまり、山口誓子を添削したのだ。
「蛍飛び少年の指みどりなり」
この違いが、分かるだろうか。微細な差だが、決定的に違う。
誓子の句では、少年の手の中のホタルが、指を透かして「みどり」に輝いている。
それに対し、加藤克巳の句では、少年は蛍を獲ったわけではない。少年の指が、なぜ「みどり」なのかは、直接的にはわからない。
「ただ、水辺で輝く蛍を追っている少年の白くて薄い指が、光を映してかみどり色に輝いているように見える、と突き放している。」
素直に意味が通るのであれば、それは父の歌ではないと、長澤さんは言う。
「発想は必ず、意味や脈絡を『飛び』こえ、遊んでいるのが私にとっての父なのだった。」
この病室の一場面だけでも、この回想には、はかり知れない価値がある。
(『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』
長澤洋子、短歌研究社、2018年1月8日初刷)
父は、旧制浦和中学の十代半ばのころ、謄写版刷りの同人誌を出したりしていた。それらはやがて、「体系もヒエラルキーもない雑多な体験や知識、位相やジャンルの異なるさまざまな人々やことがらが共存」したまま、それが形を変え、歌になっていったのだ。
しかし加藤克巳の歌が、一瞬変わったときがある。それは妻を見送った、長澤さんからすれば、母を看取ったときだ。
「難解な歌人」とは裏腹に、このときは、直接的でナマな歌に溢れている。これはどういうことなのか。
「おそらくなるべく具体的に、なるべく直截にいわばベタな表現で歌にすることは、新たに独り者としての生活を立ち上げ、整えるために、父が自ら考えたグリーフケアの処方箋であったのではないだろうか。」
この時期の歌を、ぜひ読みたい。長澤さんは、「この一時期の歌が良い歌かどうかは私にはまったくわからない。何しろあまり読んでいないのだから」といわれるけれど、ここは是非とも数首、挙げてほしかったと思う。肉親であることを超えて、加藤克巳の心理の底に、肉薄してほしかったと思う。
いや、大層にいう必要はない。数首挙げておけば、あとは読者が判断するだろう。
終わり近く、加藤克巳が亡くなる前の病室で、長澤さんは、俳句雑誌を見ていて、山口誓子の句を、声に出して読んだ。
「蛍獲て少年の指みどりなり」
すると、それまでまどろんでいた父が、やにわに反応した。それは「獲て」ではなくて、「飛び」のほうがいいという。つまり、山口誓子を添削したのだ。
「蛍飛び少年の指みどりなり」
この違いが、分かるだろうか。微細な差だが、決定的に違う。
誓子の句では、少年の手の中のホタルが、指を透かして「みどり」に輝いている。
それに対し、加藤克巳の句では、少年は蛍を獲ったわけではない。少年の指が、なぜ「みどり」なのかは、直接的にはわからない。
「ただ、水辺で輝く蛍を追っている少年の白くて薄い指が、光を映してかみどり色に輝いているように見える、と突き放している。」
素直に意味が通るのであれば、それは父の歌ではないと、長澤さんは言う。
「発想は必ず、意味や脈絡を『飛び』こえ、遊んでいるのが私にとっての父なのだった。」
この病室の一場面だけでも、この回想には、はかり知れない価値がある。
(『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』
長澤洋子、短歌研究社、2018年1月8日初刷)
内側から見れば――『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』(2)
鋭角的で、モダニスト歌人といわれた、加藤克巳を予測していると、この本は最初から、背負い投げを喰わせる。
「これは、昭和のある時期に、家で子どもたちをよく笑わせてくれた面白い父親のものがたりである。」
戦前の「威厳ある昭和の父」とは、まったく関係のない、快活な物語が始まる。
長澤さんは幼い頃から、父に、「面白い」とか「ステキだ」という言葉を、聞かされて育った。ひょっとすると父は、自分に向かって、そう言っていたのかとも思う。
「世界がそんなに『ステキ』で『面白い』ことに満ちていないのは、大人になるにつれ私もだんだんと知るようになる。しかし身体に刻みこまれたこの長調のトーンは今手でもふと蘇ることがあり、心がやわらぐ。」
