この番組だけが違ってた――『久米宏です。―ニュースステーションはザ・ベストテンだった―』(1)

これは語りを起こしたものだが、抜群に面白い。久米宏の、メデイアと関わった半生記を辿るが、読ませどころは「ニュースステーション」の悪戦苦闘である。勃興期から、最盛期、爛熟期を経て、マンネリ化し、何とか終わりが見えるまでの、18年と半年、これが実に読ませる。

久米宏は、早稲田大学を出て、ひょんなことから難関を突破して、TBSにアナウンサーとして入る。

ところがあろうことか、狭いブースで、マイクロフォンの前で話ができなくなる。ストレスと過緊張で神経性の胃腸炎になり、食事が喉を通らなくなり、栄養失調から肺結核に罹る。

久米は会社には出るものの、闘病中でやることがないから、ひたすら他人の放送を聞いて過ごす。

「あれだけ他人の放送を真剣に研究したことは後にも先にもない。先輩や同僚のアナウンスを聴いて、その感想をリポートにして会社に出すことが毎日の日課だったからだ。自分が抱いた印象や評価を言葉にするためには、集中して耳を傾けざるを得なかった。」
 
こうして二年半の闘病期間中、人のしゃべりを聴きまくって、久米は一つの結論に至る。誰にも真似のできないことをやろう、それには、「生活感のないアナウンサー」を目指そう、と。
 
でもそもそも結核の間じゅう、久米はなぜ、アナウンス室から異動を命じられたり、場合によってはクビになったりしなかったのだろうか。これは久米にも謎である。のちに革命的なことをやる人には、どこかで、信じられない幸運が訪れるものだ。
 
結核が治りかけたころ、TBSラジオの『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』で一つの仕事を与えられ、それがうまくいって、後にパーソナリティーを務めるようになる。
 
この『土曜ワイド』には、番組が始まる1970年にリポーターとして関わり、番組が終了した1985年まで出演し続けた。だから久米宏のもともとの本籍は、テレビではなくて、ラジオにあるのだ。
posted by 中嶋 廣 at 18:42Comment(0)日記