「昭和の父」でも、こんな人もいるんだ。いや、昭和ではなくて、大正一桁の生まれだった。戦前に青春時代を送り、しかもモダニズムに触れたことは、それほど大きなことだった。
長澤さんのお母さんの方も、田舎の出とはいいながら、ロマン・ロランやジッド、リルケなどを、口にすることがあった。これはほとんど、夫婦の一つの理想ではないか。
加藤克巳は、親の代で起こしたミシン会社を継いで、経営したから、歌人の顔と、二つ使い分けるのは大変だったろう。
しかし長澤さんは、父親が焦った顔をしたのは、見たことがない。
「父は毎日判で押したように同じ順番、同じ姿勢、同じ顔で仕事をこなし、原稿を書いた。・・・・・・
父は毎日の『ルーティン』を決して崩さず、『表(ひょう)』にチェックを入れることでふたつの異なる生活を自分の中で仕分けし、冗談や笑いでバランスをとっていたのではないか。」
このあたりは、家族でなければ、しかも娘でなければ、書けないところだ。
また父のこんなところも、やはり肉親でなければ書けない、重要な点だろう。
「人についても分けへだてがない。網走の小料理屋で見かけた包丁研ぎ師も、ケネディ大統領も、工場のパートさんも、通産省のお役人も、新聞の歌壇に投稿する在野の歌詠みも、斎藤茂吉も、父の中では同じ地平に存在するのであり、ヒエラルキーというものがない。なにしろ、父の感性にとって『面白い』ことが最も重要な基準なのだから。」
ここが要なのだ。
「これは、昭和のある時期に、家で子どもたちをよく笑わせてくれた面白い父親のものがたりである。」
戦前の「威厳ある昭和の父」とは、まったく関係のない、快活な物語が始まる。
長澤さんは幼い頃から、父に、「面白い」とか「ステキだ」という言葉を、聞かされて育った。ひょっとすると父は、自分に向かって、そう言っていたのかとも思う。
「世界がそんなに『ステキ』で『面白い』ことに満ちていないのは、大人になるにつれ私もだんだんと知るようになる。しかし身体に刻みこまれたこの長調のトーンは今手でもふと蘇ることがあり、心がやわらぐ。」
「昭和の父」でも、こんな人もいるんだ。いや、昭和ではなくて、大正一桁の生まれだった。戦前に青春時代を送り、しかもモダニズムに触れたことは、それほど大きなことだった。
長澤さんのお母さんの方も、田舎の出とはいいながら、ロマン・ロランやジッド、リルケなどを、口にすることがあった。これはほとんど、夫婦の一つの理想ではないか。
加藤克巳は、親の代で起こしたミシン会社を継いで、経営したから、歌人の顔と、二つ使い分けるのは大変だったろう。
しかし長澤さんは、父親が焦った顔をしたのは、見たことがない。
「父は毎日判で押したように同じ順番、同じ姿勢、同じ顔で仕事をこなし、原稿を書いた。・・・・・・
父は毎日の『ルーティン』を決して崩さず、『表(ひょう)』にチェックを入れることでふたつの異なる生活を自分の中で仕分けし、冗談や笑いでバランスをとっていたのではないか。」
このあたりは、家族でなければ、しかも娘でなければ、書けないところだ。
また父のこんなところも、やはり肉親でなければ書けない、重要な点だろう。
「人についても分けへだてがない。網走の小料理屋で見かけた包丁研ぎ師も、ケネディ大統領も、工場のパートさんも、通産省のお役人も、新聞の歌壇に投稿する在野の歌詠みも、斎藤茂吉も、父の中では同じ地平に存在するのであり、ヒエラルキーというものがない。なにしろ、父の感性にとって『面白い』ことが最も重要な基準なのだから。」
ここが要なのだ。
内側から見れば――『庭のソクラテス―記憶の中の父 加藤克巳―』(1)
著者の長澤洋子さんとは、古いつきあいになる。長澤さんは、朝日カルチャーセンターで、長く要の位置にいて、というか要職を占めていて、僕は、著者が話題の本を出したときには、必ず長澤さんに、講師としてどうか、という相談をした。
『14歳からの哲学』の池田晶子さんや、『明治思想家論』『近代日本と仏教』の末木文美士さん、『父が子に語る日本史』の小島毅さんのときなどは、本当にお世話になった。
『チョムスキー、世界を語る』では、翻訳者の田桐正彦さんが、チョムスキーをもってくるわけにはいかないので、代わって弁じた。
数え上げれば、切りはない。宣伝力の非力な小出版社にとっては、本当に頼りになる存在だった。
考えてみれば、長澤さんとはまったく同じ歳で、同じ年代を生きてきたので、読む本や著者に、重なりがあったとしても、不思議はない。長澤さんとは、そういう付き合いである。
その長澤さんが、歌人の加藤克巳の娘さんだとは、全く知らなかった。女性は結婚すれば、姓が変わるので、これはしょうがない。
しかしもう一つは、加藤克巳という、シュールレアリスムの影響を受けた、モダニズムの歌人と、長澤さんとが、上手く結べなかったためでもある。
作品だけを見ていると、加藤克巳という人は、鋭角的で、尖った人なのだ。
加藤克巳は1915年生まれ。國學院大學で折口信夫の薫陶を受ける。学生時代に新芸術派短歌運動に加わり、1937年、22歳で、第一歌集『螺旋階段』を出版する。
1970年には、第四歌集『球体』で第四回迢空賞を受賞している。その『球体』から一首、引いておく。
「病む地球 ささってにがき裸木々 黄いろい太陽どろんとおちる」
加藤克巳は2010年、94歳で没するまでに二十冊の歌集を刊行した。他に現代歌人協会理事長、歌会始召人などを務めた。
短歌の内容といい、歌人として纏っているものといい、長澤洋子さんとは、なかなか結びつかない。
『14歳からの哲学』の池田晶子さんや、『明治思想家論』『近代日本と仏教』の末木文美士さん、『父が子に語る日本史』の小島毅さんのときなどは、本当にお世話になった。
『チョムスキー、世界を語る』では、翻訳者の田桐正彦さんが、チョムスキーをもってくるわけにはいかないので、代わって弁じた。
数え上げれば、切りはない。宣伝力の非力な小出版社にとっては、本当に頼りになる存在だった。
考えてみれば、長澤さんとはまったく同じ歳で、同じ年代を生きてきたので、読む本や著者に、重なりがあったとしても、不思議はない。長澤さんとは、そういう付き合いである。
その長澤さんが、歌人の加藤克巳の娘さんだとは、全く知らなかった。女性は結婚すれば、姓が変わるので、これはしょうがない。
しかしもう一つは、加藤克巳という、シュールレアリスムの影響を受けた、モダニズムの歌人と、長澤さんとが、上手く結べなかったためでもある。
作品だけを見ていると、加藤克巳という人は、鋭角的で、尖った人なのだ。
加藤克巳は1915年生まれ。國學院大學で折口信夫の薫陶を受ける。学生時代に新芸術派短歌運動に加わり、1937年、22歳で、第一歌集『螺旋階段』を出版する。
1970年には、第四歌集『球体』で第四回迢空賞を受賞している。その『球体』から一首、引いておく。
「病む地球 ささってにがき裸木々 黄いろい太陽どろんとおちる」
加藤克巳は2010年、94歳で没するまでに二十冊の歌集を刊行した。他に現代歌人協会理事長、歌会始召人などを務めた。
短歌の内容といい、歌人として纏っているものといい、長澤洋子さんとは、なかなか結びつかない。
どういうふうに考えたらよいのか――『黙殺―報じられない〝無頼系独立候補〟たちの戦い―』(2)
では「泡沫候補」、ではなくて「無頼系独立候補」なんて、どうでもよい、歯牙にもかけないものとして、無視していいんだろうか。
問題は世襲議員の存在だ。このままずっと、「無頼系独立候補」が無視されたままだと、既存の政治家や、その後継者しか、選挙に出て、勝つことができなくなる。
じっさい衆議院議員の選挙など、これが平成の選挙かと疑うばかり、各地方の「大名」の跡取りと見まごうばかりの面々が、ずらっと並んでいる。これは別に、都会であっても、田舎であっても変わらない。
そしてたとえば、第二次安倍晋三内閣の、最初の閣僚19人のうち、11人は世襲議員だった。これは形を変えた、薩長による「幕藩政治」と言えないだろうか。
著者の言う通り、「『新規参入』や『成り上がり』の可能性がない業界は、必ずと言っていいほど衰退する。」
問題は、その衰退を加速させるのが、「無頼系独立候補」なんかどうでもよいとする、マスコミだという点だ。
また日本の選挙には、もう一つ、特殊な面がある。それは「供託金」という、前払金の問題である。
「たとえば衆議院の選挙区、都道府県知事選は300万円。政令指定都市の首長選の場合は240万円。国政の比例で選挙に出ると600万円もかかる。」
供託金は、アメリカやフランス、ドイツでは存在しない。イギリスでも7万5000円程度だという。
欧米に倣うのが、この国の常なのに、供託金の多寡だけは、日本が群を抜いている。「売名行為での立候補を抑制するため」と言うのが表向きの理由だが、本当のところはわからない。
当初は「社会主義的な思想を持つ立候補者が国政に進出することを阻むことにあった」という説があり、どうやらこれが当たっているみたいだが、本当のところはよくわからない。
だいたい、いくら供託金を上げてみても、売名行為はなくなりはしない。当面、供託金をかぎりなく0に近づけることが、政治の世界を活性化するための、数少ない切り札となろう。
この本の大半は、こんな変わった候補がいます、という話である。あげくの果てには、「公約は当選してから発表する!」と、声を高ぶらせた候補もいるという。その候補によれば、どうせ通らないから、という。
著者は終わりのところで、こういうふうに総括する。
「投票理由は『政策』と言っているのに、実は誰も政策をしっかり見ていない。そんな現状に危機感と苛立ちを覚えたからこそ、無頼系独立候補たちは思い切った行動に出ているのだ。」
確かに、思い切った行動に出ているかもしれない。しかしそれは、現状を鑑みて、それに対抗して知恵を絞りだしている、というのとは違うと思う。
(『黙殺―報じられない〝無頼系独立候補〟たちの戦い―』
畠山理仁、集英社、2017年11月29日初刷、12月19日第2刷)
問題は世襲議員の存在だ。このままずっと、「無頼系独立候補」が無視されたままだと、既存の政治家や、その後継者しか、選挙に出て、勝つことができなくなる。
じっさい衆議院議員の選挙など、これが平成の選挙かと疑うばかり、各地方の「大名」の跡取りと見まごうばかりの面々が、ずらっと並んでいる。これは別に、都会であっても、田舎であっても変わらない。
そしてたとえば、第二次安倍晋三内閣の、最初の閣僚19人のうち、11人は世襲議員だった。これは形を変えた、薩長による「幕藩政治」と言えないだろうか。
著者の言う通り、「『新規参入』や『成り上がり』の可能性がない業界は、必ずと言っていいほど衰退する。」
問題は、その衰退を加速させるのが、「無頼系独立候補」なんかどうでもよいとする、マスコミだという点だ。
また日本の選挙には、もう一つ、特殊な面がある。それは「供託金」という、前払金の問題である。
「たとえば衆議院の選挙区、都道府県知事選は300万円。政令指定都市の首長選の場合は240万円。国政の比例で選挙に出ると600万円もかかる。」
供託金は、アメリカやフランス、ドイツでは存在しない。イギリスでも7万5000円程度だという。
欧米に倣うのが、この国の常なのに、供託金の多寡だけは、日本が群を抜いている。「売名行為での立候補を抑制するため」と言うのが表向きの理由だが、本当のところはわからない。
当初は「社会主義的な思想を持つ立候補者が国政に進出することを阻むことにあった」という説があり、どうやらこれが当たっているみたいだが、本当のところはよくわからない。
だいたい、いくら供託金を上げてみても、売名行為はなくなりはしない。当面、供託金をかぎりなく0に近づけることが、政治の世界を活性化するための、数少ない切り札となろう。
この本の大半は、こんな変わった候補がいます、という話である。あげくの果てには、「公約は当選してから発表する!」と、声を高ぶらせた候補もいるという。その候補によれば、どうせ通らないから、という。
著者は終わりのところで、こういうふうに総括する。
「投票理由は『政策』と言っているのに、実は誰も政策をしっかり見ていない。そんな現状に危機感と苛立ちを覚えたからこそ、無頼系独立候補たちは思い切った行動に出ているのだ。」
確かに、思い切った行動に出ているかもしれない。しかしそれは、現状を鑑みて、それに対抗して知恵を絞りだしている、というのとは違うと思う。
(『黙殺―報じられない〝無頼系独立候補〟たちの戦い―』
畠山理仁、集英社、2017年11月29日初刷、12月19日第2刷)